もしかして楽しんでる?
「じっとしろ」
ロアが落ち着いた声色で言い、シーリントルの背後へ回る。
「む」
「どうしたの?」
「いや、さっきの傷を再利用しようと思ったのだがもう治っていた。まだ自分が不死であることを忘れがちになるな。……痛っ」
ナイフで親指を刺し、血を流す。
「創造された精霊から身を守るために、さらに複雑な術式を施す。干渉できないようにしていた部分とは別のところで繋がっているようだしな……」
ロアはシーリントルの首筋に血で文字を書きこみ始めた。
「誰しも無意識的な感受性の力というものがある。お前のせいではない。これから修行してコントロールできるようになればいいだけだ」
血の文字で書かれたものは三つの言葉だった。
それは書き終わると熱を持って、シーリントルの中へと沈み込んだ。
「これからはストレスには気をつけろ。恐らくはそこをつけ狙って来るはずだ」
「もし向こうから何か言われたら?」
「お前が利益を感じるなら取り引きを受け入れてもいい。どの道永久に体の支配権を握ることはできない。そこに許可を出せるのはお前だけだ。だが、命をかけるのだけは絶対にやってはならん。理由は言うまでもないが、契約が履行された瞬間にお前は死ぬことになるからな」
「……うん」
「ひとまず、そいつ――マーナガルムの存在が実在性を持ったのは儂らにとって利益であると考えて良い。お前に何かあってもそいつが助けてくれるはずだ。根拠はその精霊の姿を知っているのがお前だけだというところだ」
「実在性の担保ってこと?」
「よく学習できているな。そうだ。最低でもお前が奴と対等の契約を交わさない限り、奴がお前の上に立つことは絶対にできない」
しかし、とロアは続ける。
「オオカミという姿が無から生まれたとは考えにくい。いかにお前に才能があったとしても、精霊を動物の姿で創造するには知識も技術も足りない。オオカミについて何を知っている?」
初めは質問の意味がわからなかった。
オオカミについて何を知っているか。
そんなもの、他の子供たちと変わらない。
オオカミは大きくて黒くて乱暴な、森の嫌われ者だ。
そこで気がついた。
そのオオカミの姿は誰に習ったものだろう。
「……お父さんだ。私、オオカミのことはお父さんに習った。大飯ぐらいの化けオオカミの話をよくしていて、みんなに知らないって馬鹿にされたの覚えてる」
「記憶に擦り込まれているな。絵なども見せられたか?」
シーリントルは頷く。
写実的ではなかったが、その恐ろしさだけはよく覚えている。
あれも父の描いたものなのだろうか。
「入念に準備をしていたようだな。お前が生まれる前から、いや、そのためにお前を生んだのか……」
ロアは呟きながらも頬が緩んでいる。
「ロアちゃん、もしかして楽しんでる?」
「いや、興味深いだけだ」
「それ楽しんでるよね」
「お前の父親は何から何まで謎が多い。これでようやく計画の動機を予測できるというものだろう。お前は恐らく初めから精霊の檻として育てられたのだ。お前を利用することに母親が反対できないように始末したと仮説を立てられる」
「ちょっと待ってってば。本当にその話を私にするつもりなの?」
「――ああ、すまん。つい夢中になってしまった」
悪びれる様子もなく、ロアは謝った。
シーリントルは彼女が何を言っても動じないつもりだったが、そう簡単に割り切れるようなことではない。
心に怒りがない分、冷静な頭で両親のことを思い出してしまう。
シーリントルとしては、どういう目的で自分が生まれてきたのかにはあまり興味がない。
というのも、大抵の人は目的もなく生まれてくるのが当たり前だからだ。
しかし母や父が自分に愛を持っていなかったとは考えられない。
だからずっと煮え切らないのだろう。
両親が誰の目から見てもとんでもない悪人であったなら、感情に任せて進むこともできた。
あれからどれだけ時間が経っても、シーリントルにはそう思えない。
母から悪口や暴力を振るわれたこともないし、父は考えなしにこんなことをする人ではないことも知っている。
そう、父は何の考えもなしにこんなことはしないのだ。
「ねえ、お父さんの目的って何?」
「儂もわからん。お前を復讐者に仕立て上げたいとしか聞いていないからな」
「それって、私を強く育ててほしいって意味じゃないの?」
「初めは儂もそうかと思ったが、お前でなければならない理由がわからんのだ。何かの脅威と対峙する気なら、儂だけいれば充分だろう」
確かにその通りだし、戦力が欲しいのなら、そもそもやり方が遠回りすぎる気がする。
「それは、たしかにそうだけど……」
「お前の今の状態は精霊術師としても邪道だ。娘に精霊術を教えてほしいのならそう言えば儂は別に断ったりもせん。すでに三人の弟子を育てているわけだしな。わざわざ芝居をして儂を一度欺いた理由にはならんのだ」
ロアの言うことにも一理あり、シーリントルはまた思案に入った。
部屋を照らす橙色のランプの火が揺らめく。
もうどれくらいこうして語り合っていただろう。
シーリントルは目をこする。
さすがに疲れたのか、眠気のようなものが急に襲ってきた。
「ははは、今日はここまでにしよう。お前の中の精霊のことがわかっただけでも良い収穫だ。雑談なら移動中にいくらでもできるしな。眠いならこの部屋で眠るといい。儂は眠らんから、精霊の暴走も心配しなくてよいしな」
「ありがとう。本当は、少しだけ寂しかったんだ」
「……そうだろう。お前はまだ子供なのだから、無理せず我儘を言うがいい」
ロアに髪を撫でられる。
その手は優しくて暖かかった。




