すぐに同じになれますから
放課後になると、ちょうど狙ったかのように、ロアが教室に現れた。
シーリントルは病気の治療のためにここへ来たことをみんなに説明したが、彼女については依然わからないままだ。
だから、皆からは訝しむような視線を向けられる。
あまり褒められたことではないが、そうなるのは当然だろう。
だがしかし、彼女は全く気にしていないような素振りでイライアへ言った。
「子守りをさせてすまなかったな」
「子守りだなんてことありませんわ。シーはこの学校の立派な生徒です」
「そうか、そうか。いやなに、お前の曾祖母に会ってきてな」
「大ばあさまに? どうして、あなたが?」
「それは本人から聞いてくれ。まあ、言うまいが」
曾祖母は認知症が進んでいて、記憶や認知の混乱が激しい。
たとえ彼女と知り合いであったとしても、そう簡単に話が通じるわけはないだろう。
「それで、あーっと、そうだな。これからお前たちを連れてもう一度シュナのところへ行くつもりなのだが、何か用事はあるか?」
「あの、聞く順番がおかしいのでは? というか、だいたいなぜ私まで?」
「順番などどうでもよい。時間はあるのか、ないのか」
「……私は大丈夫ですわ。シーは? 嫌だったら嫌って言った方がいいわよ」
「ロアちゃんが言うなら行かないと」
「そう……」
イライアの考えているよりも、彼女たちはずっと強い信頼関係で結ばれているのだろう。
校舎から曾祖母の家までの間、ロアの話を聞くことは何ひとつできなかった。
彼女は何をどう尋ねてもはぐらかすし、着いてから話すと言って聞かないのだ。
町の一番見晴らしのいいところにある曾祖母の家に着くころには、辺りは薄暗くなって岬の灯台には火が灯っていた。
曾祖母の家は住宅の密集している地域からは少し離れたところにある。
とても小さな青い屋根の小屋で、老人がひとりで住むには充分だが、あの偉大な魔女が住むにはあまりにも貧相だと前から思っていた。
扉の前で光の魔法を使っている家政婦のユーリの姿が見えて、ロアが騙しているのではないと分かって安堵する。
「おばさん、ごきげんよう」
「あら、イライアちゃん。来てくれたのね。そっちの大人しそうな子がシーリントルちゃん?」
「は、はい。はじめまして」
「最初に聞いた時はびっくりしたけど、本当にこんなに小さな子と一緒に旅をしているのね。どうぞ、中へ。夕飯の支度はもうできているわ」
扉を開いた向こうからおいしそうな匂いが漂ってきて、イライアのお腹もくぅと音を立てる。
それを聞いたユーリがクスクスと笑った。
「あ、あの、これは違くて!」
「さあさあ、お嬢さまもお席へどうぞ」
思い返してみれば、今日はお昼も抜いていたし、お腹が鳴っても仕方がない。
仕方がないのだが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
赤くなった顔を隠すように俯きながら、居間へと入る。
「いらっしゃい、イライア」
「お、大ばあさま!? お体はよろしいのですか!?」
いつもなら絶対にベッドから起き上がることのないシュナが、食卓でイライアたちを待っていた。
絶対に変だ。
彼女が正気に戻ることは数日に一度、それも短い時間だけだったはずだ。
「よくはないけれど、これ以上ベッドにあの女の匂いをつけたくないもの」
「大ばあさま……?」
一度も見たことのないような笑顔で、シュナが嫌味を言った。
認知症になってからたまに嫌味のようなことは言っていたが、ここまではっきりと相手を指して言ったことはなかった。
「おうおう、あの女というのはもしかして儂のことではあるまいな?」
ロアも軽口を返しており、会話が成立している。
イライアは眩暈を覚えながらも、必死に今起こっていることを整理しようとしたが、それすらも、シュナの言葉によって遮られた。
「イライア、お客さまを席にご案内なさい」
「え、ええ」
困惑しながら、ロアとシーリントルを席に案内する。
