三話『知らぬは仏』
魔女アテナは週に一度は必ず、そしてそれ以外でも時たま家を留守にする。
今日もまたアテナは出掛けようと玄関の扉に手をかけていた。
「じゃあロキ行ってくるよ、明日の昼頃には戻ってくるから」
「ぃ、ってらっしゃ、い」
「マ!オレがいるんだ任せときナ!」
「マーカ…あんたが何かする方が心配だよ。まあいい、暖かくして眠るんだよ」
そう言うとアテナは夜の闇の中へ消えていく。
それを見送って扉を閉じたロキはリビングへ戻り、最近行なっている文字書き練習のノートを畳んで寝る準備へと取り掛かった。
「ぁ、」
ふとロキは昼間アテナの手伝いで庭に薬草を取りに行った際、忘れ物があった事を思い出す。
「お、なんだロキ坊。外に出るのカ?」
「ウゥん」
「気をつけろヨ!今日はシンゲツだから特に化けてデルゾ!」
ロキの寝巻きは冬が近いのもあって上下共にモコモコで包まれている、いつものローブと変わらずフードを被っているので精霊マーカジュラもそこが定位置だと言わんばかりにロキの頭に乗っかっていた。
「う?」
頭を傾げるロキ、見上げるとぼんやりと輪郭だけが見える月が佇んでいた。
玄関を出て右へ歩くと小屋を入り口に樹海の様に広がる広大な庭が見えてくる。
アテナの魔術によって異様な生態系で群生する草花は 『ウノ』 『ドス』 『トレス』 と、呼ぶ三区画に隔たれ、奥には危険なものもあるとロキは一番手前のウノの区画だけ入る事を許されていた。
――こんばんは!
小屋の置き忘れた手拭いとジョウロを手にした時、ロキの背後から少年の声が掛けられた。
「――ッ⁉︎」
警戒しながら振り返ると――やはり少年がいる。
太ももまでかかる大きなTシャツを着た、短髪と快活に笑った顔が印象的な少年だ。
「オイ、ロキ坊…こいつはフガッ!」
頭の上にいるマーカジュラの口を塞ぐ、その先はいい、と頭を揺らしながら。
「ソッカ、お前にもわかるカ。ならいいゼ」
「こんばんは!ねえねえ!ここはどこ?その頭の上のちっこいの何?」
いつのまにかロキの元へ来た少年、ロキも体躯はおよそ平均的な7歳男児くらいだが、その少年はそんなロキより頭一つ小さく、そして…細い。
「ぁ、の…エえっ、と…」
ロキの言葉は頑張って聞かないとおよそ理解できるものではない。
少年はロキの体に視線を向け、その違和感に気づく。
「それ…火傷?」
少年の視線にロキはその左肩から腕を隠す。
「火傷は確かに痛いよね…でも隠す事はないよ!それは君が生きた証だもの!」
「……」
何も言わないロキ。正しくは掛ける言葉がないのだが。
「ね!遊ぼうよ!」
家の敷地から一歩でも踏み出せば冷たい夜風が吹く湖の上、だと言うのになんの躊躇いも、恐れもなくロキの手を取り歩いていく。
年中霧が閉ざす魔女の家を湖畔へと繋ぐ水上の道を抜け、泥沼へと出る。
「わっ!星が綺麗!こんなの見た事ないよ!」
ロキから離れ先に走って行った少年は、手をひらひらと天に向けながら回っていた。
「…ロキ坊、オレは戻ってるゼ。夜は冷えるから早く戻れヨ」
そう言ってマーカジュラは家の方へと戻って行く。
構わず少年は明るく走り回る、純真無垢を絵に描いた様なその姿を見ていると夜風が一層冷たく感じたロキだった。
「ほらほら!こっちこっち!駆けっこしよう!」
――霧と曇天に包まれる沼地も時折、星たちが望むこともある。
この沼地の大部分はアテナが形成した陣地であり結界でもあり、基本的にアテナが家にいるときは雲も霧も濃く居座るのだ。
今宵はアテナが沼地から不在なのもあり、世界中で燃える薪の火の粉が、浮かび上がった様に一面に瞬く。
霧も薄い、とは言っても足元が不鮮明な中、この場所は一足踏み込めば底なし沼や泥に隠れた木の根など危険も多い。
