『それでも一人ではなく』
死神の後に続き、森林の陰に場所を移したアテナ達。
ウィスプがランタンを揺らすと湿った土の上に布の様なものが広がり、そこへ全員が座った。
「――さて、何から話そう。…ああ、こう言えるのが幸せだ。」
「ククク!お喋りな妖精は嫌われちまうゾ!」
「それをマーカが言うのかい?」
あの――と、そう切り出したユリに視線が集まった。
「死神…ヨルグさんが私のこと、『冥の姫』と呼ぶのは何故なのですか?」
「では…そうだなその辺りから話そうか。」
赤い眼光は稲光が如く鋭い、しかし深く穏やかなその声によって畏怖することなく落ち着いていられた。
「死神の私も、ウィスプの仕事もつまりは、死者の魂を【冥】へ連れて行く事だ。此岸と彼岸を繋ぐ川を渡って、彼岸の先にある冥へと魂は運ばれるのだ。その冥という場所は一切の光のない場所なそうだ。私も行ったことはないのだが、君の様に我らにより近い魔女は、その眼に模様が浮かぶ。その光の模様は冥でも先を見通せるものと言われ、故に冥の主人、冥の姫と我らは呼んでしまうのだ。」
「ええと…」
困惑するユリ。此岸や彼岸という言葉に多少の覚えはあれど、それを現実的な尺度では彼女には測れなかった。
「然程の意味を持つことではない、そういう古くからの習わしなのだ。そして――ウィスプ。」
「了解だアニキ!冥の姫、少し手を出してくれるか!」
言われるがままにユリを両手を皿の様にして差し出すと、目の前に来たウィスプがランタンを揺らす。
「これ――おと…うさま…?お母様に…アジー…?」
「ああ、流石だ。その通りだ。そして君には礼を言わなくてはならないのだ」
ランタンからユリの手に落ちた、眩い輝きを放つ三つの球。
それを彼女は家族だと確信した。確信してしまう。
「お前のおかげだ!これだけ綺麗な魂ならすぐにイケルんだ!」
「いける…?」
止める力がかかることは無い涙が、軽やかにユリの頰を伝って行く。
ぽつり、ぽつり、と輝きを乱反射させながら落ちた涙は球を掠め、さらに流れる。
「人間だけに留まらず動物も、死と呼べるものは二つある。一つが魂が入る殻である肉体の死、もう一つが魂の枯渇なのだ。」
「魂の枯渇…」
「そうだ。故に生とは肉体と魂が共にあって成り立つものだと言える。魂の役目は記憶と体の神経への伝達だ…しかし魂は肉体から離れても生きている。――生きていた記憶が生き続けるのだ。」
ユリの涙は依然として止まらない、彼女自身も何故泣いているのかははっきりと理解しているわけでは無く。
ただその手にある球の温もりを感じるたびに勝手に流れてしまうのだ。
「魂だけとなればそれはただの記憶の詰まったものでしかなくなる。魂ある者皆が眠りにつくが、眠りとは擬似的な肉体の死であり、指先や呼吸、考えたことすべてを記憶する魂とのつながりを制限することで肉体は休まる。」
「ユメってのは魂の一時的な死体験によって『記憶』が見せるものらしい!オイラにはよくわからねえが!」
マテアナがそっとユリの頰にハンカチを当て、その震える肩をそっと掴んで寄り添った。
「ウィスプの行った通り、夢とは一時的な死体験もよって魂の機能が見せるもの。つまり本当に死んだ魂は夢を見続ける。」
死神の言葉は続く。――ユリの涙も、体の震えも気にすることはなく続けられる。
ロキも、その頭にいる炎の精霊も、アテナも何も言わず佇んでいる。
「夢とは無意識にでも想像した《記憶》から作り出した空想や、過去の記憶をそのまま映したりする。」
「――死人の魂は失った未来も、鮮やかな過去を延々と永遠に見続けるのだ」
その言葉に胸が詰まる。その意味も嫌が応にも脳裏に浮かぶが、ユリはそれを無視して狭まる喉から言葉を絞り出す。
「それ…は…それは良い事なのではないですか!良い事ではなかったとしても!救いでは無いのですか!」
永遠に見る心地の良い夢。楽しい記憶など生きていればいくらでもある事だ。
美しい花を見たとき、夕焼けに見惚れたとき、想い人と話した時、焼いたパンが美味しくできた時、家族と春の訪れを祝った時、人に褒められた時、それに――家族と過ごす何でもない夕食ですら。
苦しい事、辛い事、自暴自棄になった事、無力感に苛まれた事など嫌な記憶はいくらでも浮かぶ、嫌になる時などいくらでもあるが、それでもその楽しい記憶を思い出せば少なくともその時の喜びは思い出せる。
