席につこう
その日、シーリントルは足取りも軽やかに帰路へついていた。
眼鏡の奥で、父親と同じ桃色の瞳を爛々と輝かせ、茶色の短い髪を風に揺らす。
今日、学校で先生に褒められた。
クラスで唯一、精霊と契約を結ぶことに成功したのだ。
普通なら一年をかけてゆっくりと体に馴染ませていくものを、十日でできるようになった。
才能がある、と過大すぎる評価さえもらえたのだ。
これが浮かれずにいられようか。
授業で契約した精霊はウィル・オ・ウィスプというただ明るいだけの光の球だが、それを自在に操った興奮は今も忘れられない。
魔法の恩恵をたくさん受けているこの時代、ほとんどの人は魔法の方が便利だと言って、精霊術はあまり好まれない。
確かに、精霊術師は一体だけの精霊しか契約できないし、精霊の成長度合いや術者との相性によってできることは変わる。
後になって魔法を習っておけばよかったと後悔する人もいるくらいだ。
しかし、シーリントルはその不便さが気に入っていた。
口で言わずとも動いてくれる感覚を味わったら、もう戻れない。
上へ下へ、自在に動く精霊は、まるで自分の手足のようだった。
興奮が先立ってしまい、まだ上手には動かせなかったが、あと数回も練習すればウィル・オ・ウィスプは完全に意思と繋がるだろう。
そしたら、今年は、本当なら再来年でないと出られない精霊術の大会に出られる。
きっと、母はそれを喜んでくれる。
自分が頑張ってる姿を見せたら、父も少しはまともになるかもしれない。
(早く、お父さんがちゃんとした大人になれたらいいな)
シーリントルの悩みの種は、主に父のことだ。
収入がないことにも、借金を作ったことも、シーリントルは怒っていない。
なぜだかわからないが、父のやることに腹が立たないのだ。
しかし、家に全く帰って来ず、母に苦労をかけていることだけは、どうしても許せなかった。
母はきっといつ帰ってきたとしても、シーリントルと同じように笑って許すだろう。
だったら、自分が代わりに叱ってやらなければならない。
たとえ形だけだとしても、それが落としどころだと、心のどこかで理解していた。
運がいいのか悪いのか、父はロアというとても面倒見の良い人に拾われたのだ。
年齢はシーリントルと同じくらいに見えたが、とても優秀な人間のようだったし、あの父を逃がさず仕事させているだけでも、その能力の高さは伺える。
更生が済んで、心身共に綺麗になって帰って来たら、その時は父に優しくしてやってもいいと思っていた。
昔、誕生日に父から買ってもらった、センスのない銀縁の眼鏡を上げて、自宅を見上げた。
考え事をしているうちに帰ってきてしまったようだ。
家には灯りがついていて、すでに母が帰ってきていることがわかる。
ずっと考え事をしていたからか、早く帰って母の顔が見たくなった。
シーリントルの歩みが早くなる。
玄関の扉に手をかけようとした時、中から話し声が聞こえてきた。
「シーはまだ帰っていないのか?」
それは、父の声だった。
シーリントルはなんとなく会いたくなくて、ドアノブから手を離した。
まだ帰ってこられないという約束だったはずなのに、帰ってきているのだ。
――やっぱり、父の性格は治らなかったということだ。
真面目に働くと約束したのに、ロアの目を盗んでこうして好き勝手に行動してしまう人間なのだ。
シーリントルは酷く裏切られたような気がして、鉢合わせしないように、二階にある部屋へはこっそり帰ることに決めた。
幸い、自室の窓の鍵は閉めていない。
「ええ。もうすぐだと思うけど……」
「そうか、だったら中で待とうかな。あがってもいい?」
「その前に、なぜ帰ってきたのか教えて」
母の芯の通った声に、シーリントルは聞き耳を立てた。
玄関の外に聞こえるくらいの大きな声であることを考えると、母もあまり快くは思っていないようだ。
「顔が見たくなってさ」
ため息が出る。
やっぱり、この人はダメだ。
やりたいことの我慢ができない人なんだ。
だから賭博もするし、借金もするし、逃げ出しもするのだ。
シーリントルは家の裏へ回ると、自分の部屋の窓を見上げた。
「我が呼び出しに応えよ。光の精霊、ウィル・オ・ウィスプ」
手の平から、大きな光の球体が生まれる。
ウィル・オ・ウィスプは光でできているが、触ることのできる物質的な体も持っている。
その上に乗ると、体重で少し表面が沈んだ。
意識を集中して魔力を流し込み、精霊を操作して二階までゆっくりと上昇する。
窓から中に入り、精霊から降りた。
とりあえず、彼が帰るまでここで静かにしていよう。
そう思っていたのに、階段を上がって来る音が聞こえた。
いつも聞く静かな母のものとは違い、がさつにダンダンと踏み鳴らす足音だ。
(私まだ帰ってないって言ったのに!)