そんな中を駆けていく少年を止めるためにロキも走る。
ロキの脚は人のそれとは違い数十メートルの距離も一瞬で詰める頃が可能だ。
黒い影となったロキが少年の前へと出るとその顔をきらめかせた。
「わあ!凄い凄い!負けてられないぞ!」
そう言って別の方向へと走り出す少年とそれを追うロキ。
泥を蹴り上げ少年の行く道を遮るロキもいつのまにかそれを楽しく感じてしまっていた。
沼地を駆け回った少年達。
「あ!僕そろそろ時間だ!じゃーねーお兄ちゃん!また来るよ!」
それは唐突な少年の言葉によって終わりを告げられた。
霧の中に消える少年、ロキはその姿を見送って家へと戻る。
途中空を見上げると滲んだ景色のせいで新月は見つけられなかった。
◆◇◇◇◇◇
「ただいま。おや、マーカ、ロキはまだ寝ているのかい?」
日が昇ったことはアテナの帰りによって再び深く閉ざした雲と霧のせいで曖昧だ。
しかしそれでも夜明けから数時間が経っている沼地はとうに真っ白な景色になっている。
普段ならロキが机で何か作業している時間だが、リビングの机には精霊マーカジュラが寝転がってゆらゆら揺れているだけだった。
玄関を過ぎ、扉を開けた家の主人はそれに気付き精霊に声を掛ける。
「ン、まぁなんか小屋に忘れ物とか言って少し夜更かししてたからナ。そのせいダ」
「ふうん、珍しい。それにいつもお土産ヨコセ!とかやかましいあんたも静かじゃないか。何かあったのかい?」
アテナを一瞥するとだるげに反対へ転がったマーカジュラは
「オレにはわからんヨ」
そう言った。
「なんだってんだい…」
帰宅したばかりのアテナにはその足りない言葉で理解できるわけもなかったが、マーカジュラにこれ以上話す気はないとみて鞄を置いて一息ついた。
「お、はよ、う…おかえ、りぁさ、い」
しばらくして物音に目覚めたのかロキが二階から降りて来た、目をくしくしさせて寝呆けた様子でキッチンへと立つと湯を沸かし始める。
カップを三つ持ってテーブルへ向かうと、紅茶の香りが鼻を撫でた。
釣られてかマーカジュラもその方に向かい、ロキがカップを置くと燃え上がる魔力を細長い筒状に、すなわちストローの様にして飲み始める。
「ありがと、飲んだら少し庭の方へ行くからロキも来な」
「う。」
頷くと砂糖を入れ、溶かすロキ。
その表情は普段とさして変わらぬものだったので、アテナもロキに何か問いかける訳でもなくカップを口に当てた。
「これが冬月草」
魔女アテナの庭は広大だ。
高い樹木から、中層や地面にも様々な草花が独自の生態系を作り出している。
三つに分けられた区画のうちの一つ『ウノ』だけでも魔女の家9棟分の面積を有し、マス目状に道が開かれていた。
アテナはその道の側で咲く花を示している。
白く丸い、綿の様な花を持つその花が冬月草、ロキが軽くつつくと微かにいい香りがした。
「この花は元はウラ側のものでね、春を告げる風が吹くと蕾をつけるんだ。一年かけてたっぷり魔力と栄養を蓄えて冬にこうして花を咲かすのさ。冬にはちと早いって?ここは私の結界の中だから魔力が自然よりも濃い状態だから早いのさ。それで…」
花を少しちぎるアテナ、花弁に当たる部分だろうか、粘り気を持った真っ白な花の切れ端はすぐさま透明に変化した。
花の一部を指で丸めるとアテナはロキに持たせていた小瓶と袋を受け取る。
「孔雀粉は前に説明したね、魔力に触れると虹色に光りだす物だ。これを…」
小瓶に冬月草の一部を入れ、孔雀粉という赤い粉をひとつまみ入れた。
すると薄く濁った瓶の中で光が膨れる、虹色の光りが燃え上がるに乱反射し徐々にまた静まっていく。
「ま、この通り、魔力を潤沢に蓄えるのが特徴でね。色々な効果があってよく使うから覚えて――」
(――では弟子ですか?)
