どうしてですか
学校の外へ出ると、気持ちのいい日射しと海の風が頬を撫でる。
今日はよく晴れていて、遠くの方に薄い雲がたなびいている。
シーリントルはイライアから港の方へ行こうと誘われ、長い階段を下っていた。
「海の町に来るのは初めて?」
「はい。私のいた町はどちらかと言うと山の中だったので、こんなに広くて景色のいい町へ来るのは初めてです」
「そうなの。だったら、楽しんでいってね」
イライアはそう言って微笑みかける。
嘘をついているわけではないのだが、まだ彼女にはこちらの事情を話していない。
それが少し心苦しかった。
「それにしても、随分学校から離れてますけど、お昼休みってそんなに長いんですか?」
「もしかして聞いていないの? 我が校の授業は自分で組むのよ。午後の最初にある授業は歴史学だけど、私は去年受けているから、今年はもう出なくてもいいの。ただ暇を潰すだけなら、あなたとお話した方が有意義じゃない?」
「全然知りませんでした……。――え、でも私はその授業受けたことありませんよ?」
「あなたの面倒を見てって、先生からも頼まれたの。私の判断で授業より優先してもいいって」
空いた口がふさがらなかった。
ロアから学校についての説明は何ひとつなかったことを思い出す。
精霊舞踏のことだけで頭がいっぱいだったこともあるが、学校によってそこまで規則が違うなんて、思いもよらなかった。
「なんだか、すごいですね」
シーリントルが何気なくぽつりと漏らすと、彼女が慌ててぶんぶんと手を振る。
「――あ、違うのよ! 私が頼んだんじゃなくて、頼まれただけなんだからね!」
シーリントルの鼻は、彼女の匂いの変化を感じたが、それがどんな感情であるかはわからない。
しかし、何か彼女が困っているように思って、それ以上のことは聞かなかった。
港では沖から帰ってきた漁師たちが酒を飲みかわし、適当なところに座って雑談している様子が目に入った。
シーリントルのいた町、ノークロースには彼らのような荒々しい男たちはいなかった。
時たま訪れる猟師であっても、もっと物静かで無口であった。
それに、匂いも違う。
漁師から土の匂いはせず、代わりに潮の香りがした。
「……珍しい?」
イライアに聞かれて、ハッとシーリントルは我に返る。
どうやら我を忘れるほど凝視していたようだ。
「えっと、とても、新鮮です」
「大人な感想ですわね」
イライアはクスクスと笑う。
「向こうにベンチがありますから、そこに座りましょう」
海へ向かった木製ベンチが並んでいる場所があり、そこに座ると港の風景が一望できた。
「ここは観光客に向けて作られた場所。入り江の中央にあるから、とても広々とした景観でしょう? でも、普通の観光客はこのようなベンチは使いませんけれど」
「なぜですか?」
「上から眺めた方が心地いいからですわ。さあ、お昼にしましょう」
イライアはカバンから学校で買ったのであろうサンドイッチを取り出す。
それを見て、シーリントルは自分の失敗に気がついた。
ずっとロアと行動を共にしていたから、通常の食事をほとんどしていなかったのだ。
一日に一度、微弱な精霊を団子にしたものを食べていたが、あれを食事と呼ぶにはあまりにも異質だ。
「どうかしました?」
イライアが不思議そうにシーリントルの顔を覗きこむ。
「あの、お昼ごはんを忘れてしまって……」
「それは大変です。……そうですわ。せっかくだから、お店に行きましょう。この近くに軽食の食べられる喫茶店がありますのよ」
「あ、じ、実は、お金も……」
苦し紛れの言い訳はすぐに見抜かれたようで、イライアは腕を組んで座り直した。
一瞬、表情が暗いものになり、そして覚悟を決めた顔をして話し始めた。
「……お金なら私が出してもいいけれど、あなた少し気になるところが多すぎるわ。出身や家柄だって何も聞かされていない。もし迷惑でなければ、あなたのことを知りたいのだけど、話してもらってもいいかしら?」
やっぱりそれが本題だったか、とシーリントルは冷や汗をかいた。
クラスを代表しているであろう彼女が、シーリントルからありったけの情報を引き出そうとするのはごく自然なことだった。
