少し授業をしよう
「儂の手持ちの精霊に、こういうやつがいる。出でよ、知識の書」
ロアが呼びかけると、赤い魔法陣が青く光って、中央に一冊の分厚く古い本が現れた。
銀の鎖で十字に巻かれており、大きな真鍮製の鍵がかかっている。
見てくれはとても精霊とは思えないただの本だというのに、禍々しい雰囲気が針のように肌を刺す。
「怖いか?」
不意に、ロアが聞く。
シーリントルはこくり、と頷いた。
「太古より存在するこの世界最古の書物だ。とはいえ、儂がかなり手を加えていじったから、元の様相とはかなり異なる。恐れるような要素は残していないから安心しろ」
「じゃあ、このぐるぐる巻きは……?」
「これはな、こうしておかないと勝手に喋るのだ。さて――」
ロアは服の袖をまくって鍵穴に小指を突っ込む。
錠前に吸い出されるように溢れ出した血が、手と腕を伝って肘から床に滴った。
心配になって見ていると、ロアは困ったように笑う。
「いちいち鍵など持ち歩けないだろう?」
大きな錠前が音を立てて開き、床に落ちる。
それによって抑えられていた鎖が跳ねて、じゃらじゃらと散らばる。
「おい! 起きろ!」
ロアが呼ぶと、宙に浮かぶ古本はひとりでに表紙を開いた。
シーリントルには読めない文字でびっしりと文章が書きこまれている。
しかし、ロアはそれを読むことはなかった。
「なんだ、なんだい!? ここはどこだい!? 知らないところだ!」
本は甲高く喚いた。
その声は男とも女ともとれない声で、喋る。
印象としては少年の声に近いが、何と形容したらいいものか、シーリントルの知識では表せなかった。
「やかましい。調べものをしたらすぐに戻してやる」
「やや、君は精霊の扱いが乱暴な魔女さん! 以前にお会いしたのはいつだったかな!?」
「やかましいと言っているだろう。だから嫌いなのだ。貪食の精霊の情報をありったけ吐け」
「はいはい、貪食の精霊ね……。貪食の精霊!? なんで!?」
知識の書は本とは思えない大きな反応をして、ページを乱暴に開いて慄く。
「お前が知る必要はない」
「そんな! 僕も会ってみたいなぁ! 原始の精霊のうちのひとつだ!」
「そんなことは知っている。原始の精霊はお前だってそうだろう。今はそんなことどうだっていいのだ。儂の知らないことを応えよと言っている」
「なんだい、僕と話すのは嫌なのかい!?」
「ああ、そうだ」
「ひどい! そこの少女もそう思うだろう!?」
「え、あ、あの……」
喋る精霊などという言葉で片づけられないほどに、彼はよく話した。
しかも、全く中身のない言葉の羅列を続けるのだ。
シーリントルは特に嫌悪感を抱かなかったが、ロアはそれがとにかく嫌なようで、早く聞き出そうと彼を急かしていた。
「おい、貪食の精霊はまだ其処にいるか? それだけ答えろ。もう儂が耐えられん」
「君、今度は原始の精霊に手を出すつもりかい? あれを御することなんて、君にだってできるはずがない。原始の精霊は、人間の意識が初めて生み出した精霊だ。誰にも御することが出来なかったから、地層の奥深くに封印されているんだよ」
知識の書は自慢げに言う。
「――今もか?」
「当然だろう? ちょっと待って。……おーい、貪食の精霊って、今もあそこにいるよね? え、いない? ちょ、え? どういうこと?」
「封印、破られておるな」
「そんなことあるの!? あれ、すごく強力だし、破ろうと思ったら人間百人分の生命力くらいはいるよ!?」
「お前の知識は何時で止まっている。今の時代、百人動員すること自体は不可能ではない。馬鹿め。他の精霊が無事か早急に調べて守りを固めておけ。盗まれてからでは遅いぞ。じゃあな」
「あ、ちょっと、待って、まだ話が――」
「じゃ、あ、な!」
ロアは開こうとする本を力づくで抑え、手早く鎖でぐるぐる巻きにして、魔法陣の中へ押し込める。
するおと、青い光が消え、元の赤い魔法陣へと戻った。
「はあ、うるさいやつだ」
「今の、本当に精霊?」
「『知識の書』は精霊王の知識と直接繋がっている書物だ。本の形をした精霊を元にしてそういう能力を持つ精霊に仕立て上げたのだが、喋るようにする必要はなかったと後悔している。やはり本は本であるべきだ」
精霊王という名は図書館の本で見たことがある。
全ての精霊を束ねる自然界の王であり、この世界の主。
実在するかどうかもわからないが、そういうものが存在しなければ説明のつかないことがたくさんある、とその本には書いてあった。
