マーナガルム
「――いや、逆だ。どんどん喰らえ」
ロアは揺るぎない口調で言った。
「え、でも、そのうち制御できなくなっちゃうんじゃ……」
「ああ、管理は難しくなるし、手に負えなくなるだろう。だが、今現在の貪食の精霊は獣の形をとっているため、話は変わってくる。獣というものは、飢えに対して非常に敏感で、時には命すら投げ出すことがある。最も恐ろしいのは飢えることだ。飢えた状態で身体の優位性を奪われたら、お前は二度と人格を取り戻すことができなくなるだろうな」
何だか、先程までとは説明が変わってはいないだろうか。
貪食の精霊は人間の欲望から生まれたのではなかったのだろうか。
獣の精霊なんて話、今までしていなかった。
小難しい話をずっと聞いているせいで理解力が追いつかなくなってきたのだろうか。
直前の話と大きく矛盾している気がする。
「え、えーと? 要するに、私はどうしたらいいの?」
「飢えさせず、力をつけさせない程度に精霊を喰らえ」
「難しいよ! そんなこと、私にはできない」
「しばらくは儂が適量を与えてやる。覚えれば自分で調整できるだろう」
「……餌ってこと?」
「とも言える」
自分の中に眠るものが貪食の精霊と呼ばれる精霊であることが分かったのはいいが、まさか不要と思っていた食事が必要になるとは。
「ではまず手始めに、先程のウィル・オ・ウィスプを喰らうがいい」
「え?」
「どうした? ウィル・オ・ウィスプはこの屋敷に巣食う微弱な精霊を食って、わずかに魔力を増した。それをお前が喰らうことで、お前はさらに力を手に入れることができる」
「だって、この子、私が初めて契約した子で、食べるなんて、そんな……」
「喰らわねば、精気を保てぬぞ」
ロアの顔がずいっと近くなる。
その目は金色に怪しく光り、口が割け、よだれを垂らしていた。
それはまるで、自分がさっき見せられた姿と同じだった。
「喰らえ、喰らえ、喰らえ。精霊を喰らわねば、我は此処から出られぬ。忌々しい人間による名付けなど、力さえ戻れば造作もなく取り除ける。協力すればお前には玉座を与えよう。我の下で、人間を統治する権限を与える。我は嘘をつかぬ」
もはや、そこにいたのはロアではなかった。
真っ黒な毛皮を纏った、一匹の獣だ。
声は地の底から震わせるかのように低く、一言発するたびに、身体がびりびりと痺れる。
「外殻とされた哀れな人間の娘よ。我と協力しろ」
「きょ、協力って、そんなこと……」
「力を蓄えるのだ。我が貴様の生命を守る。我は、我の自由を奪ったあの人間へ復讐せねば気が済まぬ」
声を荒げてはいなかったが、確かな怒りの感情を感じる。
シーリントルは彼に飲まれてはいけないと、へたりそうになる心に力を入れて、言葉を絞り出した。
「あなたの、本当の名前は何?」
「それを聞いてどうする。名を縛られていては、真の名など意味を持たぬ」
「つ、つけられた名前で呼ばれて、あなたは平気なの? 誇りはないの?」
「人間が誇りを騙るか!」
何かが逆鱗に触れたのか、彼は吠えた。
「私だって、バカじゃない。あなた、もしかして私に手を出せないんじゃないの? そうじゃなかったら、すぐに殺してるはずだから」
彼はしばらく黙った。
本来、精霊間の会話には言葉など不要なのだから、話しかけることはしないはずなのだ。
「協力は、考えさせてもらいたいな」
「何だと?」
「だって、私まだあなたのこと全然知らないから。名前だって、教えてくれないんでしょ? じゃあ、この話はここで終わりだよ」
ロアは説明の中で精霊に対する優位性を強調していた。
シーリントルは、それを『相手に屈しない心』だと理解した。
それに、この状況はよくわからないが、何やら優位をとっているような気がして、シーリントルは強気に言うことができた。
「――マーナガルム」
オオカミは、呟くように言う。
「まーながるむ?」
「マーナガルムだ。二度言わせるな」
「そっか。私はシーリントル。シーでいいよ」
「馴れ馴れしい人間め。貴様など人間で充分だ」
その瞬間、ガクン、と身体が沈んだ。
突き離されたと自覚したのは、闇の中を意識が浮上していってからだ。
上下もわからないのに、浮上していくと感じるのは、ここが意識の世界だからだろう。
「――おい! シーリントル! 目を覚ませ!」
霞の向こうからロアの声がする。
徐々に景色の輪郭がはっきりしてくる。
紅の目がこちらの顔を覗きこんでいることに気がついて、シーリントルは慌てて離れた。
「あ、あ、え? 今、私、何を……」
「身体を硬直させて眠っていた。魔法による睡眠だ。何を見た?」
「黒い、オオカミの精霊です。マーナガルムと言っていました」
「オオカミだと?」
「何か変ですか?」
「いや、儂の知っている貪食の精霊と姿が違うなと思ってな。お前、もしかすると、自分で精霊を創造したのではないか?」
「そうぞう?」
「優れた精霊術師において最も重要な素養だ。想像して創造する。お前は儂の説明から精霊の姿を想像し、自分の内に姿形を創造した。人工精霊と呼ばれるものを作る方法とほぼ同じだ。意思なき精霊に意志を与えるとも言える。もしかすると、お前は才能があるのかもしれんぞ。儂ほどではないがな」
「才能……?」
いまいちピンと来ない評価を受けて、シーリントルは首を傾げた。