私はすごいの
シーリントルが目を覚ますと、部屋に佇むシュナの姿があった。
体内時計が狂っていなければ、まだ日の出前のはずだが、この部屋に窓や時計はない。
「あの、おはようございます」
シーリントルが声をかけてもシュナは返事をせず、壁にかけられた写真をじっと見ていた。
色あせた海の風景が木製の額縁に入れられて、丁寧に飾られている。
「どこの写真、ですか?」
聞こえているかわからないが、一応、聞いてみる。
「……あなたは、誰? 娘のお友達?」
シュナは首を傾げてこちらを見る。
その顔は、昨日見たものとは違う笑顔で、どこか不自然でぎこちない笑みだった。
そういえば、彼女は病気だった。
認知症というものがどういうものか詳しくは知らないが、変に否定するよりも話を合わせた方が良い気がして、シーリントルは小さく頷く。
「……そうです。海、好きなんですか?」
「海……」
彼女は小さく繰り返して、また写真へ目をやる。
「海、行ってみたいわね。私、海に行ったことがないの。先生が、身体に良くないからって……。でも、聞いたことはあるわよ。とても大きくて、たくさんの水がどこまでも続いているのでしょう?」
「……はい。そうですよ。遠くまで、続いています」
「あなたは見たことがあるの?」
「ありますよ。海は青くて大きくて、潮風はしょっぱくて、屈強な漁師さんたちがいるんです」
「……そう、そうなの。私も、学校を卒業したら、海の見える町に行こうと思っているの。ロアが、ロアがね。旅に出ろって言うの」
「それは、どうして?」
「私のことを、何も知らないやつだと思ってるのよ。あの子だって、山から出て来ただけのくせに」
シュナは目を輝かせながら言う。
シーリントルは彼女の口ぶりが、段々と幼くなっていくように感じた。
目の前にいるのは老婆ではなく、シーリントルと年齢の変わらない少女のようだった。
「私の好きなクッキーを分けてあげたのに、お礼も言わないの。嫌なやつ!」
「そうだね。ロアちゃんは言わないかもね……」
彼女のそういうところは容易に想像がつく。
「だから私、ママ先生に言ったの。ありがとうって言わない子はオオカミに食べられちゃうぞって、ママ先生が言うの」
「そっか。オオカミは怖いね」
「怖い! でも、大丈夫よ。私は電気が出せるの。オオカミだって、やっつけちゃうんだから」
「すごい! シュナちゃんは天才だね」
「そんなことないわ。ロアが魔法の手伝いをしてくれたから、半分はあの子のおかげよ」
「ありがとうって、言った?」
「言ったわ。何回も言った」
シュナはシーリントルの手をとって、はたと動きを止める。
突っ張った目じりと口元が徐々に戻り、表情が消える。
「……私、今何か言った?」
「いいえ、何も」
「……ごめんなさい。今、何時かしら。邪魔をしてしまったわね」
「大丈夫です。今はたぶん、早朝かと。シュナさんは大丈夫ですか?」
「ええ、私はいつもこうよ。脳が異常を検知したらすぐにスイッチが入るようにしているのだけど、それには他人の静電気が必要なの。ごめんなさいね」
「そんなに気を落とさなくても……」
「人は誰だって自分の情けないところは見られたくないものよ。ユーリに頼んで朝ご飯を作ってもらいましょう。あなたもご一緒にどう?」
「え、いいんですか!? いただきます!」
ユーリの料理はとても美味しかった。
思い出すだけで唾液が溢れる。
シュナについて部屋の外へ出ると、朝日が部屋に射し込んでいた。
「ユーリ! どこにいるの?」
家の中は静かで、何の物音もしなかった。
「あっ、そういえばロアちゃんもいない……」
「何かあったのかしら……。ごめんなさいね、もしかしたら私が聞いていたかもしれないけれど、何も覚えていなくて……」
「いえ、そんな。ロアちゃんなら大丈夫だと思いますし。ユーリさんもきっとお買い物とかじゃないですか?」
