理由がある
イライアは、今日が何日目かわからなくなっていた。
時間だけは分かるものの、日付の感覚は完全に狂った。
いつまでたっても獣道と森と川と湿地とうだるような暑さと湿気と緑が終わらない。
(まるで悪夢……)
ロアとシーリントルは相変わらずふたりだけにしか見えない世界を見ているようで、全然言葉も交わさないが、それでもさりげなくイライアの歩調に合わせて進んでくれている。
荷物にはなるまいと自身を顧みずに奮起しようとすると、すぐにバレて叱られてしまう。
ロアもいる安心感からオークのことなどすっかり忘れていたが、この山林はまだ安全な場所じゃないのだ。
「おい、集落が見えたぞ」
突然、ロアが言う。
その瞬間、イライアは春雷を使って列の先頭へ移動した。
「見えた? どこ?」
イライアの目には未だ続く鬱蒼とした茂みしか見えない。
「ほんとだ。柵があるね」
シーリントルもロアと同じように、何かが見えているような雰囲気で言う。
「あの、何も見えないんだけど」
「あ、そっか。えっと、あと十キロくらい先かな」
「まためちゃくちゃなこと言うわね! 十キロ先の集落なんて見えてたまるものですか!」
「まあまあ」
シーリントルがなだめる。
彼女たちの言う『見えた』とは何も視力によるものだけではないことを意味しているのもわかっている。
だから、イライアも感覚を鍛えれば同じことができるはずなのだ。
しかしそれは、この場ですぐにどうにかなるものでもないため、イライアはやり場のないもどかしさを感じなければならなかった。
目的地が近いことがわかって、少し気分が前を向き、ただひたすらに歩みを進めて、日が沈みかけたころ、イライアの目にも集落の灯りが見え始めた。
「あ、あった! 本当にあった!」
喜ぶイライアを他所に、ロアが静かに足を止める。
「ふむ。しかしここが安全かどうか調べなくてはな。また変な連中が襲ってこないとも限らん」
「そうだね。でも、ここは本当に誰にも言ってないんでしょ?」
シーリントルが聞くと、ロアはそうではないと首を振る。
「言っていないが、知っている可能性はある。そういう精霊を使役していないと証明できない以上、何が起こっても然るべきと考えるのが妥当だ。まあ、鼻の良さはお前たちも持っているし、最悪の事態は起こらないだろう。さてまずはどうやって怪しまれずに村へ入るかが問題だな」
言われてみれば、確かに自分たちは妙な一団なのだ。
ベルツェーリウス側から山の中を歩いてきた子供たちが来訪したら、たとえ疑われなくても、変に思われるのは当然である。
自己修復されるロアとは違って、イライアとシーリントルはところどころすり傷があり、服もボロボロになっていて、これではまるで山に捨てられた子供のようだ。
「イライア、何か妙案はあるか?」
「な、なんで私なのよ」
「そういうのが得意かと思ってな」
「そういうのって……。そうね。私が思いつくのは、人さらいから逃げ出してきた、もしくは遭難したってところかしら。でもこのふたつは、通報されてトラブルになるかもしれないから、あまり良い手とは言えないわね」
「小さな村だからな。儂が医療協会へ話を通せと言っても通らないかもしれん」
「それにそれってあんまりしたくないことでしょう? 向こうにこっちの居場所がわかっちゃうし。だったら、旅?」
「それこそ無理だな。そんな子供がいるわけがなかろう」
「あの時みたいに実力で黙らせればいいじゃない」
「あれは相手の理解力を逆手にとった方法だ。無知な者には効果がない」
あれもダメ、これもダメだと言われ、イライアはうんざりしてため息をつく。
「じゃあ、同情でも誘う? 私が家を抜け出したのと同じ言い訳使えば匿ってもらえるんじゃない?」
「それでいくか」
「呆れた。シー、他には何かない?」
「私はイライアちゃんの案でいいよ。それにダメだったとしても無理に村へ入ることもないと思うし」
「……いや、私はさすがにそろそろ人の気配のあるところで寝たいわ」
あっけらかんとするシーリントルへ向かって、イライアはそう言った。
集落へ近づくと、シーリントルが不安そうな顔をしているのがわかった。
この何の変哲もない木の柵が、彼女をそうさせているようだ。
ロアが、いの一番に村へ入ろうとするのを止めて、イライアはその辺を歩いていた男に話しかける。
自分たちの境遇と、少しの間泊めてもらえないかと相談した。
彼はイライアたちを最初は怪しんでいたが、子供三人を無視するわけにもいかないと思ったのか、相談してくるから少し待っていろと言って姿を消した。
十数分後、優しそうな女性が慌てて駆けてくるのが見えた。
作戦は成功と見て間違いないだろう。
心の中でごめんなさいと唱えながら、イライアは彼女からの抱擁をされるがままに受け取った。
「つらい目にあったのね。三人ともいらっしゃい。まずはお風呂にしましょう」
「儂は風呂は――」
「はい! ありがとうございます! お世話になります!」
イライアはロアの言葉を遮って、少し大きめの声で感謝を述べて、彼女の家に招かれることにした。