「どうだ、幻滅しただろう。だから人前には出てくるなと言ってあるのだ」
「幻滅っていうか、ただびっくりして……。でも、話すのやめてよかったの? 貪食の精霊について聞きたかったんじゃないの?」
「貪食の精霊については知っている。あれは特殊な精霊でな。確証が欲しかっただけだ」
ロアはベッドに腰かける。
「さて、夜も更けたが、少し授業をしよう。お前は原始の精霊についてはどれくらい知っている?」
シーリントルは首を振る。
「……初めて聞いた」
「わかった。ではまず、そこから説明しよう。原始の精霊というのは、今現在存在している精霊とは似て非なるものだ。主に、人間の意識や魔力から生まれる」
「人間から、生まれた精霊?」
「そうだ。その辺りにいる精霊だって、元は自然物から生まれ出たもの。何も不思議ではない。ただ、原始の精霊と呼ばれるには、理由がある。それは、彼らが人間の根源的な感情や意識から生まれたものだからだ。人間がこの世界にギフトとして誕生した時、彼らは生まれた。だから、人類史の始まり、原始の精霊なのだ」
「ちょっと、難しいね。えっと、私の中にいる精霊は、その原始の精霊なの?」
「ああ。貪食の精霊という、飢えた人間の意識が大量に集まって作り上げられた意識だ。飢えは怒りを呼ぶ。まあしかし、その辺りは単純なものでな。一定の欲求が満たされたら、原始の精霊はしばらく眠る。ラッセルが大暴れしたおかげで、今は表に出てくるような強い欲もないのだろう」
シーリントルはその話で、おおまかには納得できた。
しかし、それはいつまた外に出てきてもおかしくないということでもある。
「貪食の精霊のことはわかった。でも、私は私のままで、強い力が出せたんだけど、あれはどうして?」
「貪食の精霊にとって、入れ物であるお前の体は大事なものだ。精霊の魔力がお前の魔力と繋がっているため、お前からの魔力の供給が途絶えると精霊は消滅する。貪食の精霊としてはお前に死なれては困るわけだ」
「なるほど……?」
共生みたいなものだろうか。
「そこでお前に問題だ。どうしたら貪食の精霊を完全に支配下に置くことができると思う?」
「へ?」
それはさっき不可能だと知識の書が言っていたはずだ。
だから封印したのだと。
「だってそれは――」
「お前も先程の話が引っかかっているのだろう。誰にも御することができなくて、封印せざるを得なかった。しかしそれは太古の話だ。今とは状況が違う。人間の文明は先へと進む。時間の流れに取り残されてその場にとどまることしかできない精霊とは違う」
「昔の人たちにはできなかったことが、ロアちゃんなら、できるってこと?」
「やるのはお前だ、シーリントル。儂にできることはせいぜい助言くらいだ。力が強いだけでは人間には勝てぬということを思い知らせてやればよい。方法は任せる」
ロアは楽しそうにこめかみをトントンと指先で叩く。
そういえば、この人はこういう人だと聞いていた。
きっと、知恵比べがしたいのだろう。
貪食の精霊を操るまでに至らなかった、過去の才人たちと。
当事者として、シーリントルはそこに少し不安がある。
人間の身体は道具ではないのだ。
任せておけと言いながら、肝心な部分は自分でやれと放り出されるのは納得がいかない。
しかし、シーリントルも自分のために彼女の言うことを受け入れるしかなかった。
父を他の誰にも殺させず、最速で辿りつくには、彼女の力が不可欠だからだ。
もやもやとする心が嫌になって、シーリントルは話題を変えることにした。
「でも、そんな怖い精霊を、どうやってお父さんは出したの? さっきの話だと、ちゃんと見張ってたんだよね?」
「やりようはいくらでもあるし、儂でも考えつかないようなことを行っている可能性はある。精霊というものは単純でな。眠らせたり魅了したりして監視の目をすり抜けることは、知識さえあればそう難しくない。食欲で我を失いかけたお前なら、なおさらわかるだろう」
「たしかに……」
「――だが、結界だけは別だ。あれは理以外のものを受け付けない。仕様からして、アレを開くにはおよそ百人分の命を与えねばならないと伝えられていたのだ。結界に付与された呪いが失われるまで、ひとりずつ、順番に並んで、な」
その情景を想像するだけで、シーリントルは寒気を感じた。
目の前で、人が狂って倒れていく様子を眺めながら自分の番を待つなど、正気の沙汰ではない。
