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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

SF短編集

ナイト〔スクール〕メア

作者: 稲代永幾

放課後の空は赤い

 高校の近くで有名な講師の受験セミナーがあると聞いたのは今朝の教室でのことだった。


「お前、あれどうすんの?」

「あれ、とは?」

「岡本塾だよ。知らん?」

「知らん」

「噂によると合格請負人とかで馬鹿でも東大とかに入れるらしいぞ」

「お前そんなこと信じてんの。どうせビリギャルとかと一緒だろ。馬鹿って言ってもどうせ進学校の落ちこぼれとかなんだよ」

「じゃあ俺らにぴったしじゃん?進学校の落ちこぼれ」

「確かに」


 受験を間近に控える高校三年生の冬、やる気は出ないが切迫感は覚えていた。そのせいか、普段は塾なんて誰が通うかと思っていたのに、その怪しい塾について僅かばかりの興味を抱いてしまった。


「で、その岡田塾って誰が行くんだよ」

「結構みんな行くらしいぜ。何か他の高校からもわざわざ来る人いるらしいし、リピーター?みたいなんも多いとか。俺も行こうかな」


 目の前に座る生駒邦彦は自他ともに認める落ちこぼれだ。もっとも、成績が下落したのは高校に入ってからで、今でも赤点ギリギリを攻めつつ赤点は取らないという器用さを見せている。


「ふーん。場所と時間は?」




 放課後、俺は高校の裏手にある田んぼ沿いの道から住宅街に入る手前にある寂れたビルの前にいた。


『田嶋ホームランビル』


 名前からして寂れることが予定されていたような不格好な名前だった。スマホを覗くと18時3分を示していた。セミナーの開始時刻は午後6時だったか。すでに3分過ぎていた。


 ガムテープで補強されたガラス戸のエントランスを抜けて狭い階段を上る。会場はここの三階と聞いていた。

 案内はどこにも見当らなかった。そもそも、このセミナーの存在を示すチラシや広告といったものがネット上を探しても見つからないのだから奇妙な話だ。ただ、噂のような話だけが確かな具体性を保ちながら高校の中で生徒から生徒へと伝染していた。


 デマでも掴まされたんじゃないのか、と思うくらいビルの中は静まり返っていて階段を上るたびに響く靴音が否応なく奇妙な緊張を強いていた。三階に着く。見回すと、扉は一つしかなかった。どうやらフロア全体を抜いた大部屋があるらしい。

 耳を澄ませると大勢の人間の息遣いが扉の向こうから聞こえてきて少し安心する。


 大部屋の中は窓が閉め切られており、暗い。扉をゆっくりと開けて中に入ると人口密度に基づくむっとする熱気が漏れ出し、同時に中に光が差し込んで意図せずに注目を引き、何人かの生徒が振り向いた。


 俺を値踏みするような鋭い周囲の視線を無視して空いている席を探した。理科室で使うような黒い天板を載せた広い机が幾つも並んでいて、ほとんどの席は埋まっていたが運よく空きを一つ見つけた。


 講師はすでに話し始めており、教壇でパワーポイントでスクリーンに映るスライドを動かしていた。それから、最前列に何か1㎝程の厚さの冊子を配り始めた。


 前列から順繰りに後列に手渡され、俺もそれを手に取り後ろにいた生徒に渡した。


「ありがとう。君は初めて見るね」


 ド田舎である我が町の周辺では見ないような柔らかい雰囲気をした茶髪の男子だ。周りを見渡しても他に髪を染めている者は見当たらない。真面目なのに髪を染めているのだろうか、それとも不真面目なのにセミナーに来ているのだろうか。それに、セミナーに来ているのは一度じゃないようだ。


「おたくは、何回か来ているみたいだな」

「まあね」


 手元の冊子を眺めてみる。問題が200問近く載っており、解答は付されていない。問題のジャンルは広範で、数学や化学から地理、日本史まで様々だ。

 表紙に載せられている数学の問題を暗算で解いてみる。2次方程式の簡単な問題で難なく解けた。


 ザザア……。マイクのノイズ。


「では、早速問1を解いていこう。最初の問題なので、少し長めに説明する。ひとつ、方程式とはイコールで結ばれた等式で、変数を含んでいるものだ。ふたつ、変数とはxやy等の代数のことをいう。みっつ、一次方程式や二次方程式の『次』は一つの項に含まれる変数の数によって決まる。よっつ、『次数』が変わると、すなわち、XとXの二乗は全く異なる単位と考えなさい。例えば、長さの単位であるメートル、面積の単位である平方メートル、容積の単位である立方メートルでは全く単位が違うでしょう?イメージはできたでしょうか。では、問1は二次方程式の問題です。イメージを忘れずに解きなさい」