ふと、誰かの声が脳内でよぎる。
「…なんだろうね」
「う?」
笑みをこぼしたアテナに首を傾げたロキ、表情はお互いに異なるものだがどこか柔らかだ。
「なんでもないよ。保存の仕方がちと難しいんだ、説明するからよく覚えるんだよ」
「ウゥ!」
麦穂が色付き、世界の緑は燃え土の色へと変わり、空気も景色も白銀へと変わる季節へ向かう最中の大陸。
しかし二つの世界、魔女達はオモテとウラと呼ぶ元は関わりのなかった世界が繋がったことによって、冬に咲く花や春に枯れる草などその季節感も暮らす地域で様々だ。
アテナの庭に生える草花は特に薬などに使われるものでそう言ったものにはウラ側の物も多く、年中季節ごとに生い茂り、枯れることはない。
元は目覚めたばかりの彼のリハビリだったが、その手伝いは今でも続いている。
「ドクダミ、シゲ、カルマ、アキナタ…それに冬月草と露菜。うん、バッチリだ。覚えが良くて助かるよ」
いつもの場所に――そう魔女の言葉を聞き遂げたロキは家の中へ戻り、廊下、リビングの扉を横切ってさらに奥の部屋へと向かう。
突き当りを曲がると見える二つの鉄の扉、この部屋が魔女の工房だ。
重い扉をためらうことなく開くと、慣れた手つきで作業を始める。
ドクダミとシゲはそれぞれネットに入れ結晶石と共に水瓶に浸す、カルマは窓の近くに吊るし、アキナタは棚の中で陽に当てないように吊るす。
冬月草はトウゲツに使う魔石で編まれた網の上に置き、ハクジュの葉を乗せ月明かりだけにあてる。
その時の魔女の言葉を彼には鮮明に思い出せた。
一言一句、表情も息遣いも。
彼の記憶と呼べるものはこの二年だけ、空っぽの彼にはそれぐらいしか記憶するものがなかった。
ふんふんふんと無意識に鼻を鳴らす、それはアテナがたまに口ずさんでいるものや歌響石で流していたものなど様々だ。
昨晩干していた軟膏用のマユクサや薬湯漬の樽などを部屋に戻したり、出したりと一通りの作業を終え一息つくロキ。
「どうしたどうした、ご機嫌だったナ!」
「う…うぅ」
「ナンダナンダ今度は照れるのカ!オレは好きだったゾ?」
マーカジュラの言葉に手を顔の前でバタバタ振るロキの表情は、もういいよと、そう言わんばかりだった。
「終わったかい?お疲れ様、遅めだが昼食はもう少しでできるよ」
リビングに戻ると香ばしい匂いがロキとその頭に乗るロキの鼻をくすぐった。
一度振り返ったアテナの言葉を聞きロキはノートを広げるとペンを取る。
アテナの文字が書かれた紙を横にひたすら繰り返し書いていく、よれたりしていびつな文字がつらつらと増えていく。
これもまたリハビリの一つだったが指も腕もおよそ動くようになった今でも続けている。
足や腕の力は大型獣も凌駕する程のものを秘めている、それの影響からか細かい力の加減がうまくいかず紙を破く事やペンを折る事も珍しくはない。
極端に力が弱くなれば思い通りの直線も曲線も描けない、だから彼の文字は一年続けていてもいびつなままだ。
だからこそ続けている、彼の日課だ。
庭の薬草もだが、単純に楽しく感じている事もあるのだろうが、それはロキにしかわからない。
キッチンに魔女はロキの様子を一度窺い、またフライパンに向かった。
「なんか親子みたいだよナ!」
「なにがだい」
「ナニってオマエとロキ坊だヨ!キャキャキャ!そんなにツンツンする必要ないだロ、オマエ達照れ屋のところもそっくりカ?」
鉄鍋の上でベーコンと卵が音を立て焼けていく、もう一度ロキの方を見る。
アテナは声を聞かれてない事を確信すると小さく口を開いた。
「…正直ね、わからないんだ。昔はそりゃ友人や家族もいたが今は魔女として、一人で生きてる真似事をしてきた時間のが長くなって、今更誰かと共にいて相手が何を思って、何がしたくて、どうなりたいのか、全く想像ができないのさ。あの子は口数も多くないしね」
「そんなこと言ったらロキ坊が目覚める前からオレがいるダロ!」
「あんたは別さあ。妖精や精霊は感じ方が全く別物だからね、存外肉の殻ってのは重いし痛いし苦しいのさ。逆に魂か心みたいなものが剥き出しで生きてるあんた達の事は私には理解ができないのさ。だからこそ、私は変に遠回しだったり察しろみたいな抽象的なニュアンスの無いあんた達の方が楽なんだけどね。マーカは少しうるさいが」
透明だった卵白が真っ白に固まり、卵の下から薄っすら見えるベーコンも焦げ目が付いてきた。
それを二枚の皿ともう一枚、二回り小さな皿に移す。そしてパンを手にし…
「オイ。アテナ、オマエ俺を便利な道具か何かと思っているんじゃねえよナ?」
