『まだ明けず』
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――どちらかと言えば、多分、今までが夢で、目覚めた今はまさしく目が覚めたのでしょう。
二つ並んだベッドの上で目覚めた私は、そんな事を思った。
体は恐ろしいほど無力で、心はなにもなくなったかの様に無気力。
ただ、吸い込んだ空気が鼻の奥で音を立てているから生きてはいるのだろう。悲しいことに。
――血に染まり倒れたお父様の顔も、悲鳴をあげるお母様の声も、泣き叫んでいた妹が一瞬で沈黙した光景も、その一切が鮮明に思い出せる。
――しかし、思い出しても私の心は何も沸き立たない。昔、家族で見たアビレイ湖の水面の様に静かだ。
深く沈む身体を柔らかくシーツが包み、羽毛の掛け布団はしばらく見ていた夢とは違い、確かな温もりを持っていた。
顔は動いた。なので横を見た、私と同じくらいの男の子だろうか?隣のベットで髪から頰まで包帯に巻かれて寝ている。
パキン。ぱちぱちぱち。
部屋の空気は暖かく、薪の爆ぜる音で近くに暖炉があるのがわかった。
「おや、起きたのかい。自分の名前は言えるかな?」
再び天井を見上げると声がした、女性の声だ。そして私はこの声を知っている。
「――ユリ。ユリ・アムショラです。その声は死神の魔女さんですか?」
「記憶もはっきりしていそうだね。厳密に言えば、死神の知り合いを持つ魔女だよ。アテナと呼ばれてる」
「アテナさん…そうですか。」
名前など聞こうとどうでも良かった。そんなだから私は魔女になってしまったのかもしれない。
「君が特別な訳ではないよ、殆どの魔女が目覚めたらそうなる」
心を読まれたのか、私の言葉に何の感情もなかったか、どちらにせよやはり、どうでもいい。
アテナさんは私が眠るベッドの側に来ると、私の身体を起こした。
私の身体は人形になってしまったのか、されるがまま軽く上体だけが起きる。
天井しか見えなかった視界が流れ、目の前には隣の部屋で燃える暖炉が見えた。煌々と揺らめく炎が綺麗で魅了された私は、そのまま飛び込んでしまいたかった。
「スープ飲みな。お前の身体は思ってる以上に冷えている」
アテナさんはお母様の面影をどこか持っている人だった。私と同じ銀髪のお母様と違う夕焼けの色をしたオレンジの髪、瞳の色も違う、顔つきもお母様よりも若く見える。
だけど、それでも私はお母様の面影が重なって仕方がなかった。おそらく、今の私は誰を見てもそう思ってしまうのだろう。
アテナさんはスープカップと木製の匙を私に向けたが、人形になった私の腕は動かない。受け取ろうと思う心もなく、炎をただ見つめていた。
はぁ、とアテナさんのため息が聞こえたがどうでもい――
「ふっ⁉︎ふはっ、はふはふっ――!」
強引に口の中へ匙を押し込まれた。
――それは溶岩だったのではないだろうか?