おそらく、部屋を覗きたいとでも言ったのだろう。
こちらとしては冗談ではない。
部屋に鍵はついておらず、入られたら見つかってしまう。
ここまで来たら、絶対に対面したくない。
シーリントルは靴をカバンにしまってクローゼットの中に隠れた。
扉をぴったりと閉めると、微かな光も入ってこない。
耳をそばだてていると、無遠慮に扉を開く音が聞こえて、侵入者は部屋へと入ってきた。
「本当にいないんだ」
シーリントルは背筋が凍る思いがした。
父はシーリントルが会いたがっていないから、居留守を使っているのだと決めつけて部屋へ来たのだろうか。
そう思っていたとしても、普通は行動に移すだろうか。
呆れを通り越して、恐怖すら感じる。
この人には人を思いやる気持ちなど微塵もないのだ。
どうして母はこの人と結婚したのだろうと、何度も考えたことがある。
その答えはまだわからず、確かめることも怖くて、口に出したことはない。
父はしばらく部屋の中のものを漁っていた。
何を見ているのかはわからないが、できれば何も触らないで帰ってほしい。
止めるために出て行くこともできず、シーリントルはじっと耐えた。
クローゼットに手をかけることはなく、彼は部屋から出て行った。
扉の閉まる音を聞いて、ほっと胸をなでおろす。
そのまま出て行けずにしばらくじっとしていると、すぐに階下で何かが倒れる音が聞こえた。
小さく息を吸う。
クローゼットを少し開いて、部屋を見る。
床に透明な液体がまかれていた。
(なに、これ……)
液体からは仄かに甘い匂いがしているが、正体はわからない。
触るのも嫌で、シーリントルは踏まないようにそっと部屋から出る。
何をされたのかわからず、困惑しながら父の姿を探した。
物音を立てないよう、静かに歩みを進め、階段に差し掛かった時、何かが視界の端に見えた。
父が、ぐったりとした母を抱きかかえて引き摺っていたように見えたのだ。
「お父さん……?」
自分自身へ聞くかのように小さく呟く。
もしかして強盗がだろうか、と一瞬勘違いするほどに、シーリントルは気が動転していた。
あまりに理解の及ばない状況で、見つからないように隠れていたい気持ちと、何が起こっているのか確かめたい気持ちとがぶつかって葛藤し、ふらふらとした足取りで、階段を降りて行く。
父は母を椅子に座らせていた。
母は目を閉じており、明らかに意識を失っている。
そのとなりで慌てた様子のない父。
異常な光景とは裏腹に、むしろ機嫌が良く見える。
父は台所へと向かっていた。
包丁を使う音が聞こえて、それから、何か焼く音が聞こえる。
何が行われているのか、ひとつも理解ができない。
シーリントルは階段から一歩も動けず、向こうから見えない位置で様子を伺うことしかできなかった。
しばらくすると、父はテーブルに平皿を持ってきた。
どうやらスープのようだ。
父は母のとなりの席に着くと、ひとりで喋り始めた。
「今回もありがとう。この十五年、とても楽しかったよ。君は本当によく働いてくれた。俺は目的を果たせたし、君は生きる意味を見つけられた。お互いに祝福しようじゃないか」
話を盗み聞きするため、シーリントルはもう少し部屋へ近づく。
「君は、初めて会った時、言ったね。この人生に悔いはないって。今はどうだい? もう少し欲が出て来たんじゃないか? 子供を作ればその成長も見たいと思うだろう。でも、君とは十五年の契約だった。契約はきちんと守られてこそ意味がある。俺にとっても、君にとってもね」
普段の父とは少し口調が違うように感じた。
父の姿をした、何者かがそこにいるような、奇妙な違和感があった。
「シーリントルが帰ってきてから始めたかったけど、予定が迫ってるから、ごめんね」
父は、母の腕をとってテーブルの上に乗せた。
(お母さんの手が……)