「……グロテスクな話は置いておこう。お前の父がどうやって封印を解いたのか、今は考えずともよい。貪食の精霊に『不気味な男』という名をつけてラッセルに乗り移らせたことだけが、揺るぎない事実だ。これは、古の魔術だ。名をつけることで、対象を支配下に置く。ラッセルがなぜこの魔術を知っているのか気になっていたが、センがこの魔術を知っていてラッセルに行使したと考えれば納得がいく」
「名前をつけるって、そんなに重要なことなの?」
「そうだとも。名前をつけることで、精霊は格段に実在性を増す。そして、実在性を担保にとることで、その命令には逆らえなくなる。センがラッセルへ施したのは、そういう術だろう。いかに強力な力を持つ精霊であっても、存在と名前をひとりの人間に縛られていては何もできん。とはいえ、無理強いしているが故に、全力も出せないはずなのだがな。ラッセルのあの力が全力でないとすれば恐ろしいことだ」
ラッセルがそのような問題を抱えていることは知らなかったが、裏では激しい葛藤と戦っていたに違いない。
今自分が抱えていることと、同じなのだから。
「ちなみに、本来の魔術ならば物理的な生物を完全に服従させることができる。これは知識だけではできないため、現状、儂以外に使える者はいない。いてはならない、と言った方が正しいか。人間社会など一瞬で転覆できてしまうからな」
「え、最悪……」
「ハッ、素直な感想だ。だが、結局、センには効かなかった、役立たずの魔術だ」
自嘲気味に、彼女は言う。
「どうしてお父さんには効かなかったの?」
「過去を持たない、同一の名前を持たない者には極めて効果が薄い。例えば、名前をつけられることなく育った孤児などは、この方法で縛ることができない。お前の知る父の名と、外で使う名、他にも複数の偽名を用いているはずだ。この魔術に対する、防衛策として」
「待って、それって事前にかけられることを知っていないと成り立たないよ」
「その通り。やつは儂を表舞台に引き出すつもりだった。儂のことをあらゆる手段を講じて調べ尽くしていると考えるべきだろう。だから、儂はやつの知らない、新しい対抗手段を考えなくてはならないわけだ」
シーリントルは、ハッと気がつく。
「もしかして、それって、私?」
一瞬の間があいて、ロアは笑った。
「そうであればよいが、お前にはお前の人生がある。何より、これ以上やつに関わらせたくはない。やつはお前を復讐者に育てあげたがっていた。その計画を壊すには、お前が無関係なところで、平和に暮らすのが一番だ。いずれ、体内の精霊も取り除く。普通の人間として生活を送れるようにな」
「そっか。でも、そうだよね。滅鬼さんもいるし、私は必要ないよね」
シーリントルはわざとらしくむくれてみせた。
もちろん、諦めるつもりはないが、ポーズだけでも見せておかねば。
「そう言うな。独り身の儂が言うのも何だが、女の幸せを探すのも悪くないことだ。さて、お前に関してはもうひとつ調べたいことがある」
手の平に、黄土色ですべすべの平たい饅頭のようなものが出現する。
「これは、ラッセルに切られた儂の精霊ノームだ」
「かわいい。お饅頭みたい」
「食べるなよ。お前も学校で習ったと思うが、精霊は剣や矢で破壊できるものではない。しかし、そこに特定の魔法式が乗っていれば、その刃は精霊へ届く。儂はノームが弾けた瞬間に全力で消滅を回避したが、どんな魔法であったとしても、たったの一撃でここまで細かく弾けることは、通常なら考えられない。こいつだけでなく、風の精霊シルフも、同様にやられた」
反対側の手に、半透明の饅頭が出現する。
「ごめん、私まだ詳しくわからないんだけど、精霊ってこの、卵みたいになっても大丈夫なの?」
「全く、大丈夫ではない」
ロアは力強く言う。
「精霊の力と容姿の複雑さは比例する。これでは元の姿の百分の一も力を持たん。ここから育てて元に戻るまで三十年はかかるだろう。まあ、生きていくのに最低限の物資は調達できるが、それ以上は無理だ。それよりも、その消えた半身がどこへ行ったのか、儂は気になっていたのだが、お前が貪食の精霊を内包していることがわかって、腑に落ちたのだ」
「それって、もしかして、貪食の精霊が食べてしまったってこと?」
「察しがいいな。霧散した途端に吸い込むなど想像したくもない食欲ではあるが……」
「じゃ、じゃあ、精霊を食べないように気をつけないと、だね」
あの、我を忘れるほどの食欲。
制御できるだろうかと不安になって、シーリントルは静かに唸った。




