それでもいい
王都にある最も大きな宮殿は、昔は王宮と呼ばれていた。
そこには王族と呼ばれる支配者が座り、国と民を導いたと言われている。
今は玉座に王はおらず、そこに座っているのは、頭部を棘のある鉄線で巻かれた男だ。
――世界改変。
その代償は大きかった。
かつてゲイザーと呼ばれた賢人も、今はもうかろうじて人間の形をとどめるのみに至っている。
「ゲイザー様、お顔をお拭きします」
その傍らに立つのは、ゲイザーと対照的に綺麗に着飾った金髪の女性だ。
名をケイティアという。
以前まで彼女はイライアの母親だった。
ケイティアは献身的に、ゲイザーの頭部から漏れ出す、粘ついた液体を拭きとる。
いくら拭き取ってもきりがなさそうに見えるが、やがてはその噴出が止まる。
これはゲイザーの持つ魔力が液体となって流れ出ているのだ。
一日に三度ほど、こうしてあふれ出る時間がある。
ケイティアは、敬愛するゲイザーの魔力を拭きとることに至上の喜びを覚えていた。
「終わりました。少し、席を外させていただきます」
一礼して、彼女は宮殿の地下へと向かう。
鼻を覆いたくなるほどの臭気が立ち込めているが、ケイティアは顔をしかめることなく進む。
ここは嫌いだ。
醜悪で、人間の汚い部分にまみれている。
だが、だからこそ、この世界を支えるにふさわしい。
「あああああ! 助けてくれ! 理解が終わらない!」
「全てが! 全てが理解できる!」
そう吠えているのは、二匹の肉塊だ。
今、魔力大結晶を担当しているただの保管庫。
彼らは命が尽きるまで知識の収集を続け、やがては衰弱死する運命にある。
その他にも、多数の肉塊がここにはいる。
洞窟の風の音のような、およそ人間のものとは思えない苦しみ呻く声がいくつも聞こえる。
地下にいるのは、いずれも終身刑の決まっている囚人たちだ。
贄は罪人である必要がある。
この世界が清らかで美しいものであるために。
「ケイティア様」
彼らの管理をしている五星団の若い男が声をかける。
彼の名前は覚えていないが、仕事をこなしているのならそれでいい。
「火の魔力大結晶と水の魔力大結晶の保有者がそろそろ尽きます」
「すぐに次を補充させます」
「すでに、犠牲者は二百人を超えています。このままではいずれ……」
「いずれ、何でしょう。扉さえ開けばそんな些細なことは気になりません。あなたは仕事を全うしなさい」
様子を見終わったケイティアが上階へ戻ろうとすると、ふたりの男が降りて来た。
「うわ、やっぱり臭いがきついな」
「ケイティアさん、お久しぶりです」
「リゲルとジュイチか」
ノークロースを出立したと十数日前に連絡があった。
今頃着いたのか、とケイティアは落胆のため息をつく。
「狂死郎が魔力大結晶をロアに譲ったと聞きました」
「ああ、聞いたよ。つか、事前にそうなるかもしれないって言ったろ」
彼は反抗的な態度でそう言う。
気に食わないところの多い男だ。
「――狂死郎は適格者ではなかった、ということです。あなたが彼女をこちらに引き込んだ。責任をどうやってとるつもりですか?」
「そもそもロアが出てくる前提はなかっただろ。不確定要素から責任を問われてもな」
「恥を知りなさい。狂死郎は五星団に命をかけていなかった。それを知っておきながら放置したのはあなたです」
ケイティアは喋りながら、彼らの脇を通って上階へ向かう。
ふたりは後ろをついてきながら話を続ける。
「狂死郎の件はここで文句を言っても仕方ねえだろ。それにフォローするために俺たちはここに来たんだ」
「不思議なことを言いますね。まるでロアがここへ向かっているかのような」
「最終的にはこっちに来るだろ。狂死郎のところでこっちの目的も知ったはずだしな」
五星団の目的。
月の扉を開き、この世界の理を作り直すこと。
それを行ったとしても、彼女自身に危害が加わることはない。
天蓋の大魔女ロアのことはケイティアも聞いている。
利己的で飽きやすく、他人に干渉されることを拒む。
だからこそ、邪魔をしにくるような人間だとはどうしても思えない。
「しかし彼女は穏健派で世捨て人だと聞きます。大義のために動くことがありますか?」
「そこは読みだ。大義のために動くことはないが“ついで”でなら動くかもしれない。今のロアは世の中を見て回ることに行動の基点をおいている。子供を連れた旅で王都に寄るのがそれほど変だとは思えない。それに、ゲイザーの行った大規模な改変のせいでこの国の外には何も存在しない。旅行しようにも向かえる先は限られているだろ」
彼の主張にはある程度の筋が感じられる。
とはいえ、彼もしばらくロアとは会っていないのだから、今の彼女が過去の彼女と同一の性格をしている確証はない。
「改変自体に嫌悪がないと考えるのは早計ではなくて? 五星団に対して敵意を持って向かってきているとしたら、あなたは戦える?」