この部分について、ロアから事前に言われていたことはいくつかある。
魔力大結晶や、父のこと、マーナガルムのこと。
それらを話すことは自分の判断で構わないが、同情を誘うような言い方をしないことや、協力の申し出は断るようにと強く注意された。
それはそのまま、センが起こした大きな事件に巻き込むことになるからだ。
「……ノークロースでの一件は知っていますか?」
「爆破事件があったらしいわね。新聞で読んだわ。もしかして、あの町から?」
「はい。あの事件に巻き込まれて、私はロアちゃんに助けてもらったんです。でもその時に怪我をして、その治療のために、色んなところに行かないといけなくて……」
何ひとつ、嘘はついていない。
シーリントルの身体に何ら欠損はないが、賢い彼女ならばある程度は察してくれるはずだ。
だから、これで彼女を納得させられると思った。
「――それは変ね」
「え?」
「だって、あなたも彼女も、初等部の子と同じくらいの歳でしょう? ロアが天才の類であったとしても、怪我人を連れて各地を回るなんて、普通じゃないわ。誰があなたたちをそんなおかしな旅に引き連れているの? 大人の判断として間違っているわ」
「えっと、大人はいないんです。この旅は、ロアちゃんと私のふたりで……」
「ありえません。何を隠しているの? 単刀直入に言うけれど、あなたたち、すごく怪しいの。どこかの貴族の娘だと思うのだけれど、誰の血筋? ちなみに私は、魔法学校の理事長であるシュナのひ孫よ。どう? あなたの振る舞いに追及せずにいられると思っていて?」
「ま、待ってください。落ち着いてください」
興奮気味のイライアを、シーリントルはなだめる。
怒りではなく、極度の緊張から歯が浮いている様子が分かる。
おそらく彼女は良い人で、とても優しいのだ。
本当はこんな尋問めいたことをする性格の人ではないのだろう。
でも周囲の期待から、それを拒むことができない。
その人の良さ故だ。
「私はごく普通の一般的な家庭の出身です。特別な家柄ではありませんし、それに――」
「それに?」
「いえ、なんでもありません」
つい、母が死んだことを言いそうになってしまった。
今現在、身寄りがないことは言わなくてもいいだろう。
そんな形で同情を誘いたくはない。
「じゃあ、あなたは一体何者? 今朝見せていただいた精霊舞踏とは?」
「わかりません」
「わからないはずないでしょう」
「本当にわからないんです。私はただ、言われた通りにやっただけで」
「精霊纏いのこと、私がわからないと思っているのね。あれを簡単にこなす人間なんて、私の知っている中でも五人といないわ。稀有な才能がないとできないの。それをわからないなんて、嫌味なの?」
「ごめんなさい。本当に、私、何もわからないんです」
彼女は引き時を見失ったのか強気な姿勢を崩さずに突っかかって来る。
シーリントルはもうやめてほしいことを前面に出しながら顔を伏せた。
それを見てイライアも我に返ったのか、居心地が悪そうに視線を海へ向ける。
「……言い過ぎたわ。ごめんなさい。あなたみたいな子供にすごいものを見せられて、嫉妬してしまっていたの」
「いえ、その気持ちはわかります。私も、ロアちゃんみたいに精霊を扱えたらなって、いつも思いますから」
「その様子だと、あの子の異常な精霊術についてもあまり知らないのね」
「一度聞いたのですが、ロアちゃんのやっていることは私には無理だなってことしかわかりませんでした」
「そうなの。それなら私も同じことを経験したことがあるわ。私の家系は――」
イライアは杖を取り出して地面に向ける。
すると、細かな雷の線が杖の先から現れ、網の目のように地面へと張りついた。
「雷の魔法。そのためだけの魔力が生まれた時から体に流れているの。そのせいで、小さい時から魔法を使えるように訓練させられる。でも私は訓練についていけなかったの」
イライアは不安そうな顔を一瞬だけ浮かべ、振り切るように笑った。
「ついていけなかったって……。できてるじゃないですか」
「どうもありがとう。でもね、これくらいの魔法なんて、できているうちには入らないの」