 講師の声は穏やかだがどこか冷たい響きを覚えるものだった。教室の前と後ろで相当の距離があるので講師の顔は見えづらかったが銀縁眼鏡をかけた薄ら禿のおっさんに見えた。顔はそれなりに精悍な様子にも見えるが遠くから見て分かるほどに覇気がない。


「1分。解くのには十分な時間のはずだな。分かった人は手を挙げて」


 驚いたことに過半数が手を挙げた。俺の知っている教室の風景とは随分と違う、熱心な生徒たちだった。

 後ろにいた茶髪の男子も手を挙げていた。やはり真面目そうにも見えないのにも関わらず。

 茶髪は視線に気づいたように口を開いた。


「答えが分かっているなら早めに挙げておいた方がいいよ」


 まるで、忠告のような妙な言い方だった。


「正解だ」


 講師はホワイトボードに巨大な表を書き、二次方程式に基づく曲線を描いた。


「では、次の問題だ。ああ、そうだ。これからは考える時間は十分には与えるつもりはないので、よく考えて解きなさい」


 本番さながらに時間に追われて解く訓練という意味だろうか。


「では、問2。手を挙げて」

「問3、手を挙げて」

「問4、手を挙げて」


 講師は簡単であるが、興味深い説明を交えながらドリルを先に進めていった。


「問5、手を挙げて。2,4,6、……20人か。大分減ってきたな」


 ドリルの載っている問題は一問ずつゆっくりと、だが明らかに一切の後退がないように注意深く難度を上げていく構造になっていることに気付いた。


 更にドリルは進められ、問16の解答が求められた時だった。


「不正解だ。次……おい、座るな」


 講師は不正解を出した女子が座ろうとすると、鋭く「立っていろ」と言い、次の人の解答を聞きながら女子に近付いた。


「よし、正解だ」と言いながら女子の前に立つと、見上げる女子の頬に間髪入れずに平手で殴り、「きゃっ」と悲鳴をあげる女子を一瞥もせずに講師は教壇に戻っていった。


「なんだよ、あれ」


 訳が分からない。殴られた女の子も痛みと羞恥と困惑でどうしていいか分からない様子だった。普通ならばすぐさま抗議するべきであるが、彼女の周りがさも当然のように暴力を見過ごし気遣いの言葉さえかけずにいるので、空気というか圧力がそれをさせずにいた。


「フッ、彼女もこのセミナーは初めてみたいだね」

「あれは暴力だろう。どうなってんだよ」

「はは、指導だよ。やなら、早いこと手を挙げたらどうかな」


 講師は次へ次へと問題を答えるように学生を当てていった。


「不正解。単純なミスだな、正座しておけ」


 ドリルが進むのと反比例して、挙手は減っていく。問25で遂に挙手は無くなった。問題は4次方程式で俺の目から見れば最早意味不明な記号の羅列だった。


「分かる人は手を挙げろ。いないのか?いいだろう、じゃあ君が答えろ」


 講師は部屋の中ほどにいた男子生徒を指差した。


「は、はい、えっと……」

「時間が押している。分からないならそう言え」

「わ、分かりません」

「不正解だな」


 講師は生徒に近付くと鉄定規で顔面を殴った。

 目の横が切れて赤い血が見えていたが、講師は何食わぬ顔でまた教壇に戻った。


「おいおい、血が出てるぞ。冗談じゃない、帰る」


 俺は付き合ってられるかと思い立ち上がろうとした。その時後ろの茶髪が俺の肩に手を掛けた。


「もう少し座ってな」


 その手を払おうとした時、俺と同じことを考えたのかかばんを掴んで立ち上がった男子がいた。

 その瞬間、講師がダン!とホワイトボードを殴りつけた。


「私のセミナーでは!途中退室は認めていない!」


 固まったその男子の胸倉を掴み講師は教壇にその男子を引きずり出した。


「いいか、お前のようなすぐに逃げるような奴は何にだってなれないんだ」


 講師は男子を床に投げ飛ばすと、「こいつは没収しておく」とカバンの中から財布と携帯を取り出して教壇の中に入れて、床に倒れた男子を蹴り込んだ。


「次、問26、手を挙げて。いないのか。じゃあ、君が答えろ」


 指差された生徒は潰れたような声で「分かりません」と言った。何一つ変わらない調子で講師は「不正解だ」と言って、震える生徒に近付いて握手を求めた。そして、差し出された手の親指と人差し指の間に向かってボールペンを振り下ろした。


