『忘れられない、二度と手に入らない』
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夕食の声は時を忘れ続いている。
マーカジュラもロキの居る宿へ帰らせたアテナは一人酒瓶とグラスを手に近くの木の上でその屋敷を眺めていた。
愛用のグラスは持参したものでそれ以外の荷物はロキに宿へ運ばせた身軽な彼女は酒を注ぐと、酒瓶から手を離す。
そして酒瓶は真っ逆さまに地面へ落ちる――事もなく空中に佇む。栓の開いていない一本と手を離したばかりの瓶が寄り添いながら静止する。
憂う様な表情でその二本の瓶を一瞥すると、アテナは屋敷へ目を戻す。
「魔女になってどれくらいなのか、それすら怪しくなるほど生きても。大切だった何かをいくつも忘れ、時には捨て去り、自分を自分とする何かも削れた魔女でも――なぜあの暖かさは狂おしい程に思い出せるのだろうかね」
誰が答えるでもない呟きは夜風に流れ、世界にまどろむ。
「世界は残酷で、悲劇的で、呪わしい程だと魔女ならば思うだろう。だが、それは本当に世界から見れば飲み干したグラスに残る水分と同じくらいの極々一部だ。悲劇的ではなく、衝撃的でもなく、恐ろしく退屈なほど世界は平坦に思い、物語に一縷の憧れを持って死ぬのが圧倒的だろうさ。」
当たり前の日常も当たり前の幸せも無くなって初めてわかるのだ。それ故に、魔女の願いなど、魔女の苦しみなど到底普通の人間には理解ができない。
口が繋がって食事ができないと言うのなら理解は出来るだろうが、魔女が失うそれは酷く抽象的でやはり、当たり前すぎるものなのだ。
だからせめて魔女同士の繋がりを作り、古き者が新しき者を導く――それが魔女協会が存在する理由の一つ。
くっ、とグラスを返し中身を飲み干す。臓腑の底から脳天まで湧き上がる熱に体が揺らぐ。
「それでも、厳しくても、辛くても、幼くても、魔女として他者の還りを妨げてはいけないのだよ」
齢二桁になったばかりの、前例のないほどに若くても子供扱いは出来ない、同情もしてやれない。
魔女扱いをし、魔女として気持ちを組む以外にできる事もしてやれる事もないのだ。
結局の所、どんな理由があったとしてもそれを選んだ彼女の責任だから。
「――なんて、学院の教師なら物知り顔で言ってやれるのだろうがね。私には魔女としてのルールとか守らなくてはならない理由がわからないよ。他の魔女の立場危うくなり、埃かぶった歴史書にある魔女戦争が起こってはいけないからな。と、それを言われたところで当人が気にするものかね。魔女にまでなった人間なら尚更さ。」
ああ、本当、長く生きるのと精神の成熟は異なるものだね、なんて魔女アテナは自身を蔑む。
「私の場合は――ただただ気力がなかっただけか。」
恐ろしく情けない答えがしっくりきて乾いた笑いが溢れた。
失った家族を思う事も、世界を呪う事も、自分の事も、何もかも考えられずいたら若さという牙を失い、ただ生きるだけ生きてきた、と。
そう彼女は自分の人生をまとめ上げるとやはり他人事見たいな何の感情もない笑いが湧いていた。
「私は、悪い悪い魔女。極悪非道、人の心などとうに失った動く骸。そうさ。だから明日、私は彼女――ユリの夢をぶち壊し、暖かい眠りから冷たい現実へ叩き起こす。」
言い聞かせる様に呟くと、再び酒を注ぐ。グラス半分程で空瓶となった一本から手を離しもう一本の栓を開け、注いだ。
グラスを口に当て空を望む。散りばめた星々を眺め、屋敷から聞こえる声に耳を済ます。
星空の奥、まどろんだアテナの視界には二度と来ない『いつか』景色が重なって見えた。
「ロキは暖かくして眠っただろうか。うるさいって顔してもマーカのお喋りに付きあってしまうからなぁ、あの子は。」
胸が熱く熱く、鼓動が耳たぶまで揺らしているかの様にうるさい。
焼きついて離れない景色が、酷く眩く、うるさい。
「――ああ、ちきしょう。酔えないねえ。」
屋敷で揺らめく人影、暖かい声と濃い魔力の匂いが風に乗っていく。
夜風がアテナのオレンジの髪を揺らし、目元に当たると薄っすら水分を纏った。




