今から儂の部屋に来い
何も起こらないはずだというロアの言葉を信じて、シーリントルも自分の寝る部屋を選び、軋むベッドの上にシーツ代わりのマントを広げて横になる。
静かなところで考えたいことはたくさんあった。
シーリントルは目を閉じて深呼吸をする。
ひとりきりになるのは本当に久しぶりだ。
ずっと入院していて、内に眠る精霊の暴走に備えて傍らには常に滅鬼がいた。
ここには監視は誰もおらず、暴走を止めるための精霊もいない。
ロアはシーリントルを信用しているのだろうか。
病院の廊下を壊して、滅鬼と戦って暴れたこの自分を。
(わかんないこと、ばっかり)
シーリントルには、彼女が何を考えているのかわからない。
もやもやとしながら天井を眺めていると、くう、とお腹が鳴った。
そういえば、今日はまだ何も食べていない。
ロアはその身体に食事は必要ないと言っていたが、それでも腹は減るものだ。
「食べ物、この中にはないよね……」
ずっと放置されていた廃屋だ。
たとえ塩漬けの保存食であっても、怖くて食べられない。
ロアは積み荷に食物の類は乗せなかった。
水すら精霊から調達できるのだから、荷物は必要最低限、極端に少なくなるのだ。
「うーん……」
では、この空腹感はどうすればいいだろう。
夜闇に覆われた森で木の実を探すのも、野生動物を捕まえることも、シーリントルの知識では不可能だ。
素直にロアへ相談しようかと思った時だ。
鼻孔をくすぐる匂いが、廊下から漂っていた。
「これって、もしかして……」
母が良く焼いてくれていたポットパイの匂いだ。
ふらふらと、その匂いがする方へと進む。
炊事場と思われるところへと誘われ、シーリントルは目を疑った。
そこには、かつて何度も見たであろう風景が広がっていた。
母が料理を作っていて、丸いテーブルの上には、ポットパイと野菜をヤギの乳で煮たものと、鶏の丸焼きが並んでいた。
口の中に唾液が溢れるも、自分の中の何かが、足を前に進ませない。
――これは、本物じゃない。
理性とは違う部分の感性が、シーリントルをその幸せな食卓へとは進ませなかった。
ほとんど無意識に、手の平にウィル・オ・ウィスプを浮かべていた。
「行って」
小さな光球は、その部屋に入り込み、縦横無尽に跳ねまわった。
精霊の通った軌跡の分だけ、幻影は消えていく。
幻影はこちらに反撃してはこなかった。
ただされるがままに消されていく。
これが、物の持つ記憶が生み出した精霊なのだと、その様子から感じてしまう。
人に接触する手段を持たないから、こうして人の記憶を介して幻覚を生み出すくらいしかできないのだ。
すっかり元の廃墟に戻った食卓を見て、手元に帰ってきた光球の精霊へ視線を移す。
(あれ、おかしいな)
見ていると、動悸が激しくなる。
抑えきれない欲求が、腹の底から湧き上がってくる。
口から垂れたよだれが床に小さなシミを作る。
――おいしそう。
屋敷の微弱な精霊を掃除し終えたウィル・オ・ウィスプが、たまらないご馳走に見えてきたのだ。
ここにあった、物の記憶が生み出した精霊にもなれない哀れな幻想を飲み込んだウィルは、最初よりも少しだけ大きくなったようだった。
それはさながら、できたてのパンのようで、温かくて、柔らかくて、良い匂いがした。
シーリントルが衝動的に、その光球へと噛みつこうとしたその時だった。
「――やはり、そういうことか」
背後にロアが立っていた。
「儂はお前のことを初めは人型の精霊だと思っていた。奴が『不気味な男』などという紛らわしい名前をつけたせいもあるし、ラッセルのやつも道具を使っていたしな。しかし今、はっきりとわかった。精霊を食物として見ているやつなどお前しかいない。お前は貪食の精霊だな?」
ロアの言っていることが、頭に入ってこない。
シーリントルは食事を邪魔されたことに苛立ちを感じ始めていた。
封印されているはずの怒りが、自分の内からふつふつと沸き立ってくるのを感じる。
それを見たロアが大きなため息をついて、目の前に水の鏡を作り出す。
「お前、自分の顔を見てみろ」
シーリントルの目に飛び込んできたのは、口の端が割け、顎を大きく開いてぼたぼたとよだれを垂らす、悍ましい自分の姿だった。
目は大きく開かれて、いつもは桃色の瞳が怪しく金色に光っている。
その形相が恐ろしくなり、後ろを向いてうずくまった。
「あ、ああ……!」
「今のお前の姿だ。やれやれ、今日はさすがに疲れているだろうと気を使ったのが裏目に出たな。むしろ、疲れたから影響を強く受けたのか……。儂の部屋へ来い。教えなければならないことがいくつかある」
ショックから立ち直る間も与えられないまま、シーリントルは二階へと連れて行かれる。
ロアの部屋も、シーリントルの部屋とそう大差はない。
ただひとつの違いは、床に描かれた大きな赤い魔法陣だろうか。