私には才能なんて
――――朝日が顔に射し込み、イライアは目を覚ました。
緑色の瞳を細め、二、三度まばたきをする。
「朝、ですわね……」
しっかりと言葉に出して、肌触りの良いシルクのシーツに別れを告げ、部屋の窓を開く。
海の風はいつも変わらない。
窓の外からは微かにウミネコのさえずりと波の音が聞こえる。
昔からそこにあって当たり前のものが、今もここにあることに感謝をするよう、小さいころ曾祖母からよく言われていた。
幼い時からずっとそうやってきたからか、イライアは自然と手を合わせて祈りをささげ、心の中で感謝を告げる。
ここは大きな入り江に作られた港町、ベルツェーリウス。
崖に沿って白塗りの家屋がいくつも作られており、朝日や夕陽を浴びると神々しく光る。
入り江であるため商船の出入りも盛んで、そのおかげか、この町にいて手に入らないものはほとんどない。
イライアの住んでいる宿舎は町の中でも上の方にある。
曾祖母であるシュナが創立した魔法学校はこの町が栄える前に出来たものであり、当時はまだ何もない片田舎でしかなかったため簡単に一等地を手に入れられたと聞いた。
水中を小石ほどのスライムが上下する可愛らしい水時計に目をやると、まだ始業まで時間があることがわかる。
学生としては些か早すぎる起床ではあるが、イライアにとってはいつも通りの起床時間だ。
シーツを整え、部屋の換気が充分にできたことを確認して窓を閉め、学生服に着替える。
白いシャツに紺色のスカート。
中等部であることを示す赤い石のついたタイをつけて、鏡の前で身なりを確認する。
おかしなところはない、と充分に納得できたら、革でできた丈夫な焦茶色の学生カバンを持ち、部屋を出て鍵をかける。
宿舎の廊下は静まりかえっていて、外へ出るまで誰とも出会うことはなかった。
校舎の方へ目をやると、この学校で用務員として雇われている老婆が、校門の前で落ち葉を掃いていた。
「おはようございます、ミセスマーガレット」
一礼すると、マーガレットはシワだらけの顔をくしゃとして笑う。
「おはよう。今日も早いのね」
「今日もお庭の隅をお借りします」
「いつもの場所なら最初に掃除を済ませてるから自由に使ってね。それにしても、才能があるのに毎朝の練習を欠かさないなんて偉いわ」
彼女は心の底からそう思っていそうな笑顔でそう言う。
イライアは気恥ずかしくなり、思わず目をそらす。
「いえ、私には才能なんて……。これだけやってもまだ大ばあさまには追いつけませんから」
「あの方――このシュナ魔法学校の理事長は特別な大魔女なのですから、あまり比べるものではありませんよ」
「わかっていますが、そう割り切れるものでもなくて。それでは、失礼いたします」
「あまり根を詰め過ぎないようにね」
イライアは曖昧に笑ってごまかし、そそくさと逃げ出した。
彼女はイライアの早朝の練習を知っている唯一の人物だ。
この学校で働いている教員の中では最も古株で、昔は教鞭をとっていたらしい。
偉大な人物のひとりであることには違いないだろう。
――しかし、それが何だと言うのか。
彼女の知識では、イライアの抱える問題を解決する手立てになりはしない。
イライアは校庭の隅の、木々の陰になっているところへカバンを置き、杖を取り出した。
大きく深呼吸をして、精神を集中させる。
「九式雷魔法、参の雷撃『軽雷』」
微量の魔力が込められた雷の矢が木の幹に当たり、小さく弾けた。
「体調は悪くなさそうですわね……」
雷の魔法は、イライアの家系の長女だけに発現する、特別な血統『雷の魔力』を制御するための術だ。
――人間の肉体は雷の信号で動く。
雷の魔力にはその信号を狂わせ、徐々に身体を蝕む性質があり、イライアの先祖はずっと短命であった。
半ば諦め、その呪いを受け入れていた祖先から続く常識を覆し、体質を魔法として昇華させたのが、イライアの曾祖母に当たるシュナだった。
それ以降、イライアの家では幼いころから魔力の流れを操る術を学ばされる。
当然、イライアもその教育を受けた。
しかしイライアは、母や祖母のように雷の魔法を上手く扱えなかった。
初めは優しく見守っていた母も、命がかかっているためか次第に厳しくなり始め、最後にイライアは耐えきれずに家出をした。
曾祖母の家を訪ねた時には生きているのが不思議だと言われるくらいに衰弱していた。
自分でもどうやって歩いたか覚えていないほど無我夢中だったのだ。
イライアはそんな過去を誰にも話すことはなかった。
理解のある曾祖母のおかげで住むところも与えられ、学校へ通うこともできた。
実際のところ、イライアは環境に対して高望みはしていない。
高等技術や教育を学ぶよりも、誰にも邪魔されず、自分のペースで練習する場所が欲しかっただけだ。
それでもイライアの事情とは無関係に、学校ではちやほやとされる。
雷を撃ち出す姿が格好いいと評判も良い。
それが嫌だというわけではない。