「ああ、そうかもしれないわ。魚市場が開いてる時間だものね。あら、私の指輪を知らない? たしか、身につけていたはずなのだけれど……」
イライアに指輪をあげたことも覚えていないのか。
病気だから仕方がないとはいえ、大変そうだ。
ユーリが帰って来るのを待とうと、居間の椅子にシュナを座らせていた時だった。
突然、玄関の扉をノックする音が聞こえた。
こんな朝早くに来客があることをシーリントルが訝しんでいると、シュナが立ち上がろうとしたため、慌ててたしなめた。
「私が出ます」
「誰かしら?」
「郵便、じゃないですよね」
もう一度ノックする音が響く。
「はーい、ちょっと待ってください」
扉を開くと、深緑色のマントを羽織った男が立っていた。
顔は見えないが、強いストレスの匂いがする。
「どなたですか? 何かあったんですか?」
聞いても、彼は答えなかった。
その代わり、影に隠れていた顔をシーリントルへ見せる。
彼は、金色の滑らかな面をつけていた。
変な人が来た、と怖気づいていると、彼が手をシーリントルへ伸ばしてきて、反射的に後ろへ跳ねた。
彼からは何の匂いもしないため、何をされそうになったのかわからない。
ただ、危険だけを感じている。
あの手は危ない。
「何ですか? 用事がないなら帰ってください」
彼はシーリントルを追うようにして、一歩、家の中へ踏み込む。
「入らないで!」
シーリントルが彼を押し出そうとすると、背後から大きな何かが飛んできて脇を抜け、彼を突き飛ばして外へ弾き出した。
「騒いでいるようだったから手を貸したのだけれど、余計だったかしら?」
「いや、ありがとうございます」
シュナは古くて所々欠けている杖を手にして、シーリントルの背後に立っていた。
「指輪がどうしても見つからなくて……。部屋にあった杖を借りたのだけれど、誰のかしらね」
「私のじゃないですよ」
シーリントルは視線をすぐに男の方へと戻した。
何をするつもりなのかはわからないが、彼は不気味に立ち上がると、また歩みを進めてきた。
走らないのには理由があるのだろうか。
「逃げましょう、シュナさん。あの人おかしいです」
「どうして逃げるのよ。あんなの相手にならないわよ」
「シュナさん!」
シーリントルの制止も聞かず、シュナは杖を手にして玄関から外へ出た。
シーリントルの小さな体では彼女を抱えて走ることもできない。
最悪、自分が盾になってでも彼女を守らないと、と考えて、シーリントルもシュナの後について出た。
「人間の身体には、微弱な電気が流れているの。私の魔法はそれをちょっとだけ、狂わせられる。九式雷撃魔法、捌の雷『襲雷』」
パリッと細かな電気が杖の先から走り、男が歩みを止めた。
たったそれだけのことに見えるが、シーリントルには想像もつかない事象が起こっているのだろう。
「とりあえず、動きは止めたわ。話を聞きましょう」
「すごいですね……」
「そうよ。私はすごいの」
また少女に戻ったのか、彼女は胸を張って答えた。
「シュナ……ちゃん。この仮面って、外せるもの?」
男の顔には金色の仮面が表面を覆うようにしてつけられている。
鼻や口も覆われているが、どうやって呼吸をしているのだろうか。
「難しいわね。これ、呪具だわ」
「呪具?」
「悪意を持って作られた呪いの道具よ。杖も持っていないし、恐らくは精霊を強制的に憑依させるもの。精霊纏いを行うにあたって、人間の部分って邪魔でしかないのよ。だからできるだけ人間である部分を削ぎ落す必要がある。でもこれじゃただの木偶よ。思考のできない人間なんて怖くないわ」
「どうしたらいいの?」
「ひとまずはこのまま置いておきましょう。私の雷による麻痺は最低でも半日続く。教会に依頼して身柄を引き取ってもらいましょう」
教会と聞いてシーリントルは固まる。
協会ではなく、教会。
この国で宗教はずっと昔に廃止された。
