『ばいばい』
◇◇◇◇◇◇
翌朝はそれはそれは綺麗な霧模様で、つまりは普段となにも変わらない朝だった。
魔女や精霊、そしてバケモノの子にも等しく。
「変わらないナ」
遠い果てに薄く朝日が滲む空。
今日もロキは日課の庭の手入れと収穫を行なっていた。
玄関側からその様子を手に持つ本の隙間から見守る魔女と三角帽子のつばに乗るマーカジュラ。
「昨日ヨルグが帰った後、散々泣いてすっきりしたのだろうさ」
いつもと変わらない朝だった。
いつもと変わらないからこそ精霊は違和感を覚えるのだ。
「こういうのはね、時間が経つにつれて心にくるものだよ」
「オレからすれば最初からアイツの行動はわけがわからないゼ?あのガキが幽霊だと分かってるのなら無視するのが一番ダ。そうでなくともアテナに言って粉砕してもらえば鬱陶しい思いもせずに済んだんだゼ?」
ふふ、とアテナは笑みをこぼすとそれを嘲笑と見たのか、マーカジュラは頰を膨らませて本の上に降りた。
「いやね、それだったらアンタがロキに気なんか使わず私に言ってくれば良かったじゃないか。粉砕とまではしないにしても何かしらは出来ただろうよ」
「ソレハ…いや、そうだが…それはしたくなかったのサ!――そういやなんでだろうナ」
精霊とは人にあらず、しかして全く意思疎通が取れないわけではなく、全く共感が出来ないわけではない。
男性が出産の苦しみを知らぬように女性が男同士の微妙な距離感が分からぬように、ほんの僅かな部分がすれ違うだけで大きく異なるものに思えてしまうのだ。
その微妙な機微の全てを理解はできずとも、魔女には精霊自身が掴めずにいる感覚をぼんやりとは理解ができる。
「さあね。だがま、したくないことはする必要はないのだろうさ」
だからこそ、魔女は曖昧に返す。
はっきりと言ってしまうのは野暮だと、それがアテナという人間だからだ。
私は魔女だと、そう言い聞かせて生きてきた人間の人生観なのだ。
「意味わかんないナ!」
「――ああ、全くだね」
冷たく乾いた風が吹く。
宙に舞う霧状の水分が一斉に吹き上がる、その様は大きな生き物の様でふいに目を取られる。
「――ロキ」
「ぅ?」
アテナがロキの元へと寄って声をかける、冬月草を二本手にして。
「世界には伝承、習わし、古くから伝わるものが沢山あってね。風土や文化によって様々だがその多くが最近では迷信と言われ廃れてきている。まぁ、確かに迷信と言えるものも多いのだがね、流れ星が消える前に願い事を唱えるだとか、サンザシの灰を被れば一時的に魔女になれるとか、そういうの。」
だけどね――
遠い沼地の方から鳥の声が僅かに聞こえる以外にはこの場所に音はなく、魔女の声が優しく響く。
「迷信の中にも本物はあるのさ。それが冬月草と共に死者を弔うと正しく死者の世界へ向かえるというもの。ヨルグがオクリバナとこの花を呼んだだろう、そのままだがオクリバナの名はそこから来ているんだ。さて、ここからは迷信の話、木枯らしという風が秋の終わりに吹く。これは木に残った枯葉も落とす強い風で、それが過ぎ去った後の姿が枯れ木のようだから名付けられたのだが、そのせいか古くから木は秋に死に、春に生き返る創生の精霊と信じられていて――」
「ナゲーヨ、アテナ!」
耐えきれず声をあげたのはマーカジュラだった。
ん、ああ、と一度口を閉ざしたアテナは一呼吸を置いて再び開く。
「ともあれ、迷信の一つにこんなのがある。『――その年に死者がいれば次の木枯らしにオクリバナを添えよ』ってね。木枯らしはある地方では死者の風と呼ばれて幽霊やら悪魔やらの行進だと信じられ、オクリバナを風に乗せることで鎮魂と静かな冬の訪れを願うのさ、だから、ほれロキ」
そういうとロキに乾いた冬月草を手渡したアテナ。
乾燥させた冬月草はひどく脆いもので手に少し力を込めるだけでパリパリと崩れてしまう。
いつかに読んだ魔法の溶けかかったガラスの靴の様だ――と、ロキは感想を持ちつつ注意深くその花を手にする。
透明色は変わらないが水晶の様な輝きからガラスに近いのっぺりとした色に変わっている、しかしそれもまた白い滲みのコントラストが加わってロキには美しく思えた。
――ばきり。
「…もうすぐ風が来る」
冬月草を握りつぶしてロキの隣に立つ魔女は呟いた。
刹那の出来事だった。
今日一番の風が津波の様に押し流れ、開いていたアテナの手の花の欠片とロキの手にしたおよそ原形を残した花が風にさらわれていく。
ぐるり、ぐるり、と風が竜巻状なのが崩れて混ざった冬月草の煌めきでわかった。
霧が一斉に動き出す、細かい粒子が風に乗ってごうごうと唸りを上げて彼方へ突き進んでいく。
その影はさながら神話に出て来るドラゴンの様で、見惚れてしまう。
遠い彼方、その風が上向きに跳ね上がり空が垣間見えた。
青く青く、どこまでも青い空。
久しぶりに見た青空に誰かの顔がロキの瞼には映っていた。
――ばいばい。
それはロキが初めて告げた別れの言葉だった。
新月の晩に初めて会った時から一度も告げていなかった言葉を風に流した。
遠く見えた青空の様に笑う少年の顔を思い出して。
風が過ぎると何もなかったかの様に湖もそれを囲う沼地も深く濃い霧に閉ざされた。
「ご飯にしようかね」
「う、ん」
誰かが消えても、生活にはそう大きな変化はない。
それでも誰もが不意に気づいてしまうのだ失ったものの大きさを。
きっと名前も知らなかった少年は、ロキにとって
――初めての友達だったのだろう。
 