だからユリは、死神が魂の見る夢をさも悲しいことの様に口にしたのがどうしても納得いかなかったのだ。
自分の手にある家族の魂の輝きはそう言った記憶が放つ物だと思いたかった――からだ。
しかし。
「それは救いなどはない。繰り返される夢は、それがいくら喜びに満ちた物だったとしてもただ終わらない苦しみにいつか変わってしまうのだ。」
ユリの言葉は、たった一言で否定される。
「夢は覚めるから夢なのだ。生きていた記憶を思い出す度に覚めないという疑心が生まれ、その疑心は楽しかった記憶すらもそうではなかったと思わせ魂を濁らせるのだ」
「で、ですがこんなに!」
その手に輝く球を見せるユリ。
「ああ、だから私たちは君に礼を言いたいのだ。」
「お…れい…」
少女にとってそれは不思議な感覚だった。
幾度もなく涙は流れる。昨晩に一生分に泣いたと思った、今朝目覚めた時もう涙は枯れたのだと――その感覚があったからこそ彼女の中で家族との別れは終わったのだと思えたのに。
だが今もユリの頰には大粒の涙が伝っている。溢れ出して、零れ落ちて、それでもこみ上げる。
やはり、何が起因して、何を思って、何が自分をそうさせているのか、ユリにはわからない。
「看取られず、弔われず、祈られなかった魂は濁りやすい。特に殺された場合などは特にだ。濁った魂がそのままになれば変質し、人だった幻想で動く人を憎み続ける悪鬼亡霊になる。君の家族もまた肉体の死と同時に闇色の魂が離されてもおかしくなかった」
きちきち、きちきち。
震える手の中で三つの魂がお互いに擦れ合って音を立っている。
「だがその魂をそこまで清らかに鎮め、別れまで終えられたのは我らの姫、ユリ。君おかげだ。…濁った魂や別れの終えられなかった魂は我々が運ぼうと彼岸へは運ばれず、山の様に積み上がって来たる最期まで置かれる」
「最期…」
「風も、生き物も、星の輝きすら無く、川の波音だけが響く彼岸の辺りで記憶も生きていた感覚も全て無くなるまで無間の時の果てに迎えるそれがもう一つの死、魂の枯渇。此岸からある冥の先、生命の輪廻へ還る場所へ辿り着けるのは光を放つ魂だけ。しかし、我ら――君たちが言う妖精の我々には魂を癒し、澱みを拭うことはできない。だが、君が魔女に目覚め、彼らに最期の夢を見せてくれたお陰で、君の家族だった三人の魂はしっかりと世界へ還る事ができる。」
「――君のおかげで三人の魂が救われたのだ。ありがとう。」
何一つ、どの言葉も自身に向けられる言葉ではないと、ユリは無意識にその言葉を拒絶する。
「昨日オマエ言ってたよナ、『死者を弄ぶ魔術』だなんてナ。だがヨ、オマエさんの見たユメは…そりゃア、オマエも見たかったユメなのだろうが、それは家族も一緒だったのサ。冥を見通す眼を持つ若芽の魔女ユリ、オマエの初仕事は完璧なものだったって事サ。」
マーカジュラが少女に言う。
「生とは意味あるものか、死とは無へと還るものか。それは私にはわからない。だがそれでも、正しく還れる事は喜ばしいと私は思う。そしてそれを叶える力を持つ君がいてくれる事が喜ばしいのだ」
ウィスプも、死神も、妖精とは人にあらず。
人の心は異なる感性を持つが故に、「君はいい魔女になるだろう」と、そうまで言えてしまうのだ。
「どうしたんだい、別れは済んでいるのだろう?」
「アテナ!」
アテナの琥珀色の瞳がユリの顔を睨む。
言葉こそ厳しくも、その表情は昨晩から一貫して変わっていない。
「君の魂がそれを家族だと覚えていても、それは既に君の手によって世界へ還り、あるべき場所へ送られるべき魂だ。それが、変えることのできない現実だ」
「おい、アテナ!そこまで言わなくても――」
アテナの肩を掴み言葉を遮るマテアナ。
「いえ、マテアナさん。大丈夫です…アテナさんの言葉は間違っていません。何より私は悲しんでいるのではなく、嬉しいと思っています。みっともなく泣いておいて説得力はないかもですが」
そうマテアナの顔を覗くユリの表情は穏やかだった。
「すみません、ウィスプさんこれはお返ししますね」
「おうともさ!」
ユリが手の中にある魂をウィスプへ差し出すとランタンの中へ吸い込まれ、青い炎の下で朝日の様に真っ白に透き通った光が瞬いた。
「ウィスプさん、死神さん…」
――家族をお願いします。
頰に残った涙を拭って、ユリは二人の妖精へそう告げた。
「――ああ。もちろんだ」
「オイラ達に任せろ!」
死神ヨルグはただ静かに、ウィルオウィスプは胸を叩きながらその言葉に応える。