医学の発展の邪魔になるからだというのと、実在する魔法や精霊以上のものは存在しないと星読みの博士が決めたのだと習った。
彼女が若かったころにはきっとまだ存在していたのだろう。
あまり確かではないが、そういった話を授業で習った気がする。
「シュナちゃん、ロアちゃんを探そう。たぶん、ここにいないってことは、何か知ってるか、やっている最中だと思う」
「あなたの言う通りね。どこであっても、大きな騒ぎの中心には必ず彼女がいる。探せるの?」
「はい。匂いを追えば辿りつけるはずです」
「そう。ところで、あなたは誰?」
「シーリントルです。シーって呼んでください」
シーリントルは会話をしながら、微かに残るロアの匂いを探すため、家の周囲を歩きまわった。
彼女は夜のうちに家から出て行ったようだ。
彼女のことだから、それ自体に深い意味はないだろう。
恐らく、眠れないから町をうろつくつもりだったのだ。
退屈が苦手なことはシーリントルもよく知っている。
(でも帰ってきていないってことは……)
すでにこの町まで危険が迫っていると考えた方がいいのかもしれない。
シーリントルもこの旅が安穏と続けていけるものだとは考えていない。
ロアもその可能性を告げていた。
しかしその背後関係、誰が黒幕かについては考えるなと言っていた。
向かってくる相手は全て敵だと思えと言っていた。
それくらい単純ならば、シーリントルにだって理解できる。
匂いの足跡を見つけた。
ずっと、学校の方へと向かっている。
「シュナちゃん。ロアちゃんは学校に行ったみたい。私たちも行こう」
「そうね。あなただけじゃ不安だからついて行ってあげるわ」
「ありがとう」
その場を後にしようとした時、みしみしと音を立てて、動けないはずの男が動き始める。
「なるほど。動かない身体を魔力で無理矢理動かしているのね。無茶をするわ」
「私が押さえます。少し待っていてください」
シュナに万が一があってはならない。
ここはふんばりどころだ。
眼鏡を外してオオカミの面をつける。
精霊纏いはもう慣れたものだ。
全身に強い魔力が巡り、熱い感情がふつふつと溢れ出す。
「あなた、そんなことができるの」
「ざがっでで」
シーリントルはバネのように跳ね、男へ飛びかかった。
その瞬間、それに合わせたようにして、男の右手がシーリントルの顔を掴もうとする。
さっきまでのゆっくりした動きとは全然違う。
シーリントルのことを敵だと認識したからだろう。
咄嗟にシーリントルが左腕を前に出すと、触れた男の手の平が爆発した。
精霊纏いは、精霊の力を人体へ移す術だ。
彼に入っている精霊は爆発の力を持つようだ。
爆発した彼の右手は粉々に粉砕され、断面が黒く炭化している。
精霊纏いが人体へ及ぼす悪影響を目の前で見せつけられ、少しだけシーリントルはたじろぐ。
爆発は直撃だったが、シーリントルの腕は少し赤くなっただけだった。
(そんなに威力はないみたいだけど……!)
この精霊を仕掛けた人間の性格の悪さがわかる。
このまま続ければ負傷し、手足を失うのは彼の方だ。
ロアは精霊纏いを習うにあたって、その解き方も習った。
精霊の魔力と術者の魔力を分断するには、大きな衝撃がいる。
早い話、気絶させれば纏いは剥がれるのだが、今の状態だとそもそも人間に意識があるか怪しい。
「――――っ!!」
考えていると、彼が掴みかかろうとしてきた。
咄嗟に身を屈めて躱す。
意識がないため行動に匂いがなく、避けにくい。
敵意のない動きに、本能が反応しない。
考え事をしながら相手はできないと判断して、もっと単純な方法を選ぶことにした。
シーリントルは素早く彼の背後に回り込む。
彼の動きはシーリントルよりも遅いが正確で、腕を振り回して追ってくる。
振り向きざまに、シーリントルは空中で回転して勢いを乗せた蹴りを仮面へ叩きこんだ。
たしかな手ごたえはあったものの、彼の動きを止めることができない。
(空中だと力が入りにくいんだ!)