「ぎゃああ」

「黙れ。私の講義を邪魔するつもりか」


 講師はボールペンを引き抜いて僅かに振りかぶると、今度は生徒の頬にボールペンを突き刺した。


「次!」


 化学の問題だ。

 教室の中は頭が浮かされるような異様な熱気に包まれていた。頭が芯から溶かされてぼーっとしてくるような信じられないような甘美な熱である。

 だからなのか、もう逃げ出そうとする人は現れなかった。


「次!」


 次の生け贄が指を差された。こんな短時間で問題を解ける訳がないのに。一分で解けるような問題じゃない。間違いは当然なのに。だが、講師は「不正解」と告げて罰を与える。トンカチで左手の小指を一発で砕いた。

 さも、間違いの原因が解答者にあるかのように実際には存在しない主導権を与えて奪い去るのだ。


「次!」


 歴史の問題。

 いつしか、自分が当てられないことを切実に願い歯が鳴るほどに恐怖する一方で、自分以外に与えられる罰を自分じゃなかったと喜ぶようになっていた。

 しかし、喜ぶようになっていた、というのは実際のところ酷い勘違いだった。


 講師の指先に注目が集まり、指先がふらふらと移ろい次の生贄を誰にするか迷う。

 すると、ガタン、と音がしてそちらを見ると40分にわたり正座を強要されていた生徒が痛みに耐えかねて倒れていた。


 それを見た講師は「正座を崩すな!」と怒声をあげて走り寄り倒れた生徒の痺れた足を踏みつけた。悲鳴をあげるその生徒を無視して執拗に膝に踵を振り下ろす。そして、その周りの生徒もまるでその様子を見えていないかのようにドリルの問題を解こうとする。


 狂っている。講師も、生徒だって。恐怖が蔓延している。


「次は問41――――」


 指先がこちらの辺りを向いている。


 当てられれば――――血の臭い、苦痛に呻く低い声、目にも鮮やかな赤い血、統制された教室――――惨、惨、惨。


 ドリルの問41には複雑怪奇な図形が描かれており、最低限の情報を手掛かりに別の角度を導き出す証明問題が書かれてある。考えても考えても行き詰まり、緊張で視界が揺れてじっとりと冷や汗が出てくる。ボールペンのペン先が震えて数字も書けない。呼吸も荒くなって思考まで鈍くなる。


 指先がこちらを向く。


 今――――今、指差されれば不正解は確実だった。

 正解を答えることができないなら――――ざわざわと頭の中で色んな声が聞こえる。


「あれ、何かいる……?」


 自分でも何を呟いたのか分からなかった。遅れて机の黒い天板の下、暗い暗がりに何かがいることに気付いた。


「白い小さな……」


 気付くというからには気付きやすい白色をしていて、机の下に収まるからには自分の膝の高さくらいの大きさをしていた。


「熊の縫いぐるみ」


 そう言えば、妹がそんな熊の縫いぐるみを持っていた。継ぎ接ぎだらけで、舌をだらりと垂れさせて、返り血にまみれた気味の悪い熊の縫いぐるみ。


 それが机の下でお腹を撫でながら立っていた。

 声も出せずにそれを見ていると熊の縫いぐるみはポテン、とあざとく後ろに倒れると股を開いて力み始めた。なんだろう、と思って見ていると気付いた。熊の縫いぐるみのお腹が妙に膨れている。何かを孕んでいる。そして、今それを出産しようとしている。


 ――――気持ち悪い。


 もしそれが生まれでたらどうなるのだろうか。きっと恐ろしいことになる。生まれでようとするあれはきっと悪魔で世界を滅ぼすような危険なもので、こんなセミナーなんて受けている場合じゃない。今すぐ逃げないと大変なことになるので、俺はみんなにそれを伝えようとした。ここに悪魔がいて、逃げなくちゃいけなくて、セミナーなんか受けている場合じゃないと。