だがしかし、自分で望んだことではないせいもあって、腑に落ちないところも多い。
イライアは、皆がシュナの血筋だからそう言っているのだと思っていた。
雷の魔法を扱うことに関して、理解できる者はこの学校にいないのだ。
それなのに、期待だけは大きく、周囲を取り巻くほとんど全ての人が、イライアが偉大な魔法使い『雷の大魔女』になることを信じてやまない。
しかしそれは叶わぬ夢であることを、イライアだけが知っていた。
「――ボーっとしている時間はないわ、イライア!」
気持ちが落ち込みそうになる気配を感じて、頬をパンと叩く。
朝の訓練は、まず可能な限り少量の魔力を放出することから始まる。
この時に放つ雷は小さければ小さいほど良い。
雷の魔力の操作を九つの技術に振り分けて『九式雷魔法』と名付けたシュナは、遠くからでも落ちる木の葉を的として撃ち抜けるほどに繊細で的確な調整ができたと聞いている。
イライアがその域へ達するにはまだ時間がかかる確信があった。
「九式雷魔法、参の雷撃『軽雷』」
木の幹に当たった雷が弾ける。
『軽雷』はとにかく少ない魔力で魔法を行使するための技術だ。
緊張していると上手く発動できないため、言ってみれば、脱力の訓練に近いのかもしれない。
安定した魔力量を行使できるようになったら、次は地面に杖を向ける。
雷の魔法は鉄を動かす力を持つ。
これは地中の砂鉄を可能な限り持ち上げる訓練だ。
「九式雷魔法、伍の雷撃『磁雷』」
イライアが呟くと、地表が微かに動く。
杖に重みを感じ、向こうへ引きずられないように魔力を流しながら、腕を持ち上げていく。
まるで巨大な岩を一本の縄で引っ張り上げているように重く、全身から汗が噴き出る。
こぶし大ほどの黒い砂鉄の山が地面に現れ、イライアは魔法を解いた。
(自己記録更新。けれど……)
たったこれだけしか動かせない。
シュナは同じ年のころには地中から洗練された槍を作り出すこともできたと聞く。
勝手に比べてしまい、悔しさに荒くなった息を整えて、もう一度挑む。
「む、ぐ、うううう!」
とても他人には見せられない姿だ。
歯を食いしばって、全身の力を使って砂鉄を持ち上げ――――。
「――おい」
「きゃああああ!?」
背後から突然声をかけられて、イライアは悲鳴をあげた。
振り返ると、十歳くらいの銀髪の少女が、爛々とした紅い眼でこちらを見上げていた。
「すまんな。少し聞きたいことがあるのだが、他に人が見つからなかった」
「え、あ、はい。私でよければ……」
あまりの驚きに口から心臓が飛び出すかと思った。
激しくなった動悸を抑えながら、イライアは言う。
「あー、儂らは今日、この学校に転入することになっている者でな。到着したはいいものの、まだ誰も来ておらん。誰か話の分かる者はいないかと探していたのだ」
「まだ時間が早いので、先生方も出勤されていないかと思いますが……」
「ああ、やはりそうか。いつごろになる?」
「そうですわね。教諭でなければ、職員の方がひとりいらっしゃいますが……。とりあえず、ここでは何ですから、案内しましょう」
イライアは杖をしまおうとすると、彼女がその手を止めた。
「待て。さっきの続きが見たい」
「さっきの、とは」
「お前の練習風景のことだ。気になることがあってな」
「気になること……?」
誰ともわからない子供に言われ、少なからずイライアは訝しむ。
意図は理解できないが、言われるがまま、もう一度だけ砂鉄を持ち上げる魔法を見せることにした。
「九式雷魔法、伍の雷撃『磁雷』!」
杖の先に重みがかかる。
それを、イライアは必死に持ち上げようとする。
「重いか?」
「え、ええ。とても」
「お前、やり方間違っているぞ」
「え? うわっ」
気を抜いた瞬間に杖が地面に吸い寄せられ、イライアは慌てて魔力の流れを止めた。
「お前が今やっているのは、そうだな、簡単に言うのなら、お前の資質と合っていない。誰も正しいやり方を教えてくれなかったのか?」
「そんなこと言ったって……」
そう言われ、雷の魔法に関して唯一の先生であった母に言われたことを思い出す。
母はとても感覚重視の人間だった。
だから、イライアがなぜできないのかが理解できず、指導もできなかったのだろう。
イライアもそれを理解していたから、母にはあまり強く意見することはできなかった。
「――いや、余計なことを言った。師でもない儂から適当なことを言うのは良くない。お前が望むなら教えてやれることはいくつかあるが、それも今ではないな」
少女はそれだけ喋ると、踵を返した。
「邪魔したな。他の人間は自分で探そう。いることさえ分かっていれば見つけるのにはそう苦労しないからな。それに、若き魔法使いの練習を邪魔することほど野暮なことはない」
「……若き?」
無性に引っかかることを言いながら去って行く、自分よりも遙かに若い少女を、イライアはぽかんと見つめていることしかできなかった。