彼女は何も聞かず、ただ風呂の準備をしてくれて、イライアたちも数十日ぶりに体中の垢を落とし、ようやくさっぱりと綺麗になった。
風呂に入っている間に、着替えも用意してくれていたが、男性用のシャツとズボンで、イライアには少し大きく、シーやロアにはかなり大きかった。
「ごめんなさい。子供服がなくて……。私の服だと裾が長すぎて引き摺っちゃうからと思ったのだけれど」
「いえ、ありがとうございます。服はまくれば大丈夫です。ね、ふたりとも」
ふたりに目をやると、ロアは男性用のシャツだけを着て、ズボンは畳んでいた。
「儂はこれでよい。シーリントルはどうする?」
「私は、それは、ない、かな」
シーリントルはロアを見て引きつった笑みを浮かべる。
さすがにそこまで品位を捨てることはできないようで少し安心する。
「何か縛るものってありますか?」
「紐でよければあるわ」
渡された麻の紐で、シーリントルは上手に丈が合うように調節していた。
「そういえば、自己紹介もまだでしたね」
食事を用意するために鍋を温め始めた彼女に話しかける。
「私はイライア、こっちはロア、シーリントルです」
「はじめまして。私はナズナ。この村の村長です」
「村長ですか。お若いのに……」
「若さはあまり関係ないのよ。この村ではね」
彼女はいたずらっぽく笑う。
「だからこの村で誰かがあなたたちに危害を加えることは絶対にないわ。三人ともゆっくりしていきなさい。家出の最中なのでしょう?」
「お言葉に甘えさせてもらいます」
ナズナには不思議な雰囲気があった。
見た目の年齢は二十歳くらいに見えるが、その振る舞いはもっと大人びていて、母親のような柔らかさがある。
とはいえ、イライアも母親という存在に対する幻想を持っておらず、何か理由がないとこういう振る舞いは出来ないと考え、ほんの少しの警戒心を抱いた。
そしてそのわずかな警戒心は、食卓に出された温かいシカ肉のシチューと石窯で焼かれたパンによって、無残にもすっかり押し流されてしまった。
夜になり、三人はナズナに案内された小部屋へ向かった。
大きなベッドが一台あり、他にはクローゼットがあるだけの部屋だ。
彼女は、来客用のベッドはひとつしかないと説明した。
しかし三人が寝るには十分な大きさがあったため、イライアは問題ないと返した。
壁には魔法石を動力源としたランプが灯されているが、仄かに薄暗い。
ナズナが立ち去ったあと、ロアが部屋を見て呟く。
「……妙だ」
「何が?」
「なぜ、飯や部屋の用意がある。常に来客があるような場所でもあるまい。事前に知っていたのか?」
「疑いすぎじゃない? 善意かもしれないでしょ」
何の根拠もないため、ロアも断言できずにはいるようだ。
少なくとも、イライアは彼女の行動に不審なところは感じなかったし、言動も嘘はついていない様子だった。
ロアは納得のいかない顔をしながらも大きなベッドに横になる。
「…………」
「その無表情は何よ」
「これ、すごいな」
ロアが手の平でベッドを押し込む。
すると、まるで包み込むように沈んだ。
不思議な光景を目にして、イライアもベッドに腰をかけた。
「わ、わ、すごい。なにこれどうなってるの?」
お尻の形にベッドの表面が吸いつくようにして、浅く沈んだ。
藁や羽毛とは明らかに質感が違う。
シーリントルがシーツの端をめくると、木の枠に白い液体のような物体が押し固められるようにして入っていた。
「乳みたいだね」
イライアもシーリントルの隣から覗き、表面をそっとつついてみる。
今にも崩れそうなほど柔らかく、指先の振動が表面を伝って波打つ。
「多分、スライムとかと同じものだと思うけど……」
「スライム?」
「見たことない? こっちの方だとあんまりいないのかな。私、スライム時計持ってるわよ」
荷物をごそごそと漁り、小さなスライムが浮き沈みする板状の時計を取り出す。
「クラゲみたい」
「ほとんど同じものらしいわよ。でもスライムは精霊なの。たしか、人から生まれた精霊で、人工精霊って言ったような……」
「ロアちゃん、そうなの?」
シーリントルが聞くと、ロアは仰向けで大の字になったまま顔を動かさず、天井へ向かって口を開く。
「そうだな。スライムは人工精霊の中でも工業用に特化したものだ。水に浮き沈みする性質は造船にも使われている」
「スライムの数も人が管理してるの?」
「まあ、そういうことだ。人工精霊は発生源が必ず一か所に決まっていてな。この国だと輸入しなければ手に入らない。お前が見たことないのはそういう理由だ。それと、このベッドだが、おそらくはスライムとは関係のないものだろう。流固体という液体と固体の性質が混ざり合ったものがある。儂が若かったころ、貴族の間で流行っていた」
「じゃあ、これってもしかして」
「信じられんほどの高級品だろうな。壊したらとんでもない額になるはずだ」
ふたりは慌ててシーツを戻す。
「賢明だ。ベッドは寝るためのものだ。無闇に触ることはない」
「じゃあ、私たちもそろそろ寝たいのだけど」
「そうか」