 そして、覚悟を決めて立ち上がろうとした瞬間。


 ――――別の席の男子生徒が立ち上がって言った。


「うわああ、何かいる!ほほほほ、ほら!白い縫いぐるみみたいな!こここここ、こんなことしている場合じゃ……」


 耳を疑った。俺は自分の机の下に視線を戻した。

 そこには当然のごとく、何もいない。白い継ぎ接ぎだらけの熊の縫いぐるみはいない。


 何故ならそれは俺の妄想なのだから、いるはずがないのだ。


「ほ、ほら!いるじゃんか!いるじゃんか!」


 すると、立ち上がった生徒を別の生徒が指差して、こう言った。「『意地』が出たぞ」と。


 それから何人もの生徒が同調するように「『意地』だ!」と声をあげた。


「意地!意地!意地!」


 何人もの生徒が同調するように立ち上がった生徒を指差した。


 何もかもが分からない。俺は今現実にいるのだろうか。自らの立ち位置さえ分からなくなる。


「時々、」


 後ろの茶髪が言った。


「いるんだよね、あんな感じに幻覚みたいなの見ちゃう人」


 講師が縫いぐるみがいると主張する生徒に近付いて言った。


「熊の縫いぐるみ?どこだ。それはどこにいる?」

「ここです!ここにいるんです!ほんとです!見てください!本当なんです」

「俺には見えないな。そんなものいないんだろう?『意地』を張るなよ。さあ、第41問は君が答えなさい」

「本当なんです!嘘なんかじゃない!白い熊の縫いぐるみが」

「不正解だ」


 講師はボールペンを生徒の眼球に突き入れて、押し込んだ。


「ぎゃあああああああああ」


 これは処刑だ。

 取り返しの付かない行為と結果だった。だが、血と悲鳴に慣れ、異様な熱気に蝕まれた少年少女達は、惨劇を前にしても動かない。


 俺の目にはその異常性がありありとわかった。元々空気を読まない人間で、良く言えばマイペースな性格だったことも幸いしたのかもしれない。俺は逃げることに決めた。


 逃げて、そうだ、警察を呼ぶのだ。

 現実的な方策に気付くと途端に熱気が収まったような気がした。暑いことには暑いが、汗臭いような妙に甘ったるい臭いが鼻先を鈍らせている。


 目の前の女の子が問42に当てられた。複雑に数式が絡み合い、シグマや三角関数に組み合わせまで扱う難解な3次方程式だった。


 女の子が顔を絶望に染めて、声を出せずに立ち呆けている。


 ――――俺は挙手をした。


「……ああ、後ろの君が答えなさい」


 壊れそうなほどに早く鳴る鼓動を抱き締めながら答えた。


「x=50、8√23/(15+√21)、-(√30+19)」

「正解だ。次」


 はあ、と溜め息が出た。

 考える時間が足りないと聞いた時から時間がかかっても解き方が分かる問題だけを先に解いた。

 ホッと一息吐くと後ろの茶髪が肩を叩いてきた。


「おめでとう」

「?」

「岡本先生は一度当てた人は同じセミナーでは当てないんだ」

「……本当によく来てるんだな。俺はもう二度と来たくないし、今すぐに出たいんだけど」

「え、もう当たらないのにかい?見ていったらいいのに、君変わってるね」

「いや」


 変わってるのは……おかしいのはお前や他の生徒の方だ。


「出る方法はないよ。この教室は部屋の片隅にある紙くずから僕らの心まで全て先生が支配しているんだから」

「そんな……」


『途中退出は認めていない』


 指先にチリッと熱い感覚が走った。

 振り返ると講師がフラスコを持って立っていて、フラスコの中には何らかの化学反応だろうか、火が収まっていた。指先は意図せずそれに触れたらしい。


 俺は咄嗟に叫んだ。


「熱い!熱いい゛い゛い゛」


 講師は何も言わずに眺めていた。


「体罰だ!何もしていないのに手を焼かれた!」


 講師は何も言わずに眺めていた。


「何も間違っていないのに!先生の間違いだ!」


 生徒らも何も言わなかった。


「先生は理由もない体罰をしたあああああ!」

「君は」


 講師が口を開いた瞬間、周りを取り巻くあらゆる空気と共に鉄板の仕込んである学生鞄を横様に顎先を狙って振り抜いた。




 駆け出した俺は学生鞄も放り出して教室を横断して扉を開けた。冷たい風が吹き込む。それが気持ちよく心地よいがすぐに飛び出して階段を駆け下りる。