「ユリ…大丈夫か?」
マテアナはユリの両肩を優しく掴むとまっすぐユリを見据えた。
ユリは少し照れ臭そうに視線を外すと
「はい、想像よりは落ち着いていますよ。家族が殺されたあの日あの晩から時間が止まっていたような感覚でした、ですが私の中にはしっかりとその間の記憶も残っていますから。私が作り出した家族との夢での感覚がきっと私の魔術なのかな、なんて徐々に思えてきました。…不思議ですね、先程は私のせいで家族が正しく還れないのかと思って声を荒げてしまいました…。」
そう言い切ったユリの言葉。
それは錯乱でも、現実逃避でも、諦めでもない、はっきりとした彼女の言葉だった。
数多の魔女の目覚め、そして先の未来への踏み出していく姿を見てきたマテアナの目にはそう映った。
「あまり良い子でいるものじゃないぞ」
類を見ないほど若くして魔女になった少女の髪をマテアナは優しく撫でた。
「ヨルグもウィスプも数多の死と共に残され生きる人達を見てきている。だからこそ、君の『未来』しか見ていないのさ。逃げ出して、投げ出して、死にたくなる――なんて、そんな『今の』気持ちは彼らにはわからない。」
アテナは言う。
先に生まれ、先に魔女になった者として言葉にする。
かつてアテナにもあった人間らしい感情を思い出し、魔女として口にする。
「それを知っていて私はヨルグに君を会わせた。こうなる事も大体は想像できても、それでもね。だから恨むのは私だけにしておいてくれ。魔女になったら人で無しになる、なんて括りが大きくて私にゃ知らないが、少なくともアテナって奴は魔女になる前もなってからも、こんな人間なのでね」
くつくつと不気味に自嘲するアテナ。
「ふふ、恨む事なんてなに一つありませんよ。何より私の目に映る魂はアテナさんも、マテアナさんやロキ君と同じ穏やかな物です。暖かく、優しい、そんな印象の揺らめきですから」
「ふん、その目壊れていないかい?――まぁ、私の思いはマテアナと同じさ。あまり良い子でいても気味が悪いだけだからね」
はい――とユリは微笑む。
「それで、話はそれだけじゃないだろう?」
静観していたヨルグの方へ視線を向けるアテナ。
その視線を受け、思い出した様に肩に止まっていたウィスプが跳ね上がる。
「そうだそうだった!」
跳ね上がったウィスプがランタンを揺らす。
からんからん――からんからん――からん……。
木を叩く様な音がどこまでも、どこまでも響いていく。
アテナの家への訪問者が湖畔の倒木を叩くのと似た、何かを呼ぶ音。
音が軽く木霊し続け、辺りをゆっくりと魔力が包み始めた。
世界を見下ろしていた太陽の光はその場所だけは遮られ、どこからか現れた闇が全員を世界から隔離する。
「な、なんですかこれ…」
「ここは此岸。正しくは此岸の果てだがね。」
此岸とは俗世全てを指す、此岸の果てにある船渡しの待つ場所が生者と死者の境、誰が呼んだか三途の川。
そこには川の音だけが響く。
辺りを飲む闇は波音以外の外音を奪うのか、ふとした瞬間に自身の呼吸や鼓動の循環、擦れる関節、鼓膜に触れる空気のすらも聴こえてくる。
その不快感は3秒で全身の神経を逆撫で、1分も持たず発狂し始める人も珍しくない空間だ。
いつのまにか生身では決して立ち入ってはいけない場所にユリ達は立っていた。
「ひっ…いやっ――」
その不快感は魔女も等しく襲われる。
からんからん。
だが、響き続けるランタンの火種の音がその静寂を緩和させた。
「はぁっ、はああっ、はあはあ…ふう…」
一呼吸、一呼吸、しっかりとマテアナの支られながら息を整えたユリがその世界を望む。
辺りを包む闇に徐々に目が慣れていき、ランタンの灯以外にも周りの様子がかろうじて伺えた。
しかし、見えるものといってもわずかにきらめく川の水面や揺らめく影程度だが。
「実はな!うーんなんて言えばいいんだ?まあみりゃわかるか!おーいイヌッコロ!」
ウィスプがランタンを掲げると闊歩している影の一つが近づいてきた。
ランタンの灯の真下へいたる影、四足で地面を踏みしめ細く伸びた胴体、後ろには尻尾が揺れている。
「ダリタン…?」
ユリはその名を知っている。ユリはその影を知っている。
海中に佇み藻が茂む大岩の様に黒いモノが全身を纏い、生きている温もりもとうに失っているバケモノに見えても、ユリの目にはその真の姿が見えていた。