「三人寝るのよ? 誰かさんが真ん中で大の字になっていたら、寝られないわよね?」
「そうか?」
「どきなさいって」
「体が動かんのだ」
「気に入ってんじゃないわよ! シー、ロアの手足を閉じて端に転がすわよ」
「うん」
ロアは完全に脱力しており、されるがままに転がされる。
その後、イライアは実際に寝転がってみて、その寝心地の良さに感動し、あっという間に眠ってしまった。
――翌日、三人はナズナの案内で村を見て回った。
彼女は優しく、ひとつひとつ丁寧に何でも教えてくれた。
ただひとつ、村の奥にある大きな家畜小屋を除いて。
「あそこにだけは近づかないでね。そういう決まりだから」
ナズナはそれだけしか教えてくれなかった。
イライアの仄かな好奇心は決まりという言葉で十分諦めきれるものだったのだが、シーリントルはそうではなかったようで、そわそわと落ち着かない様子で、しきりに気にしている。
「こんなところかしら。案内って言っても、大したものはないのよ」
「いえ、とてもいいところだと思います。みんな笑顔ですし」
イライアがそう答えたのは本心からだ。
この村にはおかしなところなどなく、村人の皆が家族のようであった。
「でも、大変そうですよね。こんなところだと行商人だって通らないんじゃないですか?」
「そんなことないわ。ここにも物資を届けてもらえているのよ。さすがに完全な自給自足ってわけにはいかないもの」
「えっ、でも、どうやって? ここって、かなり山の中ですよね?」
「道ならあるのよ。ただすごくわかりにくいから、慣れた人じゃないとダメなの」
へえ、とイライアは感心して頷いた。
この山奥にあるはずのないものがある理由にはなっている。
どれだけ人手があったとしても、専用の設備や材料が必要な金物や魔法の道具はここでは作れないはずだ。
「しかしまあ、これだけ人間がいて、子供がいないのはなぜだ?」
それまで黙っていたロアが問う。
言われてみれば、たしかに、子供の姿がない。
いや、それどころか、ナズナの他に女性の姿がない。
「最初にも言ったけど、ここは特殊な場所なの」
「ずっと感じていた。お前は女王アリのような立場だな」
「……違わないわ。あなた――ロアちゃん。もしわかっても、何も言わないでね。私たちはこうして暮らしている。この先も暮らしていくには、こうするしかない」
「随分と行き詰っているな。……まあ、何もするなと言うなら、何もせん。儂らは旅の途中で立ち寄っただけの身だ。これまでどれだけこの生活を続けてきたのかは知らんが、それを変える義理も権利もない」
「あなた、小さいのに話がわかるのね」
「小さいは余計だ。儂らはしばらく休んだら出て行くつもりだ。だから、そちらもあまり儂らには干渉しないでくれ。人それぞれ理由があるのだからな」
「……そう。わかったわ」
ナズナは寂しそうに俯く。
イライアの良心がうずいて、つい口を開いた。
「で、でも、私たちはナズナさんに嘘はついてません。話してないことはあるけど、でも、家を出て来たのも、山の中を歩いてきたのも本当です。それは、信じてください」
「ううん、大丈夫よ。気を遣わないで。あなたたちがいい子なのはわかっているから。きっと、複雑な事情なのよね。人それぞれ理由がある。その通りよ」
彼女は自分を納得させるように、うんうんと頷いた。
「約束は守るわ。でも、この村にいる間なら、何でも相談してちょうだい。私もできるだけのことはしてあげたいし。欲しいものがあるとか、知りたいことがあるとか、私にできることだったら何でもしてあげるわ」
「どうして、そこまで私たちに……」
「ふふ、本当のことを言うとね、私は家族が欲しかったの。あなたたちを見て、すぐにそれを思いついた。何なら、たくさん尽くしてあげて、ここに住んでもらおうかと思ったの。でも、それはできないのよね」
「家族なら、他の人じゃダメなんですか?」
「言ったでしょう? こちらも事情が複雑なのよ。私は誰とも結ばれることができなければ、子供を生むこともできないの。だから、不可抗力的に、あなたたちを保護したって名目で、ここに住んでもらおうかと思った。嫌な人でしょう?」
「そんなことありません。ナズナさん優しいし、私たちがただの家出娘だったなら、喜んでその提案を受け入れていました」
「ありがとう。嘘でも嬉しいわ」
本音なのに、と付け足しそうになったが、それ以上は彼女を逆に傷つけると感じ、イライアは思いとどまった。
「さて、私はお洗濯とお昼の準備をしてきます。三人は村の外には出ないように」
「あっ、そうだ。そのことでも聞きたいことがあった」
今度はシーリントルが言う。
「どうしてオークのいる森の中に、村があるんですか?」
「…………言えません。ごめんね」
彼女はそう言って、家へ戻って行った。
「最後の最後に核心をついたな」
「え、え? 言っちゃいけなかったの?」
ロアが苦笑いをしているくらいだ。
オークの群れが徘徊する森の中に村がある。
それが、ナズナの言う複雑な事情の一部なのだろう、とイライアも推測した。




