一話『魔女と子と王』
沼地は今日も視界の隅から隅まで一面に塗りたくった鉛色一色の景色だ。
空はもちろんのこと泥も沼も木々さえも遠く前に時間の針が止まり、忘れ去られたかのように全てがそこにあるだけで、死した森のようだった。
そんな沼地を一つの影が駆けていく。
フード付きの足元まで伸びる真っ黒なローブをまとった影。足元は引きちぎったようにほつれ、小さな白い脚と麦草色の草履がみえる。
その影はフードで顔のほとんどを覆っているにも関わらずその体躯の三倍、四倍程度はある間隔を枝から枝へ飛び移っていく。
その影を沼地を進む一人の王族とその従者がはっきりと視界に捉えていた。
王族は六十代後半だろうか。白く染まったヒゲを長く携え、恰幅の良い体系を誇張するように高価な鉱石をあしらった重厚な毛皮のマントを羽織っている。
「ガイゼ、お前も見たか?」
ガイゼと呼ばれた従者は肯定するように縦に頷く。
従者はは西の国では最高級と評されるウールのスーツを着たカイゼル髭が特徴的な老人だ、しかしそのスーツの上からもしなやかに鍛えられた身体と左肩に並んだ二桁を超える簡易勲章を見ればその老人の実績と実力がうかがえた。
手には丸く太った革製の鞄、腰の両側には拳よりも大きな弾倉の中折れ式リボルバーと、もう一方と対するとスマートな印象を受ける弾倉振出式のこれまたリボルバーの二丁の拳銃が下げられている。
「バシアス様あれはなんでしょう、体躯は子供の様でしたが身体が…その、どこか不気味といいますか…それにあの身体能力も一般の童とは言えません。ですが私の浅学で申し訳ないですが判断しかねます」
「いや、儂にもさっぱりだ。もしや村で聞いた魔女遣いの化け物かもしれない、警戒はしていこう」
「はっ!」
「しかし服装はもう少し考えてもよかったかもしれぬな…」
バシアスという王族の男は跳ねた泥を払い、苛立ちながら歩を進める。
自分の身分を示すには簡単だろうと数ある中でも最高クラスのマントを持って来た事を後悔しながら泥濘む(ぬかるむ)地面を蹴り上げ進む。
せめてマントだけをガイゼに持たせるなり、道に護衛と共に置いてきたボロ布の様なマントを羽織って来てもよかったのでは、と沼地に足を踏み入れてから気付くとは情けないものだ。
そう心で吐露しながら、先に見える代わり映えのしない灰色の景色を睨みながら歩を進める。
雲に隠されぼんやりと姿を見せる太陽が拳一つほど中天に寄った頃、二人の景色も徐々に変わって来た。
木々や足元にまとわりつく様に霧が漂い始め、鼻腔には野菜の屑や糞尿を一緒くたに詰め込んだ肥溜めの香りが掠める。
気味悪がってバシアスが振り返ると視界の奥、30メートルは離れているが確実に自分たちに迫り来る霧の壁が見えた。
「バシアス様、敵ですか」
従者は声を低くして声をかけると、主人の声を待ちながら腰に携えた二丁のリボルバーホルスターの留め具を外しグリップに手を添える。
「待て」
短く応えるとバシアスは更に眉間に力を入れ第六感、魔幻と呼ばれる魔術を起動するための神経に接続する。
バシアスの瞳が淡く碧の光を孕み瞬く、瞬間眉間を抑え男は瞼を強く閉じ一息ゆっくりと吐いた。
「あれは魔術だ。だが迷子を叩き出すためのものだ、つまりあれがあそこで立っておるのなら道はまだ違えてはいないということだな。」
息を整え、バシアスは再び歩き始めると一歩引いてガイゼも付いていく。
「あれは…支え合う倒木の門。」
バシアスは先にある二つの倒木を指差す。
支え合う…さながら門の様な倒木の先は濃く濁った霧が立ち込め、川なのか大きな池なのかはわからないが静かに流れる水辺なのは見て取れた。
周りは足元に群生する雑草や苔やプカプカと浮かぶ水草の小さな植物だらけで、森から切り取られたかの様な少し離れた場所に不自然な数メートルの高さの朽木が二つ支え合いながら佇んでいる。
「バシアス様あれをご覧ください」
朽木に手が届く一歩前でガイゼが指差し、バシアスもそれを確認し頷く。
「まだ新しい足跡だな、それにこの大きさは大人のものではない。先程の黒い布を纏った童だろうな」
「監視だったのでしょうか?」
「さあな、だがこの沼に足を踏み入れた時から魔女の腹のなかも同義だ。どちらにせよ退くわけにはいかない。」
「勿論私の命はガイゼ様に捧げたもの、いくら老いぼれようと付き添う次第です。」
国を発つ前幾度も確認した事を改めて告げ、二人の視線は倒木の門を強く睨んだ。
いくぞ、と自身の声に応じて腹に力を込め魔幻回路をアクティブにしながら支え合う倒木へ近寄る。
従者もまた腰の銃をさすりながら続く。
――右の木を二回叩き、その名を吼えよ
村で聞いた通りにコンコン、と右の木を叩くと静かな沼地に木の音が異常なまでに木霊し沼地の森全域へ届きそうなほど広がっていった。
それでも二人は臆する事なく――「儂の名はヴォルフ・ウシアンジェル・バシアス!」「我はその従者、トリハ・ドンハフォル・カイゼ!」
「「魔女に用があって来た!!」」
響き渡ったノック音に負けじと二人が声を上げると――
『老いぼれ二人がやかましいよ。そのまま真っ直ぐ歩きな、そこの金ピカマントの男にはもう見えているだろう?』
腹の底に響く声、どこか眠たげな声が支え合う木々の間から聞こえた。
「行こうか。」
驚く様子もなくバシアスは湖畔から濃霧が座した水面を歩いていく。
「私は人間の出自故、些か現実味が薄れてまいりました」
後ろのカイゼは恐る恐る足を置く場所を確認しながら一歩一歩続いていく。
視界はカイゼから見て、数歩先に歩くバシアスの背が輪郭を霧に飲まれながらも確認できる程度だ。左右も、上下も、濃霧が溶かす。
ただの人間であるカイゼからすれば目の前を歩く背と自分を除けば、見えるものといったら足元の霧を払ったときに見える揺れる水面だけだった。
「無理もない。それにそもそも慣れるのはもっての他だ。魔術など自分が行っても【メザイア】の大星勲章持ちが行っても信じるべきではないのだ。この道だって数歩それれば妖魚が我が物顔で泳ぐ湖に落ちてしまうからな」
「陛下の眼がなければ本当に私はただの老いぼれでした」
「おい」
低くバシアスは咎め、カイゼもまた気づいた様に上唇を噛んだ。
「失礼、バシアス様」
「もう魔女にはバレてしまっているかもしれないがな。だが無駄に袖を振る理由もない」
バシアスは高く伸びた鼻を一切下げる事なく進み、その後ろを足元そして前の背を見失わないようマントの裾をにらみながら歩くカイゼが続く。