疲れませんか?
――馬車が大きく揺れた。
シーリントルはまるで雪のように白い自分の手を眺めながら、何を考えるでもなく、ぼうっとしていた。
ロアはいつの間にか、ひじ掛けに頬杖をついたまま眠ってしまっている。
多少頭が良くとも、せいぜい十歳の精神で、現状をありのまま受け入れられるはずもなく、無意識に両親のことを考えないようにしている。
未だ自立しきれていない子供の精神は、家庭環境の影響を大きく受ける。
シーリントルはロアによって精霊の新たな世界を開かせてもらい、そこに対する好奇心で、胸に開いた空虚な気持ちを押し殺しているが、いつそれが崩壊するか、自分でもわからなかった。
外は段々と暗くなり始めて、空には星が出始めていた。
丸一日こうして座っているのに、まるで疲れを感じていない。
そうした時間へ対する意識は“人間だったころ”には、まるで感じられなかった。
自分の時間の流れは自分だけが感じており、長いや短いは各々によって変わるということを、感覚で理解していた。
そのおかげもあってか、自分が人間とは違うものでありながら、精霊とも違うものであることを、ありのまま受け入れられている。
その点に関しては、ロアが言っていた。
――種族が何であるかと、人格は別物であると。
シーリントルは自分が自分である限り、自分であり続けることができる。
彼女なりに、シーリントルを肯定しようとしたのだろう。
その気持ちを、シーリントルはできる限り受け止めた。
だからこうして、彼女の旅路についていくことができたのだ。
しかしながら、身体が以前と違っていることは純然たる事実であった。
その証拠に、集中している時間とそうでない時間とで、流れ方がまるで違い、気がつけば何時間も経っていることがよくある。
御者をしている滅鬼も同じように感じているのだろうか。
シーリントルは滅鬼の方へ近寄り、顔を覗かせた。
「すみません、隣に座ってもいいですか?」
滅鬼は返事をしないが、話は通じたのか、少し左へずれた。
礼を言いながら、シーリントルは彼の隣に座る。
二頭の馬が、力強く馬車を引っ張っている。
「疲れませんか?」
シーリントルが話しかけると、彼は首を振る。
(すごい……本当にお話できるんだ)
ロアはよく精霊と話したと言っていたが、こうして自分で体験するまで想像もできなかった。
言葉が通じたことに軽く感動すら覚える。
「今日はどこまで行くんですか?」
空を見上げて言う。
木々の合間から星空が見える。
自分たちは平気だが、馬は休ませないといけないだろう。
少しの間があって、肯定か否定では答えられない質問をしたことに気がつき、シーリントルは思わず口をつぐむ。
すると、ふわふわとした、はっきりとは説明のつかない空気の流れのようなものを感じた。
「あと、少し……?」
空気中を漂う魔力の波のようなものが、皮膚に当たって、その反響が、身体の内で響いたような、不思議な感覚だ。
これが精霊同士の会話なのだろうか。
精霊術を勉強していても、習ったこともなく今まで感じたことのない現象だった。
「ああ、あと少しで広場がある。今日はそこまで行くつもりだ」
唐突に背後からロアの声がして、シーリントルは驚いて小さく飛びあがった。
「あ、あれ? 寝ていたんじゃ」
「うたた寝をな。それよりも、今お前、滅鬼と会話していなかったか?」
「え、あ、それは……」
なんだか聞かれていたと思うと恥ずかしくなって、言葉を濁す。
しかしロアは心底嬉しそうに目を輝かせていた。
「お前にも分かったか。精霊の声が」
「声というほどはっきりとは……」
「それであっている。基本的に精霊は言語を持たないからな。意味だけを直接伝えようとしてくるものだ。しかし、儂の他にそれを感じられた者に出会ったのは初めてだ。体の変化が感覚器官にも変化を及ぼしているのだろうか……。もし、何かまた気がついたことがあればすぐに伝えてくれ。最悪、自分がわからなくなることがあるかもしれん」
自分がわからなくなる、とシーリントルは小さく反芻した。
「それは、精霊に触れすぎて?」
「近すぎて、だな。こいつらは個の形を保っているように見えて、実際はあやふやな存在だ。儂は実在性と呼んでいるが、精霊はこちらが認識しなければ存在しない。他者からの観測によりのみ、実在性を保つことができるのだ。それを、一般の精霊術師は契約と呼ぶ。自分の体に縛りつけることで、強制的に実在性を保つのだ」
「少し難しいか」とロアは苦笑する。
「……そうだ。ロアちゃんはどうしてたくさんの精霊と契約ができているの? 普通はひとりにひとつ、だよね」
「それは儂がお前たちの言うところの契約をしていないからだ。魔力を差し出すことだけが契約ではない」
「……え?」
真っ暗な森の中で、馬車は止まった。
道をそれたところで、月明かりに照らされた広場が見える。
「ほら、着いたぞ」
そこには、ボロボロの館があった。
立派な屋敷だが、長い間使っていないのか、壁はひび割れてその隙間からツタが伸びている。
窓ガラスにも穴があり、中は隙間風が吹きすさんでいることだろう。
「ここって?」
「ここで寝泊まりするのだ。放置された廃屋があると聞いていたのでな。嫌か?」
「そういうわけじゃないけど……」
些か不気味であること以外は許容範囲だ。
ロアが扉を開くと、埃っぽい空気が外へ漏れだした。
本当に長い間、人が訪れていなかったようだ。
「不審な輩の出入りがないことは事前に調べてもらっている。安全な場所だと思っていい。これだけ大きな屋敷だから好きな部屋を使え。儂は二階の部屋を使わせてもらうぞ」
そう言いながら、トカゲの形をした火の精霊を召喚して、屋敷に灯りをつける。
「あー、それとこの屋敷には微弱な精霊が住みついているようだ。もしかしたら出くわすかもしれないから、先に言っておく」
「本当に精霊なの? 死んだ人とかじゃ……」
「かもしれんが、大した違いはあるまい」
「いや、全然違うよ!?」
人の精霊など見たことがないし、そもそもそれは精霊と呼ぶべき存在なのだろうか。
「あ、あ、あの、実在性は? ほら、ここには誰もいないし、実在性が、ないんじゃない?」
「人間を基準に考えればそうなるが、ここにある物や家具が、その精霊を覚えている。そうすれば、精霊は実在性を失わない。そもそもそれでは、人間の生活圏の外には精霊が存在しないことになってしまうだろう」
「たしかに、そっか……」
物の記憶が精霊を生み出す。
ならば、記憶による実在性の損失というものは、実際のところ、ないのではないだろうか。
「とはいえ、魔力を生み出す動物が関与していないのだから、それほど強力な存在を維持できるはずもない。だから、いてもいなくても、さほど影響のない程度のものだ。儂らが侵入したことに気がついても姿を現さないことから、本当に気が弱い奴らなのだろうな」
ロアはからからと笑う。
こちらとしてはあまり笑いごとではないのだが。
言われてみると、たしかに誰かいるような気がしてきた。
気のせいかもしれないが、べったりと張りつくような視線を感じる。
「おーい、どうした? 何か気になるか? 寂しいなら共に寝てもかまわんぞ」
「……ううん、大丈夫。私、一階で寝るから」
「そうか。では、また明日な」
ロアは精霊を連れて、階段を上っていく。
仄暗い屋敷の中でシーリントルはひとりになった。