マーナガルムの魔力で筋力は上がっているが、踏ん張りの効かない空中だと体重分の威力しか出ない。
しかし、跳ばなければ高さが足りない。
シーリントルは着地と同時に今度はさらに高く跳ぶ。
両足の踵を、仮面に向かって、まるで槍のように突き刺す。
――今度は、ヒビが入った。
このチャンスを逃さない。
滑るようにして身体をずらし、肘を仮面に叩きつけた。
「グワオオオオオオ!!」
彼は顔面を覆い、声にならない叫びをあげる。
物理的に精霊と繋がっている部分を破壊したのだから、そうとう苦しいはずだ。
少し離れて様子を伺っていると、彼の全身が白く輝き始めた。
「え――」
シーリントルはシュナに肩をさわられ、次の瞬間には彼が豆粒ほどにしか見えないような遠くへと離れていた。
直後、音のない大爆発が起こり、微かな衝撃がシーリントルの身体を突き抜けた。
精霊による爆発の力で、シュナの小屋ごと周囲の地面が吹き飛んだのだ。
「そんな……」
「仮面が壊れた時に磁場の乱れが見えた。最初から自爆するつもりだったのでしょうね。立てますか?」
「え、あ、あの、家が……」
「家など建て直せば良いのです。まずはあなたが無事で良かった」
「え、あ、ええ?」
そう言って、シュナはシーリントルを我が子のようにそっと抱きしめた。
「大丈夫。怖いものは全て母が片づけます。あなたは後ろからついてきなさい」
これも合わせた方がいいのだろうかと少し躊躇っていると、シュナは慌てて離れた。
「あっ、ごめんなさい」
「私は平気です。それより、何でこんなことが起こっているんですか?」
「恐らくは魔力大結晶を狙った者の仕業です。私が守らなければならない。守護者としての役目があります」
「守護者?」
「魔力大結晶がこの世界に生まれた時、守護の使命を負った者。……ふふ、あの子が聞いたら鼻で笑うような小さなことね」
「それってロアちゃん?」
「そう、ロアが聞いたら『ならば四つとも儂が持てばよかろう』って言うに違いないわ」
たしかに、そう言いそうだ。
「――そうだ。ロアちゃんを探さないと! ああ、えっと、ついてきてください! 校舎に急ぎましょう!」
突然の敵に思考が停止しかけていたことを感じ、シーリントルはやるべきことをしっかりと認識する。
「あらあら、あっ――」
数歩歩いただけで、シュナは転びかけて、地面に手をつく。
一緒に走っていくのは不可能だ。
「シュナさん、私が背負います。乗ってください」
「いくらなんでもそれは無理でしょう? 潰れてしまうわ」
「力には自信があります! さあ、乗って」
シュナが背中に覆いかぶさって、改めて理解する。
骨と皮だけになった人間が、これほど軽いものだなんて、知りたくなかった。
「――ちょっと揺れますよ」
シーリントルは高い段差の上から飛び降りて、下に並ぶ家屋の屋根に着地した。
そのまま屋根を駆けて行く。
まだ早朝ということもあり、人通りは少ないが、事態が事態だけに、できるだけ人に会わずに向かいたい。
校舎が見える所まで来ると、途端に変な匂いを感じた。
甘ったるくて、むせ返りそうな匂いが、校庭全体に充満している。
「やっぱり、何か起きてるんだ……」
「ちょっと待って。ロアの気配はこっちからしないわ」
「え?」
シーリントルが足を止めると、シュナが杖を空にかざす。
パリッと小さな音がして、シュナは港の方を指さした。
しかしロアの匂いは校舎へ向かっている。
一度校舎に行ったあと、港へ移動したのだろうか。
「あっちね。ユーリも向こうにいる。何をしているのかしら」
「でも、学校が……」
「だったら、私はここで降ろしなさい。あなたは校舎へ。私はロアの方へ向かうわ」
「そんな、ひとりで……」
「少しの時間なら大丈夫だって言ったでしょう? 向こうに着きさえすれば、たとえ私がどういう状態になったってロアがどうにかしてくれるわ。それに、校舎の方にはイライアがいるはず。困っているかもしれないから、あなたが助けてあげて」
「――――はい」
何を優先したらいいものかわからない今、シーリントルにできることは、目に見えるものを追い続けることだけだ。
ロアに助けは必要なく、イライアには助けが必要。
考えることは、ひたすらに単純なことだけでいい。
それ以外はあとで考えればいいのだ。
シーリントルがシュナを降ろすと、彼女は微笑を浮かべると、一筋の光と共に音も無く消えた。
「すごい……!」
ひとり残されたシーリントルは感動のあまりそう呟いた。