「逃がさんぞぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」


 後ろから地を這う地獄のような声が何度も何度もビルの中を反響しながら響き渡った。


「くそ、冗談じゃない!冗談じゃないぞ!みんな頭がどうかしてるんだ」


 エントランスホールまで降りてすぐにガラス戸を押し開けて外に出た。


「はあ、はあ、交番?」


 交番はこの辺りにはない。目の前には高校のグラウンドがあるが、門の位置が遠いし、夜の8時過ぎでは教師が残っているかも分からない。

 住宅街の方に逃げようと考えて田んぼの側を通り、道を左に曲がる――――


 ――――ところで、右側から高速の足音が聞こえた。


「うわああああああ!」


 講師がネクタイを肩越しになびかせ、凄まじい速さで走り寄っていた。

 そして、その速度を維持したまま跳び膝蹴り。

 俺は度肝を抜かれたがそれをギリギリで尻餅を着きながら避けた。


「いてっ」


 強くを尻を打ったが後退りしながら何とか立ち上がった。

 振り返った講師は息も乱さずに一言一言区切りながら言った。


「私の、セミナーでは、途中退出を、認めていない!認めていない!認めていない!」


 もはや講師の顔面は醜悪に歪み、常軌を逸した怒りの表情を浮かべていた。


「私の教育方針に仇なす生徒は要らない。要らないぞ、この世界に、だ」

「そ、そんなの教育とは言わねぇだろ」

「お前達を教えてやっているんだ!より良い人生を生きられるように!」

「お前が生徒の人生を潰すのを俺は見たんだぞ!」

「潰す?潰れてるんだ、よ!どうせ潰れるんだ!いつ潰れても同じこと!あんな学力じゃあ受験なんて到底できないだろうからなぁ!日本ではなぁ、受験ができなきゃ終わりなんだよ!」


 何なんだこいつの受験に対する異常な執着は。何でこんなに執着してんだよ、気持ち悪い!

 所詮、受験なんて社会の中にある極一部の職業に就くためのチケットでしかない。世の中にある無数の職業はそのような受験なんて経ずになることが出来るんだ。盲目的に受験に全てを掛けるその狹視野にこそ無能が顕れている。


 受験程度で磨り潰されるような奥行きのない人生なんて嫌だ!


 その言い様、こいつこそが無能なんだ。こいつは……可哀想な屑だ。

 そこで俺はようやくガラスの檻が砕けたような醒めた気分になって講師、岡田凛に言った。


「……あんた、凡人だろ?」

「なんだと?」

「どうして塾の講師なんてやってるんだ?受験に成功したんならその先に進んで然るべきじゃねぇか」

「お前の知ったことじゃない。学生は黙って」

「何も無かったんだろ?受験して、いい大学に入って、それでも何も見つからなかったら受験勉強にすがった、へばりついたんだろ。結局あんたは何にもできないんだ!」

「子供が知ったような口を刻むなぁああ!」


 そこにいたのは紛れもない。


 人生に絶望し

 薄ら禿げた

 教室の外では誰でもない


 ただの男だった。


 絶望と憤怒と羞恥とで顔を醜く歪ませて襲い掛かって来る。真っ向から立ち向かうと大人と子供の差なのか、自分も鍛えているはずなのに力では全然対抗できない。必死で講師の顔を掴んで遠ざけたが、間もなく逆に押し飛ばされて田んぼに背中から落ちた。


 この地域では冬でも田んぼに水を張っていて、泥にまみれて全身が凍える。

 制服も水を吸って動きが鈍くなる。

 キレた講師も革靴が泥に沈むのも構わず田んぼに足を踏み入れて近付いてくる。


 歯の根が合わずガチガチと震える俺の首に講師は手を伸ばした。

 左手を突きだすと、その手首を掴まれた。

 俺は瞬時に講師の腕に抱き付き、深く太腿を相手の首に絡ませた。

 俺の左手を掴む講師の右腕をきつく締め上げて、講師自身の右肩と俺の左太腿で首の両側の頸動脈を圧迫封鎖する。


「うああああ!!!!」


 グシャッ。俺の左手首から骨が折れる異音が鳴る。講師が信じられない筋力で握り砕いたのだ。だが、俺はそれを無視した。俺の左前腕から先は感覚がない。柔道の練習中に肘を砕かれてそのまま神経が切れたからだ。そのせいでスポーツ特待生ではなくなったが、左手に痛覚が無くなっていたことにはこの際感謝しよう。痛覚がなくなっていなければ、とても三角絞めは続けられなかった。


