『訪れるは死に神』
最近、そんなロキの日々に新たな日課が加わっている。
「ん、またロキは散歩かい」
「ナンダ、心配か?ン?」
「うっとい。ま、この辺りはいてもどこぞの神様くらいだろうし別に平気だろうさ」
「カミサマは会いたくないナ」
「そうさね」
扉の軋む音を背にロキは空を見上げた。
何気ない吐息が白く昇り、肌に吸い付くような寒気がロキの体を包んだ。
「ぁ…」
彼の日課の一つ、深夜寝る前に家の前へ出ること、その目的は目の前にいた。
夜の闇の中、それでも存在を確認できる白い霧の壁。
その中でわずかに揺れる誰かだった影。いつかの新月に出会った、ロキよりもわずかに幼い見た目の少年だったその姿と呼べるものはもはや無かった。
始めはアテナが不在の夜だけだった、少年はロキを見つけるといつも「初めまして!」と笑っていた。
そうして何度も何度も沼地を駆け回った。月が見える夜も雲が掛かっていても、雨が降っていても、少年はいつも「見たことないよ!」とそう笑っていたのだ。
そんな日々の中で少年は徐々に変わり始める。
最初の大きな異変は声が出なくなった事、ただロキの手を取りいつもの台詞を口パクで示すようになり、次に瞳がおぼろげになって黒い穴の様になると、一気にその姿は変質してしまった。
霧の壁の中に佇むとその姿は溶け込んでおよそ誰にも識別ができないほどに揺らめく何かに少年は変わり、毎晩家の前にいる様になった。
「お…や、すみ。」
そしてロキは毎晩少年の手だった場所を掴んで声をかける。
これが彼の最近の日課。名も知らぬ、もう声も沼地を共に走ることもできない誰かにそれでも声を掛ける。
彼にとってそれは初めての――
◆◆◆◇◇◇
「や、アテナ」
入り口の倒木を叩き開かれた道を歩き、蔦の伸びる赤茶けたレンガの家を望む大きな男。
肉体も装束も真っ黒に染まり、大きな三日月の刃を携えた鎌を手にしている。
その訪問客とは妖精種、その中の死神であり、アテナとは旧知の仲でもあるヨルグだった。
「ヨルグじゃないかどうしたんだい……ああ、そうか」
玄関の脇に置かれた大きな切り株に腰掛けていた魔女は本を閉じた。
その姿を見たアテナは視線の先に、その在り方を見る。
「なんにしろ、中に入りな。積もる話も積もった話もゆっくりとね」
「ありがたい。この冬は特に冷えそうだ」
ティーカップ二つ、アテナの瞳と同じ琥珀色の紅茶が淡い湯気を立てて揺れていた。
「いい香りだ、少しばかりこの地の匂いも感じられるな」
「この庭で取れたものだからね。あの子がこの一年、毎日欠かさず水をあげていたよ」
リビングに佇む二人。無限に等しい一瞬をその一口に込めて二人はカップを置く。
「それでどうなんだい最後を悟った気分は」
思わず口元を緩める死神、その吐息には何が込められていたのだろうか。
「幾人もの死を見た。私を見て恐れる者が殆どだった、だがその中にも時々優しい顔を私に向ける人もいた。前に火を囲んで語りあったこともある、私には理解するには及ばなかったがあの優しい顔は今でも焼き付いているよ」
外で子供の様な笑い声と子供の怪物の様な声が響いていた。
「誰かが言った、来るな近寄るなと。誰かが言った見送ってくれてありがとうと。人は死を恐れ、人は生から離れるのを恐れる。今まであった何かを、これから夢見る何かを、失うのはそう容易には理解はできないだろう。それは魂があるからだと思っていた」
「いた?」
「私は妖精だから、存在が生まれた瞬間から魂を運んで、運んで、運び続けてきた。数多の死の中で私も幾度と考えてきたが、ついぞ答えは出なかった。死が悲しいものであり生はきっと愛しいものだろうと、そんな一般論は口にできてもその意味までは解らない、恐らくそれが人と我らの違いなのだろう」
純白のティーカップを目を伏せ口にする、死神のその表情はとても穏やかだ。
「そうだね、でも別に妖精や精霊も感情が乏しいのではなく見方が違うのさ。与えられる死を自然に受け入れる妖精達と違って、人間はその死をどうやって先延ばしにするかを考えて来たんだ。そういう始まりから違うんだ、仕方ないさ」
ヨルグの持って来たクッキーの入った缶を開けるとそれを口へ運んだ。
サクッと軽い音が小さく跳ね、「お、ラズベリーだ」なんてアテナがこぼす。
「結構評判だと聞いたが喜んでもらえてよかった。…さっきも言ったが私は今でも人間の心には疎い、それでもこの役割の中で出会った皆の思い出が『私』という個を作っていると思うのだ。後進の者は私とは違う死に出会い、違った感覚を覚えるのだろう、そう思うと何処か寂しいものでな。」
「そうか、じゃあ寂しい思いの丈を存分にぶちまけていいよ。さっきの焚き火を囲んだって奴の話、もっと聞かせてくれよ」
「あれは今と同じ燃ゆる葉が落ちた晩秋だった…」
一つ一つ、そも宝物の様に語る死神。
アテナは内心でその真っ黒な死神の表情を読み取れる様になっていたことに気づく。
不可思議なその繋がりに笑みをこぼしながら、アテナは死神の話を聞いていた。




