『来訪』
ほぼ湖の中央だろうか、その場所へ一歩踏み込むと視界を遮っていた濃霧は目の前の家を中心に円を描くように切り取られていた。
正面に見えるその家。壁のほとんどを覆っている蔦の隙間からは赤茶けたレンガが見え、蔦の根か、雨風か、あるいは両方のせいか、老朽化してあちこち欠けているのが見て取れる。
グレーの三角屋根には色を同じくした煙突があり、連なって広がる庭と呼ぶべきエリアは深い緑が広がり、その全貌を見ることは出来ず、さながら小さな樹海のようだ。辛うじてその庭の入り口らしき場所には小さな小屋の頭が見える。
「……ふう。いくぞ」
「はっ!」
二人は再び腹の中で強く拳を握りカイゼが木製の扉を叩く。
扉の上部に付けられたベルがからんからんと気の抜けた音で鳴った。
時を待たず軽く擦れる音を発しながら扉が開くと、フードを深くかぶった人間が出迎えた。
二人はそれが沼の中で見た影だと確信し、注意深くその人間を観察するがその顔すらもわからなかった。ただおおよそ人間のようだ。
「……こっ、ち。」
出迎えたローブの人間は小さくそう言うと身体を翻し目線で二人の客人を奥へ促す。
家に入ると草花の燃えた匂いや溶けた鉱石の香りなど様々な匂いが通った後、すぐそれを拭うように清涼な花の香りが鼻腔を撫でた。
そして二人を迎えたローブの人間。声質から少年のようだ、が――その声は、いやそれは声と呼べるものではなく低く呻いたような、沼底から湧いた気体の音のようなもので客人達は沼で最初に見たときからあった違和感が一層強まった。
それでも二人は目的のためローブの少年に続く。
すると数歩も行かないうちに少年は一度振り返り、先ほどと同じ呻きのような声で告げる。
「ぁ……く、つぬい、で」
客人達は玄関へ戻ると女性の靴と泥だらけの草履が並んでいた事や木製の靴棚や無意識にかわした段差があったことに気付く。
緊張のあまりこんなことすら気付けないとは…と二人は心で吐露し、腹の拳を少し緩める。
だがこの世界の人間社会で生きたものにとって、それ程に魔女という存在は恐れ、憎み、嫌悪し、関わってはならない存在だった。
ましてやその魔女の家へと自ら足を運んだのなら尚更に――。
「ロキ、ご苦労。あとで廊下の泥も掃いておいて」
「うぁ。…ぁとこ、れ」
ローブの少年頷き、ポケットから取り出した草束を女に見せる。
「ああ、お遣いもきちんとこなしてくれたね。それは乾燥棚に纏めて吊るしておいて、場所はわかるだろう?」
「うぁ、」
烏の死体の様なローブを揺らしながら少年は客人二人の間を抜け、再び玄関側の廊下へ出て行った。
「あんた達も座りな。ああ、上着はそこに掛けてくれて構わないよ。」
「いや、このマントは私の従者に持たせる事にする。失礼。」
「そこの人間は立っているのかい?」
「ええ、私は護衛ですので」
「あ、そ。好きにしな」
玄関から伸びた廊下の突き当たり、硝子細工があしらわれ部屋の明かりを廊下へ漏らしていた扉を開くとそこは居間だった。
黒塗りの机が二つあり、片方が動物の革と毛をつむいだ大きな二人がけの椅子に挟まれ、もう片方が簡素な木組みの一人掛けの椅子が四つ並んでいた。
部屋の奥から出てきた女性に勧められバシアスは二人掛けの椅子の真ん中へ座る。
その声は倒木を叩いた時に応じた声と同じだった。
「貴女がこの家の魔女、アテナさんでよろしいのか?」
「ああ。私がこの家の主人の泥沼の魔女アテナさんだよ」
バシアスの問いに向かいに座った女は何の繕いもなく答える。
アテナは瑞々しさの裏から色気を漂わせる二十半ば程度の見ためで、背中まで伸びた夕焼け色の癖っ毛を一つにまとめていた。
深緑のガーディガンを羽織り、その下には胸元から肩口まで開いたドレスに似た女性服が見える。
一目には、娼婦を思わせる姿だがその質の良さに向かいに座る二人は、魔導先進国であり世界の番人【メザイア】国に伝わる上級悪魔の『サキュバス』の様だと改める。
本格的に王位を受け継ぐための教育を二人は、後継者とその従者という形ではあるが共にしてきた。
そのため共通認識は強固で、それこそが彼等の間に存在する信頼だ。
まぁ、魔女の見た目など何の意味もないのだが――心でつぶやき、バシアス向かいの女性を見据える。
「さて、では私も質問をさせてもらうか。君達は私の〔客〕という認識でよろしいのかな?魔女狩りなら他所に行ってくれ」
目を閉じ、手のひらを天に向けおどけるように魔女は言う。
カーディガンの下の服はあの少年 のローブと同じく黒檀色だった。ただ同じ色の布でもその仕立ての良し悪しは段違いだ。
「私は貴女に依頼があって遠路遥々ここまで来た。勿論対価も払う。客という認識で間違いはない。」
その体型から既に深く沈んでいた革の椅子をさらに深く沈ませ食い入るようにバシアスは答えた。
「ほう。では要件を聞こうか」
魔女の嘲笑に似た笑みは消え、おどけたていた声も冷淡な物へと変わる。
「だがその前にもう一つ質問に答えてくれ」
「なんだい?あんたが『森の知恵者』だって言い当てて欲しいのかい?」