「おおおおおお!!!!」


 更にギリギリと締め上げる。


 講師は力に任せて俺を持ち上げて田んぼに叩き付けた。

 だが、田んぼは泥だ。叩き付けられたところでダメージはない。もっとも、顔面の穴という穴に泥が入り込んでくるが息を止めて我慢する。


 何度も何度も田んぼの中に顔面を押し込まれるが、ひたすら我慢した。こいつは後数秒で落ちる。三角絞めは得意技だったので、左手が使えなくなった今でも頸動脈の位置を外すなんてことはあり得ない。

 感覚的には後わずか2、3秒で落ちると確信した時、脹ら脛に熱い痛みが広がり、何かを刺されたのを感じた。しかし、それすら我慢して必死で首を絞めた。絞め尽くし、絞め切った。そして、やっと講師は力を失って田んぼの中に倒れた。


「ブッ!」


 俺は立ち上がり息を吹き出して泥を吐き出すと、やっと呼吸し、泥だらけの服で顔面を拭いてそろそろと眼を開けた。

 何とか眼を開くと講師は足元に倒れており、俺の左足の脹ら脛にはボールペンが突き刺さっていた。


「痛ぇ……」


 そのボールペンを一息に引き抜き、俺は講師の髪を掴むとその眼球に狙いを定めてボールペンを突き込んだ。まあ、報いという奴だ。


 眼球を潰したのに講師は起きなかった。かなり上手く落とせたようだ。そのまま講師の顔面を泥に着けたまま放置して、田んぼから這い出た。


 一息ついた頃、スマホで警察を呼ぼうとしたが、耐水性のスマホが壊れていた。


「うぇぇ?」


 いつの間にやら目の前にいたのは生駒邦彦だった。


「泥だらけじゃーん!どした?」

「あーね」


 考えはまとまっていなかったがゆっくりと考えを口に出してみた。


「……柔道はきっと無理だけどさ。体動かすのは止めたくないし、いつかはちゃんと動かしたいから、もう一度頑張ってみるよ、俺。とりあえず、そうだな。ちゃんと大学に行ってこの腕をいつか動かせるように勉強してみるわ」

「へえー。何か大人なこというじゃん」

「あと、スマホ壊れたから貸して」


 俺は生駒を見上げて少し笑い、それから彼のスマホで警察を呼んだ。


 最後に後ろを振り返ると講師は顔を泥に着けたまま浮いていた。




 警察が『田嶋ホームランビル』に突入すると、教室の中の生徒たちは皆ぐったりとしており、目にボールペンを突き立てられた生徒はすでに死亡していた。


 講師も田んぼから引きずり出された頃には死亡しており、検死の結果複数の薬物反応が見られた。


 教室の中で嗅いだ甘ったるい匂い。あれも麻薬を焚いた匂いだったのだろう。そして、知らぬ間に麻薬を嗅がされた生徒たちは頭をボーッとさせて唯々諾々とあの講師に従うようになり、幻覚を見たり痛め付けられても文句を言わなくなる。そればかりか、もう一度教室に足を運ぶまでになる。そして、出た死者は生き残りが手を合わせて隠蔽し、更にセミナーの結束は固まり秘密は守られたまま、新たな供物を求めて次のセミナーが開かれる。


 俺は左手が疼く時のために鎮痛剤を使っており、偶々ダウナー系の麻薬に耐性を持っていたため、最後には抜け出ることができた。


 まだ事件の全容は分かっていないが、死者は20人を超えているとの噂もある。


 ただ、もう犠牲者が増えることはないだろう。




 いや、そうだろうか。

 あの場にいた生徒たちは上を諦めた末に下をいたぶることに快楽を見出だした男の姿を見た。彼らがいつか夢を見なくなった時、あの男と同じ立場になった時、どうなるだろうか。


 俺は自分の家の二階にある自室で、机の前に座り受験勉強に励んでいた。


 ふと、机の下に白い継ぎ接ぎだらけの熊の縫いぐるみが見えた気がした。

文量は半分くらいに収めるつもりだったのですが失敗しました。

今回は甘酸っぱくない方の青春、友情、努力に関する短編です。


教室内ではできるだけ悪夢に近い描写にしました。伝われば幸いです。

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