シュナはにこにことした笑顔を絶やさない。
(――ダメだ。考えるのは後にしましょう。今は無理だわ)
イライアは半ば投げやりになりながらも、ユーリが配膳するのを手伝って、やがて食卓にはそれぞれの食事が並び、綺麗に彩られた。
「さあ、難しいお話の前に食事にしましょう。冷めてしまいますから」
久しぶりの来訪者に幸せそうなユーリが音頭を取り、そうして奇妙な晩餐会が始まった。
――ノークロースの町には、アリの巣のように張り巡らされた地下道がある。
その地下道を通って、山の下を抜けた先に、犯罪組織フェアレスのアジトはあった。
先の事件であっても一切の被害を受けなかったのは、ボスと共に生き残った組織の人間をこちらに避難させていたからだ。
「いやあ、いい天気ですねえ。こんな日はのんびりと外で日光浴でもしたいですねえ」
ボンバイが窓から空を見上げて、ぼんやりと口に出す。
雲ひとつない空には鳶が舞い、甲高い声を響かせている。
部屋の奥では椅子に縛りつけられ、さるぐつわをつけさせられた三人の男がいた。
「いやねえ、私らもお金をもらって仕事をしているんですよ。それを私情でふいにされたんじゃ、商売って成り立たないと思わないかねえ……」
彼らは口を縛られているため、返事はできない。
あくまでボンバイの独り言を彼らに聞かせているだけだ。
彼らが大した反応をしなかったことにボンバイは小さくため息をつくと、一番中央の男につけたさるぐつわを外した。
その目には怒りの色も恐怖も色も浮かんでいた。
「勘違いしないでほしいんですけどねえ、君たちの失敗を責めているわけではないんですよ。私が問題に思っているのは、君らがのこのこと帰ってきたことです。失敗したなら消えるなりにしなかったのはなぜ? 君らのようなならず者なら報復を恐れて逃げても不思議はない。むしろ、その方が自然だ。どうして戻ってきた?」
ボンバイの質問に、その男――マリタはすぐには答えなかった。
その表情から、ボンバイはすぐに理解した。
彼らのような堕落者が、なけなしのプライドを持つにいたった経緯は容易に想像がつく。
「――ロアの毒気にあてられたか?」
「えっ……?」
「彼女に魅力を感じたんだねえ。私も一度彼女と接触しているから気持ちは理解できるよ。あの子は生粋の支配者気質だ。その上、損得勘定ではなくその時の感情だけで行動している。普通の人間なら考えつかないような奇抜な思考を迷いなく堂々と実行する。命を奪うために襲撃をした君が生きているのが何よりの証拠だろう? 彼女はいつだって君らを殺すことはできたはずだ」
マリタは唇を噛みしめる。
他人の言葉に左右されることは、人間なら誰しもあることだが、その時に受ける影響の大きさは人それぞれだ。
そして彼の場合、それが大きすぎる。
そういった人間は“使えない”。
しかし彼を簡単に処分してもいいほど、フェアレスは人手が足りているわけではない。
先のブギーマンによる襲来で受けた人員的な痛手はまだ回復しきっていないのだ。
だから彼を限界まで酷使しなくてはならない。
彼自身には何の価値もないが、ロアを足止めさせることには金銭的な価値がある。
ボンバイは瞬時に思考を巡らせ、彼に優しく語りかけた。
「……恐らく彼女は、迷った人間へ、瞬時に道筋を示すことのできる人間です。人間は社会的な生き物だから、意思決定権を他人に握ってもらうことに安堵する生き物でもある。まず、前提としてわかってほしいのは、君は自分で考えることを放棄したんですよ。ロアの持つ独特の雰囲気に飲まれ、命令された通り、ここへ戻ってきた。大方、こちらの情報を握って来いとでも言われたのでしょうけど、まあ、彼女にとってはどうでもいい話なんですよねえ。あれだけのことができる術師であれば、フェアレスが総力を挙げたって、多分敵わない」
「じゃ、じゃあどうして俺を逃がしたんだ」