目などないその影は顔を左右に振り主人を探す、鼻も耳も機能していない影には主人を見つける術などないが、それでもいると信じて探している。
「ダリタン!」
屈んだユリはその体躯を抱きしめた。
纏っていた黒いものがユリの体にも巻きつこうと気にせず力強く抱きしめる。
「そいつな、頑固にずっと待っていたんだよ。オイラが家族が来るよりも魂枯れるのが先なんだから早くイケって言ってもな、それでも待っていたんだ」
「その子が弔われる時に君の父君が祈ったんだ、いつまでも見守ってくれとな。死者への祈りは魂においては重要だが、それでもここまで魂を保ち続けるのはごく稀だよ。とは言っても殆ど枯れかけていたのだが…君が家族に見せた夢の中にその子もいたのだろう?恐らくそれで立ち上がるまでになったんだ。およそ奇跡としか言いようがない。」
ヨルグがウィスプの言葉を捕捉する。
「ダリタンは三年前に亡くなったの…私が生まれてきた時からいる三つ歳上のお姉さんだもの…」
「キャキャキャ!なんだソイツ!妖精になってるじゃないカ!」
ロキの頭上からマーカジュラがその犬を指差し笑うが、ユリはその言葉を理解できずにいた。
「妖精ってのはヨルグやウィスプと同じ生と離れた存在さ。人の願いの形の一つさね、稀にこうやって生から妖精になる奴もいると聞いた事もあったが…私は初めて見るね。つまり、あんたの家族の願いをその犬…ダリタンもまた守り続け、そしてあんたが魔女になった事でその願いを叶えるために妖精へと変質したんだ。意味がわからないね」
お手上げだ、とジェスチャーも交えながらアテナは言う。
「だがヨ、ソイツもう限界だゼ?」
「そうなんだよ!どうしようかオイラ悩んでたら姫が早めに起きてくれて助かった!」
「え…どういう事ですか?」
「そいつなぁ、元々枯れかけていた所を妖精になったからな。別にオイラ達不死身というわけではないからな!いや、死はないが似た様なもので世界から消えてしまうんだ」
ユリが抱きしめる黒い犬は既に五感は無く、今なお目の前にいる主人すら気付けないでいる存在だ。
「そんな!そんなの…」
「だから姫に送ってもらいたくてな!今日はこの為に来てもらったんだ!」
ウィスプは軽やかに語る。
願い続け、待ち続けた忠犬に最後の祈りを持って送ってくれとそう告げたのだ。
「だがそれは妖精側の言い分さ。ユリ、君には二つの選択肢がある。一つはその子を彼岸へ送れる様にしてあげる、もう一つその子を君の使い魔として契約する事さ」
「使い魔?」
「使い魔は契約した主人の一部となってその名の通り使えるのさ。君と魂で繋がる事で、その子は存在を保てる。」
「アテナ!」
ウィスプがアテナの言葉を遮る。
「見ての通り、妖精からはそれが言えない。だから君が選ぶんだ」
「私が…ダリタン…」
うわ言のような囁きにも腕の中の犬は答えない。今なお誰かを探すように顔を振り続けている。
「――使い魔とはどうやって契約するのでしょうか」
意を決したユリがアテナを見据える。
「左手に魔力を込めて、私の言葉を続けな。もうユリにならできるだろう?」
アテナの左手の人差し指がユリの左手と黒き犬を触れると金色の線が繋がれた。
真っ白なユリの魔力が灯り始めると、ゆっくりと口を開く。
「――大地の紅は我が血潮。虚空に漂う銀の星、私が見上げた一点の星。」
「――大地の紅は我が血潮。虚空に漂う銀の星、わたしが見上げた一点の星。」
「流れ行く時の中、結ばれる我らの時間は等しくあり続ける」
「流れ行く時の中、結ばれるわれらの時間は等しくあり続ける」
「大地の息吹に我は等しく、私の鼓動は星々の一つ」
「大地の息吹に我は等しく、わたしの鼓動は星々の一つ」
「数多の輪廻、私はここに望む。」
「数多の輪廻、わたしはここに望む。」
「あの星を我が宿命と定めん、わたしの星の名は――」
「あの星を我が宿命とさだめん!わたしの星の名は――!」
「名は?」
その先を促すような視線をアテナから向けられ、一瞬目を丸くしたユリだったが深く息を吸って、その言葉を発する。
「――ダリタン!」
金色の糸が弾け、輝きの雨が犬の妖精を包み、黒く絡みついたものが徐々に姿を変えて行く。
艶やかな黒毛が伸び、細く締まった顔が姿を現した。
大型犬はその五感も取り戻し、主人の周りを三回ほど回ると尻尾を大きく振った。
再び少女は使い魔の体躯を強く抱き寄せると
――もう一人ぼっちにはしないよ――
死人が死を待つ場所で、ユリに家族が生まれた。