表情も声色も一切変化することなく魔女アテナは答え、バシアスは一瞬目を丸くさせるがゆっくりと瞼を下ろしながら安堵の息を漏らした。
同時に警戒の色も強めながらバシアスは魔女の目を見据える。
「いや、すまない。予々貴女の噂も聞いていた、先程私に座る事を勧めた後、我が従者にわざわざ《そこの人間は—》と言っていた事で既に確信を持てたのだ、信用に足ると。だが私はさらに慎重にならざるを得ない事情があるのでな」
「その金ピカマントや『森の翡翠眼』を出しておいてそれで信じるって――」
「何か言われましたかな?」
「いいや?まぁ何にせよ信頼していただけるのはやりやすい。それでどのようなご用件で。」
魔女アテナの呟きはバシアスの耳には届かないまま、何事もなく話は再開された。
「その前に一つ、アテナさんは【ドンハ】という国をご存知でしょうか?」
「ドンハ?ああ勿論、ここは大陸の中央から少しばかり西の田舎だが、東のドンハという国はフェニリア大火山をはじめとした火山群や豊富な鉱物資源が有名で、ドンハ国産と付くだけで貴金属の値段が一桁あがるという」
バシアスも従者カイゼも僅かに目を細め、枝に乗った雪の結晶をつかむように慎重な声色で更に問う。
「では最近の彼の国の噂もご存知で?」
「噂?あいにく私は、ま、見ての通りこの泥沼に引き篭もっているのでね。さっき言った話も遠い昔にまだ居を持たずふらふらしてた時に聞きか齧った程度さ。なんだい何か面白い話でもあるのかい?」
「いやそれならば――」
それならば良いのだ、と言いかけてバシアスは一度口を閉じる。
その一瞬の沈黙を待ちかねたように魔女の背後から先程二人の客人をここまで案内して玄関の廊下へ消えたはずのローブの少年が三つのティーカップを盆に乗せ現れた。
「ぉ、ちゃで、す」と崩れた声をあげながら向かい合って座った二人の前と、立っている従者のそばにある他のものより一つだけ低い箪笥の上に布とコースターを敷きその上にカップを置きまた魔女の背後にある扉へと消える。
魔女がカップを回すと部屋にあった花の香りが少しなりを潜め暖かい香りが漂う。
カップに口をつけ一層光沢の増した魔女の唇が跳ねるように離れ、「相変わらず下手だねえ」と笑っていた。
バシアスもカップを一度回すと再び口を開く。
「いや、そうだな…彼の国ではアテナさんの言う通り鉱物資源が豊富で民も概ね豊かな生活を送っている我が祖国ながら自慢の国だ。だが一部の集団が暇を持て余してか度々暴動を起こしていましてな、最近では革命など言いだす始末でして。」
「ほう、それは穏やかではないね。でも今でこそ国家間の緊張のある地域は北東が有名らしいが、ドンハのあるあたりも民族独立や紛争の絶えなかった地域だろう?たかがレジスタンスなど警備隊によって蛙の手を折るくらいのことではないのかな」
訝しげな顔は魔女アテナ、そしてバシアスも浮かべていた。
バシアスはああ、と漏らすと何かが合致したように手を叩く。
「アテナさんは本当に世俗には関心のない方のようだ、北東の【カゼイスト】と【トロタス】を中心とした戦争は八年ほど前に終結を迎えて今は穏やかなものです、私も一年程前に行きましたが上質な牛の肉や今は大陸のみならず有名な『クイアの魚卵』など珍味もなかなかに美味しく、本当数年前までは考えられないほど豊かになっていたものです」
「ふーん、そうかい。良い物をお食べになっているようで羨ましい限りだよ」
「失礼。別に自慢がしたいわけでもなかったのだが…私はドンハの王宮でも諸外国に行けばそういう扱いを受ける役職を賜っていましてな。先ほどおっしゃっていた警備隊など国防組織は、北東の戦争よりも早く治り現在は縮小されたのだ。」
魔女の表情こそ硬く真剣なものだがバシアスの言葉にもふーんと言いながらカップを回して一口含んでいたりと関心が薄いのがダダ漏れだった。
その姿に若干の憤りを覚えながらも、バシアスはそれを顔に出す事はなく平静を保ちながら言葉を続ける。
「さてアテナさんもご存知だろうが、我らスプリガンの呼び名はもう一つ『霊根の精』という。森の知恵者とはその長命な寿命で育んだ経験と知恵を次の世代、共に歩む友人(人間)に伝えてきた事を指し、霊根の精とは霊魂の根――つまり心臓さえあればそこから根を生やし身体を再生することができるのだ」
誇るように、唄うように、高らかにバシアスはスプリガンの事を語る。
「つまり我々は――!」
「で、そのスプリガンがわざわざこんな遠い田舎の魔女のところに来てまでする依頼ってのはなんなのさ。」
気分が乗って来たのかより滑らかになっていく言葉を遮ってアテナは話を戻した。
「ん、そうだったな。つまり我らスプリガンは心臓さえあればまた肉体の構築が可能なのだが逆を言えば心臓を潰される事が最大の弱点なのだ。」
「つまり国家の要職であるあんたはその革命家の集団に命を狙われてる事を知って、しかも正体までも知られている――と?」
「嘆かわしいがその通りだ。」
深く、深く、腹の底から彼とその従者しか分からないであろう誰かへの憤りを込めてバシアスは頷いた。