「だから、そのために来たって言ったろ。少なくとも俺やジュイチは五星団の方に味方している」
「忠誠心があると心から口にできるか?」
「忠誠心よりももっと確かなものだ」
彼らが望むものも、ケイティアと同じものだ。
それが変わらない限り、彼らは信用できる。
狂死郎にはそもそも望む未来というものがなかった。
ただ他にやることがないから、守護者の椅子に座っていただけにすぎない。
大義のない人間に魔力大結晶を預けるべきではなかったのだ。
「月の扉さえ開けば『時』が手に入るんだろ? その時に大結晶を誰が持っているかなんて些細な問題だ」
リゲルが言い逃れをするようにそう言う。
たしかに、扉さえ開けば、魔力大結晶は必要なくなる。
新たな理を引き入れて、時間を巻き戻し、それぞれが過ごしたかった人と過ごせる。
失った時間を取り戻せるのだ。
「あなたたちに本気で扉を開く気があるのか、はなはだ疑問です」
「俺は恋人に会いたくて、ジュイチは両親に会いたい。その気持ちに嘘はない」
彼らが死に別れたのは、恋人と親。
ケイティアが死に別れたのは、イライアという名の聡明な娘。
両親や夫を失ったことはまだ耐えられた。
しかし、娘を失うことには耐えられなかった。
家系に流れる雷の魔力が彼女の体と心を蝕んでいたのだ。
彼女のことをもっと早くに理解していれば、違う対処も考えられただろうに。
――彼女は病気だったのだ。
溢れ出す魔力を止めることのできない病。
彼女を蝕むだけでは済まなかった。
やがて彼女を止めることさえできなくなり、この手で殺すしかなかったのだ。
娘を産み育てた、この手で。
ライトと壱式は、部下たちに指示を出しながら、アジト移設のための準備を行っていた。
周辺の地形、治安、町とのアクセスなど、考えなければならないことがたくさんある。
これまでボンバイのやっていたことをふたりで分担して行っているものの、不慣れであるため慎重に事を進めていた。
今度のアジトは以前よりも南の方へ構えることにした。
これまでフェアレスが手を伸ばしていなかった地域だ。
再出発するには丁度いいだろう。
壱式とライトが地図や資料を見比べながら会議をしていると、扉がノックされた。
「……よう」
「弐式、無事だったか」
弐式は腕を負傷しているのか、包帯で巻いて肩から吊るしている。
それに、どことなく覇気もなかった。
「やられた。完敗」
弐式はそう小さく告げながら、空いている椅子にドカッと座る。
「……そうか。センについてはどうだった?」
「ロアがやるから手を出すなってさ」
「それで納得できたのか?」
「せざるを得なかった」
弐式はどことなく覇気がなく、吐き捨てるように言う。
「突然ですまん。お前らも忙しそうだし、要件伝えたらすぐ帰るよ。私と肆式は抜ける。それだけ伝えに来た」
ライトは少しだけ動揺したが、予想できていたことでもあった。
元々暴れるためだけに残っていた弐式と、居場所を求めていた肆式だ。
他に理由さえあれば、辞める選択は十分に考えられる。
「それは、理解して言っているんですよね?」
ライトは言う。
「――ああ。縁切りする」
「肆式はここにいないようですが」
「……私がふたり分すればいいだろ」
弐式は手をそっと机の上に置く。
「右手の親指と、ひとさし指でいいか?」
淡々と進めようとする弐式に、ライトはため息をつく。
「詳しく教えてくださいよ。どうしてそこまで思いきった行動をとれるようになったんですか? らしくないですよ」
弐式らしくない。
負けたから傷心して辞めるなんてこととは無縁だと思っていた。
「――はっきり、未熟だって言われたのさ。今まで力に自信があったし、勝てない相手はいないと思っていた。でもそれは、自分より弱い相手としか戦ったことがなかっただけだったんだ。強いやつってのは、勝ちだけじゃなくて負けも経験してるもんなんだと。……正直、落ち込んだよ。だから、私はもっと強くなりたい。そのためにはフェアレスにいるだけじゃダメだ。もっと、経験を詰む必要がある」
「……そうか」
それが、彼女なりに考えた結論なのだ。
今ここで言葉をかけても聞くことはないだろう。
ならば、せめて背を押すくらいはしてやる。
ライトはテグスで弐式の指の付け根をきつく縛った。
「……指を落とすなら、ちゃんと止血しないと部屋が血まみれになるじゃないですか」
「ああ、ありがとう」
弐式は自分の懐からナイフを取り出して、そっと指に当てる。
頭ではわかっていても、そう簡単に決断できるはずもない。
彼女の額に脂汗が滲む。
「クソがァ!」
勢いに任せて、彼女はナイフを振り下ろす。
ライトは自分でもそうする、と半ば祈るような気持ちで目を伏せる。
「――は?」
視線を戻すと、弐式のナイフは壱式の持つ鉄の棒に止められていた。
壱式の鉄棒は、片手で弐式の振り下ろしたナイフを止めて、それでもなお、ブレずにその位置を維持している。
「壱式、何のつもりだ」