「どうしても何も。君自身に興味がないからだ。もっと言うと『どうでもいいから』だよ。そもそも帰す時点で不自然だろう。スパイが上手く成功するよりも、殺されるリスクの方がずっと大きいのにさあ。彼女は君が思っているほど、君のことを深く考えてはいない。君を追い払うためだけに適当なことを言ったのさ」
ボンバイがそう言うと、彼は一瞬絶望したあとすぐに憤怒の表情を浮かべた。
ボンバイの言ったことは、ほとんどボンバイが感じたことそのままだ。
ロアは、ボンバイの中でも稀に見る魅力的な人物だ。
こちらの疑問に対し、瞬時に解答を出してくれる。
それが正しいか間違っているかはともかく。
ある一部の群れに置いて、深い知識、意思決定力、判断能力を兼ね備えた個体というものを、人はカリスマと呼ぶ。
人間は本質的に支配されたがる生き物だ。
頼られ、命令され、褒められることに快感を覚えない者などいない。
だからこそ、彼女のような人間は、人を集める。
そして彼女はそれが嫌いだ。
彼女について少し調べただけでも、それに納得するだけの理由があった。
愚鈍な人間たちから、やたらめたらと崇められることに嫌気がさしたのだ。
彼女にとって目的のための手段や足がかりでしかないことをいちいちもてはやされるのは、さぞかし気分が悪かったことだろう。
かの有名な銅像も、本人が失踪した後、勝手に建てられたものらしい。
彼女がすごい人物であることは、十全に理解している。
だがしかし、ボンバイも仕事をやっているのだ。
私情を挟む人間から死んでいく世界で。
「君たちにもう一度だけチャンスをやる」
「チャンス……?」
ボンバイはロアへの対策のために取り寄せた金の仮面を取り出す。
彼女の唯一の弱点は、現代社会の技術に疎いことだ。
精霊と人間を強制的に融合させる発想が、この何十年の間に生まれなかったはずはない。
たとえ、一の才能しか持たない人間であっても、それが十人、百人と集まれば、新しい技術も考えつくというものだ。
「先に説明させてもらいますがねえ。これは爆破の精霊が仕込まれている――簡単に言えば洗脳装置でしょうか。通称『ヘルシャフト』。こいつは完成型ではあるんですが、使わされる側から見れば未完成品なんですよねえ。なぜなら『装着した者の命を奪ってしまう』から」
「ハァ!? ふざけるな! 誰がそんなものを!」
「これをつければそんな不安はなくなりますよ。これまでも何人か試しましたが、全員が自我を失い、獣のようになります。まあ、これもブギーマンくらい強ければ良かったんですけど、アレは人間に出せる力を超えてましたねえ」
ボンバイは金色でのっぺりとした遊び心のないデザインの仮面をマリタへつきつける。
「い、嫌だ! 俺はそんなことのために――」
「それは違いますねえ。あなたはこのために生まれてきたんですよ」
金色の仮面は、マリタの顔面へ食い込むと、皮膚を侵食しながら、ゆっくりと顔のあった位置へと収まっていく。
まるで、一度顔面を剥がして皮膚を張り直したかのようにのっぺりとした表情になる。
ひとつだけ違うのは、それにはもう表情と呼べるものがないことだろうか。
「あー、そうだ。どうせこの記憶を覗くのでしょうから、ひとつ断っておきますよ。一時的に手を組んだとはいえ、私はフェアレスの人間です。組織の命令こそが絶対であり、そのためならあなたと敵対することも厭いません。しかし、私は子供を切りたくはないので、こうして刺客を堂々と送り込ませていただきます。いやあ、雇い主の命令と金には逆らえないのがつらいところですねえ」
ボンバイはそう言いながら、残りのふたりの方へ歩み寄る。
マリタがどうなったのか見ていた彼らは、恐怖の表情を浮かべて必死に抗おうとしていた。
手足を縛られ、芋虫のようにのたうち回りながら。
「安心してください。あなたたちも、すぐに同じになれますから」
ボンバイは躊躇なくふたりに『ヘルシャフト』を装着する。
「……あなたたちが強ければ、こんなもの必要なかったんですよ」
ボンバイは窓の外に目をやって、そう呟いた。