ごめんなさい
目が覚めると、視界には白い天井が広がっていた。
頭がぼんやりとしていて、思考に霞がかかったようだ。
シーリントルは、喉の渇きを感じて、視線を動かす。
サイドテーブルには水の入ったグラスが置いてあった。
ゆっくりと手にとって、口へ運ぶと、まるで乾いた砂に沁み込むかのように、水分が体に取り込まれていくのがわかった。
いったい、どれだけの時間を眠っていたのだろう。
「……痛っ」
体を少し動かすだけで、全身が引きつったように痛む。
そういえば、と石化したはずの手足を見ると、少し白みがかった肌の色をしているものの、きちんと怪我もなく繋がっていた。
安堵から力を抜いて、ベッドへ、ぼふん、と体を預ける。
「私、生きてる……」
なんだか、長い夢を見ていたような、そんな気持ちになった。
記憶もひどく曖昧で、おぼろげにしか思い出せない。
父と母のことを思い出すと、涙があふれそうになるが、不思議と悲しみが心の内で止まってしまう。
心の出口に戸締りをされたような感覚がして、シーリントルは胸の辺りをキュッと掴んだ。
胸元に硬い石の感触がして、覗きこむと、体の中心に赤い石が埋め込まれている。
先端が少し見えているだけで、その石のほとんどは体内に沈んでいるようだ。
なんとなく、これが自分の命を繋いでいることを感じた。
(心臓、みたいなものなのかな……)
ぼんやりと、そんなことを考える。
体中が痛くて、ベッドに寝転んだまま、シーリントルは何が起こったのか思い出そうと頭を働かせていた。
家に帰って、それから、母と父の姿を見て、父が母を殺した。
それは覚えている。
そのあと、何が起きたか、覚えていない。
母はどうなったのだろうか。
死んだと思い込んでいたけれど、こうして自分が病院らしき場所に運ばれているところを見るに、どうやらあのあと誰かが来て助かったのだ。
もしかしたら、母もここにいるかもしれない。
(そう思いたいのに……)
どうしても、母が生きているとは思えなかった。
きちんと調べたわけでもないのに、シーリントルは確信めいたものを感じていた。
だからこそ、心のざわつきが少ないのだろうか。
悲しみの涙よりも、これからどうするか考える方に、思考が切り替わっていた。
頭が冷静になっていくと、体の痛みがより鮮明に伝わってくる。
上腕とふとももがとにかく痛む。
それに、胴体の中心、石のあるところも痛い。
落ち着いて、仰向けに寝転がったまま、右手を顔の前にかざす。
まるで自分の手じゃないみたいだ。
いやきっと、自分の手ではないのだろう。
ここでじっと待っていたら、何が起きたのか説明してもらえるのだろうか。
シーリントルは痛みに顔をしかめながら、体を起こして、窓の方へと歩く。
「高い……」
ここは三階か四階のようだ。
遠くに見える景色から考えると、ここは町の中央にある協会支部と隣接している大病院だ。
町のあちこちが壊れている様子が、ここからでもわかる。
これだけ壊れているのだから、たくさんの怪我人が出たに違いない。
その景色を見ても、シーリントルにはまだ実感がわかなかった。
あの日、普通ではないことがこの町で現実に起こったのだ。
(あれ、身体が……)
歩き始めて気がついた。
痛みがなくなって、全身が羽根のように軽い。
眠っているよりも動いている時の方が調子がいいのだろうか。
ゆっくりと手すりを伝いながら、部屋を抜け出る。
「え」
廊下には、石の彫像のような、甲冑を来た何者かが立っていた。
額からは二本の角が生えていて、そのうち一本は欠けている。
彼は、何も言わず、その重くて硬そうな腕を、ぬっと伸ばしてきた。
シーリントルは思わず跳び退く。
その行動に反応したかのように、今度は、彼は素早く距離を詰めてきた。
「な、何!?」
こちらを掴もうとする腕を躱しながら、シーリントルは廊下の端へと追い詰められていく。
「なんでこんなこと――」
喋りかけていたのに、聞く耳も持たず、石の甲冑は突っ込んできた。
掴まれることは避けたが、凄まじい力押し出され、廊下の壁を突き抜けて、シーリントルは彼と共に病院の外へと飛び出た。
何が何だかわからないが、全身の神経が危険だと告げている。
このまま地面に頭から落ちたら、今度こそ死ぬ。
空中で彼を蹴り飛ばし、身体を反転させ、猫のように四足で着地する。
「はあ、はあ……」
彼は背中から落ちたのに、何事もなかったかのように、すぐに手をついて立ち上がった。
息切れもしていない。
(逃げないと!)
