『ヒトノコアラズ、ニンゲンモドキ』
霧に包まれ、更に一歩踏み出すと魔女の言葉通り二人を待つ馬車の前に出た。
驚いた様子の馬車番を気にすることもなく、泥を払いながらバシアスは馬車に乗り込みカイゼもまた支度を始めると、一つ遅れて二人を呼び止める声が響く。
――人の声とは思えぬ、バケモノの声。
馬車に乗り込むために片脚をすでにかけていたカイゼ、そしてバシアスも中からそれを覗いた。
その視線の先、馬車の後方で魔女の家にいた少年が立っている。両手で透き通った絹糸のハンカチを差し出しながら。
ロキ――そう、魔女に呼ばれていた少年の元へ向かおうしたカイゼを引き止め、バシアスが降りた。
「こ、れ忘れも――」
メキリ。
その言葉は言い終えることなく、悲鳴へと変わった。
「あああ⁉︎うぁ、ああああああああああ――」
バシアスは少年の差し出していたハンカチをひったくると、手にした杖で少年の右脇腹をなぎ払ったのだ。
馬車二台が通れる程度の道幅のほぼ端から端に少年の身体は跳ね、うずくまるその身体に一歩で詰め寄りさらにバシアスは杖をふるった。
「理由など知らん!聞く必要もない!貴様の様な穢れた存在が我が眼前に存在するだけで愚弄する行為と知れ‼︎」
湧き上がった湯の様に杖にこもる力は増していく。
「ただの人でなし風情の癖にこちらが下手に出ていれば横柄な態度のクソ魔女や!バカ息子や!無能な国民共も腹立たしいが!それ以上に貴様が許せんのだ!その齢で世界の禁忌に触れたことも!生き長らえて、人の真似事をしている事も!その名に雷神『ロキセレアス』様の一部を冠している事も!その一切、お前の全て不敬で愚かで全てが醜いのだ!このバケモノが‼︎」
メキリ、という軋む音はバシアスの手にある一等堅木によって作られた杖ではなく、ロキの骨が軋む音だ。
バシアス自身もその感触を持ちながらもその力を緩める事なく、その目に見える左腕以外を嬲り殴る。
そして最期の一振りがローブの上から少年の上下を断ち切るが如く、腹部に決まった。
「ああっ…うあっ、うあっ――」
薙ぎ払われたその小さな体躯は必死に這いずりながら、少年は沼地の森へ逃げ込んでいく。
嗚咽だけ音のない泥沼では響き、バシアスにも聞こえていたが追うことはなく、ただその逃げていった影だけを睨み続けた。
「行くぞ」
「かしこまりました。ですが…大丈夫でしょうか、魔女から報復など」
「心配ない、あの沼地の外であればおよそ魔女程度では儂には敵うまい。」
「それでは帰りましょう」
「ああ、ようやくこのクソ田舎ともおさらばだ。」
「それでは我らが国へ出発致します――――国王陛下」
闊歩する馬の蹄鉄が石畳を叩き、優しく揺れる車内から手を出したドンハ現国王バシアスは手に発現した火炎でハンカチを燃やし、灰を払った。
◇◆◇◆◇◆
――僕は泣いている。
――全身が痛む。
――とても、とても痛い。
――だけどそれ以上に――
一つの絵画の様に時間の止まった沼地の林を少年が一人、かき乱して駆ける。
嗚咽を吐きながら、よろめき幾度も木々にぶつかり泥や根に足を取られながら、無残な姿で森を駆けていく。
逃げついた場所は真ん中の木の元に一輪だけの赤い花の咲く、五本の針葉樹。
真ん中から一本右の木にだけ大型獣の爪痕の様な傷が無数についていて、少年は左手でその痕を掴むとなれた手つきで登り始めた。
傷は何者かがつけたものではなく彼が幾度も登るたびその導線に出来たもので、ここに至るまでいくつもの傷を増やしてきたボロボロの彼もこの木は軽く跳ねて行けた。
その木の頂からさらに跳ね上がると瞬間、景色は一変する。
それはどこかの高原。
灰色の、死した林ではなく、風に草が波打つ様に揺れる、視界の限りに若草色が広がる高原だ。
無数に散りばめられた星々の川と太陽の香り僅かに残った草原の海で一人、彼はようやく全身の力を抜いた。
ここは魔女が用意した少年のための逃げ場で、それがどこなのかは少年も知らない。
人気のない静寂の中、優しく吹いた風が彼の頰を撫でると再び湧き上がった涙を抑えることなく空を見上げた。
〈貴様の様な穢れた存在が――〉
あの男の声が脳裏を離れない。
目覚めてから幾度も言われた言葉。
〈このバケモノが!〉
――それは僕も思う。
――人は皆、僕を怖がるだろう。
――だから僕は深くフードを被っているのだから。
強い突風が高原を駆けて行った。
草花がなびくと同時に少年のローブも強くなびいた。
フードの下の彼の体躯は常人のそれとは異なる。
右の瞳は海の蒼色だが、左の瞳は血に染まる赤色。右腕は出血や青痣はあれど白く透き通る肌色に対し、左腕は夜の空よりも深く実像を持った影の様に黒い。
指先は鋭利に変形し、さながら刃物の様だ。
〈人の真似事――〉
――その通りで、僕の身体は真似て作りだした偽物。
――喉も中身はぐちゃぐちゃだから言葉もまともに話せない。
――人形と同じ、ニンゲンモドキ。
バシアスのみならず焼きついた彼を畏怖する声が、記憶が、彼の体を突き刺す。
涙は何度も何度も枯れるほど流した、それでも彼の目頭は熱を持ち、頰を水滴がなぞる。
――泣けば泣くほど血流が、鼓動がどんどん早くなっていき、体の痛みは消えていく。
――僕の左腕は悪魔の腕、人並み外れた治癒力も悪魔の力によるもの…らしい。
――それでもズキズキと痛み増していく、張り裂けそうなほど苦しくて痛い。
――杖で殴られた痛みなど忘れてしまうくらい。
――心が痛い。
その夜、草原の片隅で崩れた歪な泣き声が夜の闇に消えて行った。