「もういい。こんなものは茶番だ」
「ふざけんな! 私になあなあで済ませろって言うのかよ!」
「なあなあで済ませろ、とは言っていない。だが、強くなるためにフェアレスを抜けると言っている人間が、そう簡単に自分の武器を失うような真似をするのか?」
壱式は鉄棒を懐にしまう。
「縁を切る必要はない。俺はもう誰も失いたくない」
「てめー、いつからそんな弱っちくなったんだ!」
弐式は覚悟をあざ笑われたかのように怒り、吠えた。
ライトも自分がそう対応されたら同じく怒っただろう。
彼女の気持ちは痛いほどによくわかる。
「――弱さかもしれない。それでもいい」
壱式は呟く。
その表情は痛ましかった。
「弐式、肆式と共に新たな任務を与える。人生を謳歌しろ。期限は無期限とする」
「は、はあ? そっちの方がよっぽど茶番じゃねえか!」
「茶番で結構。たまには顔を出せ。俺は仕事に戻る」
壱式はそう言って、納得のいかない表情の弐式を置いて部屋を出る。
「……ふざけんな」
弐式もまた、小さくそう呟く。
ライトには壱式の姿が以前よりも大きく見えていた。
ボンバイという頭を失い、自分が代わりになる覚悟をしたのがわかった。
「やられましたね」
「お前に言われるのは腹が立つ」
「いや、立派ですよ。ふたりとも――肆式も入れて三人ともですか。もう立派にひとり立ちしてる。僕だけが進退を決めかねてる」
「壱式についていけよ。間違いないだろ」
「それ、思考停止じゃないですか?」
「進路が見つかるまで停止してりゃいいじゃねえか。問題あるのかよ?」
弐式は当然のように言う。
そういう考え方もあるのか、とライトは少し気持ちが軽くなった。
ひとりだけ置いて行かれているような、重荷の存在を常に感じていた。
それが少しだけ、軽くなったような気がしたのだ。
「だいたいよ、お前は考えすぎなんだよ」
弐式は手の感覚を確かめるように握ったり開いたりしながら言う。
「フェアレスに留まるか離れるか決めるだけでも、死ぬほどその後のこと考えたりしてるんだろ。そんな先のことなんか誰にもわかりゃしねえのに」
「起こるかもしれないことを予測するくらいは誰でもやるでしょう」
「じゃあ、私が壱式に止められることを予測できていたのか?」
迷わず弐式の指を落とす手伝いをしたことを思い出す。
「な? その程度なんだよ。予測なんてな」
「行き当たりばったりは、性に合わないんですけどね……」
「性に合うとか、合わないとかじゃないんだよ。世界ってそういう風にできてんだろ」
ライトは白けた目を弐式に向ける。
「な、何だよ」
「そういうセリフ、あなたからだけは聞きたくないです」
「ああ? あー、劣等感、持ってるのか? 私らに?」
弐式はライトの顔を覗きこんでそう言う。
ライトは顔をそむけて手で払った。
「さっさと帰った方がいいですよ。僕らもまだ仕事がありますし、もうすぐフェアレスの部下たちが荷馬車を引いてここに来ます。ボスはいませんが、見つかると面倒ですよ」
「荷馬車?」
「王都へ要らない人間を送り届ける仕事ですよ。五星団との最後の仕事。わかったら早く行ってください」
「そうか。押しつけちまったな」
「謝らないでくださいよ? 今度こそ怒りますから」
「はいはい、じゃあ私は消えるよ。……またな」
弐式は窓から外へ飛び出す。
あっという間に森の中へ姿を消した。
もしかしたら肆式も近くにいたのかもしれない。
「あんな人に上回られるのは、本当に癪ですね」
ライトは独り言を呟き、ついでに大きくため息もつき、壱式の元へと向かった。
壱式は荷馬車を迎え入れる準備や、その後の経路の確認を行っていた。
「行ったか?」
「ええ、行きました。僕らも仕事をしましょう」
「俺たちの仕事は護衛だが、油断はするなよ。五星団に敵対勢力などいないとはいえ、何が起こるかわからない」
「ええ、何が起きても対応できるよう、準備はするつもりです。ああ、それと、あの魚の精霊、僕にも貸していただけませんか?」
「使うのか?」
「使えるものは使おうと思って。魔法も、勉強するべきかもしれません」
「……変わったな」
「変わらないといけない、と思っただけです。まだ行動してませんしね」
ライトは照れ隠しに笑う。
試行錯誤して、自分の進むべき道を探すことに決めた。
それがどこにあるのかわからないが、知識を増やせばそのうち見えるかもしれない。
「せっかくだ。やる気を出したお前に渡しておく」
壱式が手渡したのは、以前使った黄金の仮面だ。
以前別の男に使わせたことのある、爆破の力を持つ精霊を強制的に封じ込めた呪具のようなものだ。
その時の男はこちらで始末をして、仮面だけを回収していた。
「お前なら上手く使えるだろう」
「……使うようなことになりたくありませんけどね」
「何でもやるのだろう?」
壱式は含みのある言い方をする。
それについて、ライトは深く考えなかった。