そう思っても、背中を向けてはいけない気がしていた。
先程もそうだったが、瞬発力なら彼の方が上だった。
(でもなんで、私、こんなに身体が動いて……)
これこそ、本当に自分の身体ではないような感覚だ。
全身が羽根のように軽くて、考える前に手足が動く。
「あなたを倒さないと、逃がしてくれないってこと?」
恐る恐る対峙してみる。
さっきは逃げるのに必死だったが、動きはちゃんと見えていた。
喧嘩などしたこともないが、今の自分なら、きちんと集中すれば、倒せるかもしれない。
シーリントルに戦う意思を感じたのか、彼はじりじりとすり足で距離を詰めてくる。
怖いという気持ちが起こる前に、シーリントルは本能の弓に弾かれたようにして動いた。
地を蹴る感触と、眼前に迫る相手がほとんど同時に感覚を刺激する。
あまりの速さに、手段を考える余裕どころか、思考する時間すらない。
上手から多い被さるように動いた相手の胸の中心に、反射的に拳を突き出す。
ドガン、と到底人体からは起こりえない音と衝撃が響く。
重そうな石の身体が、少しだけ宙に浮く。
シーリントルには、全てがゆっくりに見えていた。
思考は全く追いついていないが、身体は自然と動く。
彼の頭を空中で掴む。
防御の姿勢もとる間もないまま、彼は頭部を地面に叩きつけられ、大地にひび割れを起こした。
「……あっ」
シーリントルは小さく声をもらした。
制御できないどころか、敵を倒すために最適な動きを、身体が勝手に判断した。
息切れもしておらず、手も震えていない。
戦ったという実感すら、わかない。
「生きて、る?」
シーリントルは、怖さを感じながらも彼に触れようとする。
すると、彼は跳ね起きて、シーリントルと距離をとった。
先程とは様子が違い、眼光が赤く光り輝き、折れた角の断面にもルビーのような光が見える。
死んでいなかったことに安堵すると同時に、ひりひりとした空気を肌で感じる。
怒っているのだ、とシーリントルは思った。
あれだけの衝撃でも、傷ひとつついていないということは、先程までは本気ではなかったということだろう。
「ご、ごめんなさい! 私、あなたと争うつもりじゃなかったんです!」
今更、彼を説得しようと試みる。
彼は、今度は慎重さを捨てて、ずかずかとシーリントルへと歩み寄ってきた。
(ど、どうしたら!?)
戦いたくないが、背を向けることもできない。
シーリントルは唇を噛みしめて、拳を構える。
心の底から逃げ出したいのに、身体はそんな様子を見せない。
動けなくなるまで戦うしかない。
覚悟を決めた、その時だった。
「――止まれ!!」
怒号にも似た叫びが聞こえる。
病院の、廊下に開いた大穴から、銀髪で黒い服の少女が見下ろしていた。
石の男は、彼女を見上げて、歩みを止めた。
両腕も力なくだらんと垂らし、赤い光も消えている。
どこかで見たことのある少女は、廊下から飛び降りる。
彼は駆け寄って彼女を抱き止めて、優しく降ろした。
彼女はシーリントルに深々と頭を下げた。
「すまん。少し目を離していたうちに、暴走したようだ」
「いえ……」
「儂のことは覚えているか? 一度目を覚ました時に会っているが」
「すみません。わかりません……」
「では、もう一度、自己紹介をしよう。儂は名をロアと言う。精霊術師兼、薬師だ」
「あ、ああ、はじめまして。シーリントルです」
シーリントルよりも少しだけ背の低い彼女と握手をする。
「記憶が曖昧になっているのか?」
「はい……。私、どうなったんですか? お母さんとお父さんは……」
「その話は中でしよう。――まったく、派手にやってくれたものだ」
彼女は困ったように、ひび割れた地面と病院の大穴を見つめた。