これをできているうちには入らないと言うのなら、いったいどうなればできていると言うのだろう。
シーリントルに彼女の理想は見えないが、それでも、そのために精一杯努力していることはわかった。
「だって、たくさん練習したんですよね? 他のことなんて、目に入らないくらい」
「ええ、おかげで魔法以外のことは全て捨ててきたわ」
「辛くなかったですか?」
「…………」
シーリントルの質問に、イライアは言葉を詰まらせた。
――――辛くなかったか。
辛くないはずがない。
それでも何も知らない人間にわかったようなふりをされるなんて、冗談じゃない。
そんな気持ちを押し殺し、あくまで笑顔を保ちつつ、シーリントルに言う。
「弱音を吐いたって、誰かが助けてくれるわけじゃない。自分の人生だもの。たとえ望んでいなかったものだって、自分で片をつけなきゃいけない。私は雷の魔法を今よりもっと繊細に扱えるようにならないといけないの」
「どうしてですか?」
「どうしてって……。そんなこと、あなたに関係ないでしょ」
イライアは苛立ちを隠さず吐き捨てた。
(――あっ)
事情を知らない人に話したくない気持ちが先行し過ぎた。
イライアの言葉にシーリントルは面を食らったような顔をしている。
心がちくりと痛んだ。
(私ったら、こんな小さな子相手に、何をムキになって……)
自分の感情をコントロールできないようじゃ、魔法を繊細に動かすなんて夢のまた夢だ。
いつだって冷静になっていないと、曾祖母のようにはなれない。
「ごめんなさい。少し聞き過ぎました。あの、私、先に学校に戻ってます」
居たたまれなくなったのか、駆け出そうとしたシーリントルの腕を、イライアは反射的に掴んだ。
「待って。今のは私が悪かったわ。ごめん。……あの、もしよければ、お願いしたいことがあるの」
「何ですか」
明らかに彼女は心を閉ざしてしまった。
全く、取りつく島もない。
しかしイライアは丁寧に対話することを諦めなかった。
「あなたが学校を去るまでの間、私と行動を共にしてくれないかしら」
「……それって、どういう意味ですか?」
「正直に言うと、学校の人たちはみんな、常に私に気を遣っていて、はっきり物を言ってはくれないの。だって、私の曾祖母が、学校の理事長だから」
「それだとなんで、友達ができないんですか?」
彼女の純粋な質問に対する言葉をイライアは持っていなかった。
少し考えたあと、イライアは答えた。
「……そのせいで、みんなが私と繋がりを持とうと必死になってる。私自身はあなたが思っている通り、中身のない、すっからかんの人間なのに、血筋がいいってだけで、優秀だって褒めちぎって、機嫌をとろうとする。あなたみたいに、はっきり私に意見を言ってくれる人なんて、いないの。先生にだっていない。だから、あなたがここにいる間だけでいいの。私と、友達になってくれない?」
「えっと……」
戸惑っているシーリントルを見て、イライアは我に返った。
「あ、あ、ごめんなさい! 私、またとても自分勝手なことを言ってしまったわ!」
そもそも彼女は怪我を治すために来たのだと言っていた。
それを忘れて自分のために役立ってくれなど、自分勝手もいいところだ。
到底、褒められたものではない。
「今言ったことは忘れてちょうだい。お昼って気分でもなくなってしまったし、学校へ戻りましょう。みんなには私から話をしておくわ。もちろん、あなたの事は内緒にしておくから」
「いえ、そういうことではなくて……。その、意見を言うなんて難しいことはできませんけど、私で良かったらお友達になります。ちょうどこっちに来て、知り合いもいなくて、心細かったんです。それと、私のことは、みなさんに話していただいて構いませんよ。本当のことですし、信用してもらわないことには、あそこに居づらいです」
「そう……。じゃあ、改めて、よろしくね、シーリントル」
「はい、イライアさん。私のことはシーって呼んでください。お父さんとお母さんもそう呼んでいたので」
「分かったわ。だったら、私のこともイライアって呼んでね、シー。敬語も不要よ。同じクラスなんだからね」
「はい!」
シーリントルはそれまで見せなかったような、屈託のない笑顔で返事をした。