母の手首からは赤い血が溢れ、滴り、てらてらと光る。
シーリントルは眩暈を覚えて、しゃがみ込んだ。
きっと悪い夢を見ているのだ。
こんなことが現実であるはずがない。
そんな不安定な気持ちに反して、頭は冷静に父の言葉を咀嚼して、理解する。
『そういう契約だった』。
何か、自分の知らないたくさんの事情があって、たまたま今日がその終わりの日だったのだ。
そんな突飛な考えが浮かんだ。
きっと、ここが物語の終わりのページなのだ。
父のことは信頼していなかったが、信用はしていた。
いくら借金を作って家族を見捨てたって、こんな凶行に及ぶはずがないと、心の底から思っていた。
だからこそ、今は本当に、裏切られたような気持ちを感じていた。
じんわりとした痺れがだんだんととれてきて、背筋に冷たい汗が伝う。
やっぱり、これは現実なんだ。
シーリントルは強くそう思い込み、今度は視線をそらさずに食卓を見た。
父はもう何も喋ってはおらず、ゆっくりとスープを口に運んでいる。
今自分にできることは、父にバレないように、外へ助けを呼ぶことくらいだ。
シーリントルは静かに呼吸を整え、拳大の小さなウィル・オ・ウィスプを出す。
天井を這うようにしてゆっくりと進ませ、どうにかして父をあそこから剥がす作戦を考えた。
父は自分が精霊を使えることは知らないはずだから、この屋敷に何者かが侵入してきたと考えるに違いないのだ。
少しの間だけでも席を外させられたら、あの部屋にある魔法電話から助けが呼べる。
父を拘束できるような精霊であったならよかったのに。
そんなことを考えながらも、精霊を動かして、天井へ向かわせる。
灯りに紛れて光球は進んでいく。
上手く誘導して反対側の廊下へ出して別の部屋へ連れて行こう。
そう考えて、意識を部屋へ移すと、父の姿がなかった。
さっきまでいたはずの椅子は綺麗に机の下に収められている。
精霊を動かすことに集中し過ぎていたせいで、いつ席を立ったのか、気がつけなかった。
(どこに行ったの!?)
緊張からか耳鳴りがする。
恐る恐る背後を見ると、片手で口を塞がれた。
「うぐ……!」
「やっぱり帰ってきていたね、シー」
父は、父ではない笑顔で、優しくそう言った。
「お前は俺の子だから、賢いはずなんだよ。普通は気絶していてもおかしくない場面でさえ、頭が冷静に働いてしまう。本当は、お前は先に母親の安否を気遣うべきなんだ。それができなかった時点で、俺たちは同じなんだよ」
シーリントルがもがいても、父の腕はびくともしない。
それどころか、凄まじい力で顔を握られたまま、引きずられていく。
「さあ、席につこう。シー、今日は俺たち親子の門出の日だ。この家で食べる最後の晩餐は、このスープじゃないといけないんだ」
シーは席に無理矢理座らせられる。
恐怖で身体を動かすこともままならず、左腕を椅子のひじ掛けへとテープで固定された。
椅子の脚が高くて床へと届かず、ここから逃げ出すことができないことが即座に理解できる。
「本当はここまでしたくないんだけど、念のためにね」
わけがわからない。
逃げ出そうともがくことの無意味さを察したシーリントルは、とにかく現状の把握に努めた。
父はなぜだかわからないが、別人のようになっていて、母を殺した。
母の右手がない。
自分もこれから同じ目に会わされるのかもしれない。
そこに対して、恐怖はあまり感じない。
だが、理由が知りたかった。
「お母さんを、どうして、殺したの」
「約束だったからね。お母さんは死にたがっていた人だったんだよ。それを俺が助けて、残りの人生を預けてもらった。もちろん、愛し合っていたし、決して淡泊だったわけじゃないよ。シーリントルがいない時に何度も会っていたんだ。なんだか子供にこういう話をするのは恥ずかしいね」
「そんなことが聞きたいんじゃない!!」