「おいおい、変な事を言うのはよしておくれよ。私達魔女にとって隣人、即ち妖精や精霊達は魔術などで大きく関わりあう間柄だよ?そんな風に思うわけがないじゃないか。」
「そう…ダヨナ。特にオレは精霊、妖精なんかよりも格の高い存在でそれがマーカジュラ様だ。賢い部類に入る、歴史や謂れに明るい魔女なら恐れ慄いてもおかしくない、大精霊と言ってもいいだろうヨ!」
「それは認めるさ、だからこの家でもそれなりの自由を許可しているんだ。他の隣人達なら善意を持ってこの家を一晩で灰にしてもおかしくないからね。客人ならまだしも定住なんて恐ろしい事さね。」
普段は陽気で気ままで、無邪気が口をつけて動いている様な存在だ。
そんなマーカジュラがアテナを睨む。ジロリと粘っこく、その視線を主張するが如く。
燃える身体、真紅の揺らめきに太陽のような黄金の輝きを含んだものだがその瞳は空よりも深く、曇天を映した海のように濃い青色をしていた。
アテナの琥珀の瞳、マーカジュラの青色の瞳が交差する。
「アテナ…」「マーカ…」
一瞬息を飲む二人。彼用のマグカップにすっぽりと収まったマーカジュラの身体を幾度も影が掛かっては消えていった。
「そうだよナ…まさか……まさか…ああもう!鬱陶しい!オレはトースターじゃないって言ってるだロ!!」
アテナが手にするはパン。八つ切りの少し薄めの食パンだ。
前に気まぐれでマーカジュラがパンを自身の炎を操り、こんがりきつね色に仕上げた事がありそれ以降アテナとマーカジュラのパンを焼くやりとりが決まって起こるようになったのだ。
それが今のやりとり。
「パン焼きの精霊だろ?仕事はしておくれ、存在意義を失う精霊はろくな最後を迎えないよ?」
「ああもう!炭にしてヤロウカ!」
ぼうっと炎が強く揺らめく、そしてマーカジュラにかざしたパンに触れ――
「なんだかんだでやってくれるのだから、最初からやってくれればいいのに。」
「ウルセエ!」
三枚の皿。ベーコン付きの目玉焼き、とれたて野菜のサラダ、小さく切られたバターが黄金色のトーストを滑っている。魔女アテナの家の朝食兼昼食。
「そういえばあのクッキーて誰からもらったんダ、アテナ!ロキ坊も美味い美味いと言ってたゾ!」
「う、おいし、かっ、た」
「ああ、あれは街の知り合いにね。ロキによろしくとさ。っていうかマーカも食べたのかい」
「ロキ坊がくれたんダヨ!ナ!」
「う、、ん!」
「そうかい、まぁ、今度伝えておくよ。…ロキ、口元に黄身がついてるよ…ほら」
「あり、が、と、う」
そんな少年の笑みにつられて魔女も口元を綻ばせる。
――これが彼らの日常。
薬草を弄り、普通の少年の様に文字を書き本を読み、時たまに訪れる魔女の客に応対したり。
大陸全体的に一番の娯楽は学校や職場、近所の人達との会話と言えるだろう。
それを考えれば人を避けひっそりと暮らす魔女の生活は一般には想像し難い。
水の少ない砂漠の中で青々とした果肉と小さな花を咲かせるサボテンの様に孤高で不思議な存在だろう。
しかし皆生きている中で様々なしがらみに折り合いをつけながらより良い生活を目指している。
アテナに限らず大陸全土に散らばる魔女達が社会と関わったり、人里離れたり、ウラ側へ行ったりと。
彼女達、魔女には誰もが皆どんな形であれ普通の人としての生活があった、だからこそ魔女となって諦められる者もいて、その日々を諦めきれない魔女だっている。
――しかし少年にはそれが無かった。
蜜月の様な日々も、夕日の様な遠い過去も、六等星の輝きを追う様な未来も、その一切が無い。
彼を彼としているものは魔女の家で目覚めてからの二年間と魔女から与えられたロキという名だけ。
声帯の様な機能が動かせるようになってから魔女は数回少年に記憶のことを聞いた事があった、だから自分はここではないどこかの誰かだったと、それは何となくだが感じている。
なによりも自身の左腕、漆黒のその腕が自分のものでは無い、そんな感覚はおぼろげながらにあったからだ。
魔女はロキが知らないと、覚えていないと察するとその事は口にしなくなった。
リハビリの延長。ロキがある程度体を自由に動かせるようになってからもその家にいることを許し、ロキもまたどこへ行く当てもなくそのまま生活を続けている。
魔女の元へ訪れた誰もが、魔女であれウラ側の住民であれ、一般の人間であれ、彼を恐れ軽蔑した。
反応の大小はあれど彼と距離を取らなかったのは世界を飛び回り色々な人と関わる新聞屋と最近きた魔女くらいだ。
その度に彼は傷付き、だが自分の異質さも認めていて、さらに傷付く。
それでも…彼は霧の閉ざした魔女の家で生きていた。