熱い。熱い。燃える様に熱いものが私の体に落ちていく。
私の全てを焼き尽くしそうなそれはやはり、溶岩なのだろう。
腹の底から熱が湧き上がって来る。私の全てを巻き込みながら上ってきた熱は頭の中身をぐちゃぐちゃにした。
気付けば私はカップを手に、必死に匙を動かしていて、掬って含めば含むほど熱は上がって来る。
スープの味などわからない。ただひたすらしょっぱいスープだ。
私の手がどんどん濡れていく。こんなに熱いスープなら溢してしまったのなら気付きそうなものなのに、私の手は冷たい雫で濡れていく。
しょっぱいスープだ。ひたすら熱いスープだ。しかし人形の腕だった筈の私の手は止まらない。
私の瞳の熱は増すばかり。私の手はボタボタと垂れる何かで濡れていくばかり。
こんなに熱い目から溢れる涙は絵本の魔女見たく、冷たく滴るばかりだ。
――スープの味は何一つわからない。ただひたすらしょっぱかった。
「落ち着いたかい」
「ええ、ありがとうございます…アテナさん」
何一つ落ち着いてなどいなかった。布団も顔も手も涙で濡れて、顔の熱は一向になくならない。スープを飲む前の方が私はまだ落ち着いていた事でしょう。
それでも凍りついた私の身体は人並みの体温に戻った気がして、何より私はまだ解けても身体がなくなるほどは凍ってはいなかったのが可笑しかった。
「流石に固形物は消化に体力を使うから無し、飲み物であれば何でも欲しいものを言っておくれ」
「はい…あの、アテナさん」
「なんだい?」
二つ並んだベットの側に置かれたテーブルにアテナさんは座っている。
吊るされたランプの明かりの下、ティーカップと本が一冊置かれていた。
「私、不思議なんです。家族が殺されたのが鮮明に思い出せる、私がその時から何を思ったのかも思い出せます。なのに今の私はそれを他人事の様にさえ思えてしまいます。魔女になると心を失うと聞きますがそれはこういう事なのでしょうか?それとも氷の魔女とは違い、心はすでに凍ってしまっているのでしょうか?」
言葉が紡いだものではなく、ただたださっきの涙のように溢れただけのもの。
そんな私の言葉をアテナさんは真剣な眼差しで聴いてくれた。琥珀色の瞳がランプに照らされて金色に見えた。
「さあ。人の心など私には魔女になる前も後もわからない。」
あっさりと答えられた。酷い人だと思った。
「でもあんたには同じくらいよく分からないものがわかるのでは無いかい?」
「――魂…ですか?」
悪夢の後の夢、私は楽しくて楽しくて寂しい夢を見ていた。
いなくなった筈の家族と過ごす夢、それを見れたのは私が家族を縛り付けていたからこそだと分かる。わかってしまう。
その縛り付けたモノを私は魂と呼んだ。
「そう…なのだろうよ。あんたがそういうのなら。結晶魔術を扱う者自体が珍しいが、結晶魔術のみに長けた魔女は前例がない。あんたがそれ、【死霊魔術】と分類される魔術を持っている様にね。」
「死者を弄ぶ魔術とは悪い魔女にはぴったりでしょうね」
「おや、言葉に覚えがあるのかい」
「私のお父様は小さい頃に幼馴染の生来の病気を治してもらったそうで、書庫には魔女や魔術に関する本も沢山あり、私も昔から読んでいたので少しは…」
そうか…。と呟くアテナさんは優しく瞼を落としていて、思い出した。
幼い頃、毎晩枕元で絵本を読んでくれたお母様の私が物語に夢中で中々寝付かなかった時の顔にそっくり。
「その幼馴染というのがお母様だそうで、お父様はお酒に酔うといつも楽しそうに、そして嬉しそうに話していました。まぁ、そんな元気な体となっても斧の一振りで死んでしまったのですが」
左手の爪に浮かぶ模様を見ると、お母様の顔が浮かんでランプの揺らめきと共に消えてしまった。
「死んでしまった事を嘆くのは仕方ない。しかし、生きた事を悲しんではいけない――ものらしい。」
「え?」
「君は楽しい夢を見ただろう。あれは想像の産物ではない、誰かが欠けていたら存在し得な在りし日の夢だ。両親がいて、妹がいて、そして――君がいて成り立った夢だ。」
その言葉の意味を解らずにいた私は、次の言葉を待っていた。
「あんたのさっきの言葉を聞くとお母様が『魔女に救われた事すら』無意味だったとそう聞こえてしまう。魔女に救われたその命が君を産み、君のあの夢の時間を生んだのさ。――まぁ、この先の話は隣の部屋の魔女に聞けば沢山語ってくれるだろう。ただ一つ、君の持つ魔術は死骸を寄せ集める人形師でもなければ、怨恨を具現化するものでもない。君の魔術は医療魔術に分類されるものだと、それだけは言っておこう。」
「そうですか…」
酷く抽象的な言葉。聞こえたはずの言葉がよくわからない。
「一先ずは大人しく寝てな。」
ベットの側にアテナさんが来ると私の身体を寝かせた。その際まで私は中身の無くなったカップと木の匙を持っていたことを忘れていた。
それほどに私の頭は動いていなかったのです。