シーリントルは彼の言葉を遮るようにして思わず叫んだ。
「どうしてお母さんを殺したの!? 殺す必要なんてないじゃない! 契約が終わったって言うなら、勝手にどっか行ってよ!」
「そうはいかないんだよ。殺すところまでが契約だったんだ。俺はこの町で俺の痕跡を消す必要があるんでね」
「……じゃあ、さっさと私も殺して。もういい。お母さんだって殺したし、どうせ私も殺すんでしょ?」
「うーん、そうやってすぐに諦めるのはまだ子供だなあ。最後まで希望は捨てない方がいいよ。さ、食事をしながら話そう」
シーリントルの前に金色のスープが運ばれてくる。
具は入っておらず、澄みきっている。
「これ、何?」
「スープだよ。お肉の出汁だから、変なものは入っていない。ほら、俺も同じものを食べているだろう」
スプーンを手渡され、シーリントルはどうせ死ぬのなら、と言われた通りスープを口へ運ぶ。
確かに、母の作る牛のスープと味は似ているが、味つけがされていないのか、ほとんど味はしない。
「……まずい」
「ごめんね。料理慣れてなくて」
まるで意図がわからない。
これはいったい何をさせられているのだ。
「これから、私を殺すの?」
「ああ、そうだ。それを話しておかないとね。意外かもしれないけど、君は殺さないよ。大切な俺の子だ。生きていてほしい」
「矛盾、してる」
「唯一の繋がりとして残しておきたいんだ。あの人にも目的を与えた方が動いてもらいやすいし」
「あの人って、ロアさん?」
「やっぱり賢いね。そう、君をエサにして、彼女を動かしたい。まあ、それはあとで彼女へ直接言うよ。たぶん、俺を追ってくるだろうしね」
父はスープをすっかり平らげて、口元を拭いた。
シーリントルは最初の一度だけしか口にせず、あとはただじっと父の様子を見ていた。
父の何に違和感を覚えているのか、考えていた。
心境が読めないこともあるが、何にせよ、言っていることが、時折理解不能であることが気にかかる。
つまり、彼は自然に適当なことを言いながら、シーリントルと会話していることになる。
それも、バレても特に問題のない、意味のない嘘。
何が本当で、何が嘘か、シーリントルの限界寸前な思考では判別ができない。
そして、明らかに母を殺した犯人である彼に向かって、怒りを向けるタイミングを完全に逃していた。
冷静な判断力、と言えば聞こえがいい。
しかし、実際はただ物事に対する感情が鈍感なだけなのかもしれない。
縛られた左腕を引きちぎってでも、彼に掴みかかるべきなのに、それができず、自分がこの事態に納得することを優先してしまっている。
もう一度、何をすべきか考える。
彼から話をいくら聞いても、ここで殺されては何にもならない。
情報は、外へ流さなくては意味がない。
「私を殺さないって言ったけど、何をしてほしいの?」
「うーん、何をしてほしいってわけじゃないな。自然とそうなるだろうから」
「はぐらかさないで。それも嘘なんでしょ?」
「嘘なもんか」
彼は一笑する。
シーリントルは覚悟を決めた。
「最後にひとつ、教えて。お父さん――いや、あなたは誰?」
その質問に、初めて彼は真剣な表情をした。
「ただの人間だよ。世界の平和を願う、何の才能もない、ただの人間。名前というものはね、精神を縛るものなんだ。俺は、俺の人生に役目を背負わされるのも嫌だったから、初めから名前を持たなかった。だから、父と呼ぶのも、ロアがつけた『セン』という名前で呼ぶのも、はたまたこれから決めるのも、君の自由だ」
彼がそう言うのと、ほとんど同時だった。
玄関の扉が勢いよく吹き飛ぶ音がした。
「おっと、ご到着だね。シー、じっとして」
流れるように、彼はシーリントルの固定された左腕に何かを注射する。
「じゃあ、また会えたらいいね。また、会おうね」
父は優しくそう言うと、窓から飛び出し、夜闇の中へと姿を消した。