2 open your eyes
2 open your eyes
「おはよう。」
少女は声を出す。だが、返事は聞こえない。家には誰もいない。
少女は仏壇へと足を運ぶ。線香を焚き、鐘を鳴らして両手を合わせる。
「おはよう。ママ。」
少女の目からは涙があふれる。少女はその涙を拭いて、立ち上がる。
食卓にはラップに包まれた朝食がある。彼女の父親が用意したものだ。彼女の父親は朝早く出勤するので、顔を合わせるのは休日くらいだった。
自分は嫌われている。少女はそう思っていた。
母親が他界してから一年以上、彼女は日夜泣き続けた。声が枯れて、出せなくなるほどに。次第に父親がイライラしているのが見て分かった。でも、泣くことは止められなかった。悲しむことをやめると、母親が悲しむように思ったのだ。
しばらくして学校に通うようになった。だが、ふと母親のことを思い出すと、涙が出て止まらなかった。少女のクラスメイトは彼女を気味悪がった。それもそうだと彼女は思った。
そんなある日、少女はある男の人と出会う。そして、少女に一冊の本を渡した。
オズの魔法使い。
それは少女の探していた本とそっくりだった。母親がいつも読んでくれていた本。でも、いつの日か探しても見つからなくなったものだった。それがそっくりそのまま彼女のもとに帰ってきた。
魔法使いはいるんだ。
それから少女は魔法使いの存在を信じて疑わなかった。
少女は黄色い帽子を被り、赤いランドセルを背負って、玄関を出る。鍵はしっかりとかけた。
「行ってきます。」
返事が返ってこないのは分かっていても、少女は健気に文句を言ってのける。
「おいて行かれないように急がないと。」
少女は大きく鼻から息を噴き出し、走って道路を行く。
そして、広い路地に出た時だった。
目の前に自転車が現れた。轢かれる。そう思ったとき、自転車は間一髪で動きを止める。
「死ぬかと思った。」
自転車の運転手は苦しそうに言った。
「ごめんなさい。」
少女は頭を下げて謝る。
「いや、いいってことよ。」
顔を上げた少女は男の胸に名札がついていることに気が付いた。
「おじちゃん。まほちゃんと同じで何かついてる。」
「え?どういうこと?」
男は急な言葉に驚いていた。少女は申し訳なく思ってしまった。
「というか、おじちゃんって歳じゃないから。そりゃまあ、ひげ剃ってないから、老けて見えるけどさ。で、俺に何が憑いてるって?イヌガミとか?」
「う、ううん。なんでもない。」
少女は男に一礼した後、急いで小学生の列に加わる。
男の胸の名札には、幼い文字で『ぶれーどらんなー』と書かれていた。
「冥。」
「何?」
少女は名前を呼ばれて、小さく返事をする。少女は『オズの魔法使い』を読んでいた。
呼びかけた男子が少女の読んでいた本を取り上げる。
「止めて。」
「お前、ずっと同じの読んでるな。どれどれ?」
冥は本を取り返そうとするが、体の大きな男子に勝てそうにない。
「返して。返してよ。」
冥の目から涙がこぼれる。もう、絶対に手放したくなかった。大事な思い出を。ふとした瞬間忘れそうになる自分の母親の温もりを。
「こら。真咲さんをいじめちゃダメでしょう?ほら、さっさと席につく。」
担任が教室に入ってきて注意する。男子の冥に対する仕打ちをそれほど重く感じていない証拠だった。男子は面白くなさそうに本を乱暴に冥の机に置く。冥は急いで本を抱きしめる。
冥は学校が嫌いだった。勉強は好きだったが、学校には冥の味方は誰一人としていない。だから、味方を求めていた。ドロシーを助けてくれる魔法使いのような存在を。
小学校で冥はすっと一人だった。同年代の女の子の友達はいない。話しかけてくるのは、悪意を持った、男の子ばかりであった。
どうしてみんな自分をいじめるのだろう、と冥は暗く沈みながら思った。みんな仲良くハッピーエンドで終わる物語は結局のところ物語でしかないのか、と。
物語じゃない現実なんかいらない。
担任はみんなで帰るように、と児童に言った。冥は最近起きた事件のせいだろうと考えた。冥は夜遅く帰ってくる父親が心配だった。母親を失い、父親まで失ってしまったら、どうなるだろう。自分自身の境遇に対し、恐怖した。
小学生の帰宅は早い。まだ、空は青空だった。でも、冥は帰ったところで家には誰もいない。帰宅するように言われていても、暇で暇で仕方がなかった。だから、空き地で暇を潰す。
事件現場になったはずの空き地は、以前と少しも変わっていなかった。まるで、怖い事なんか夢でしかないというように。
冥は空き地でずっと本を読んでいた。読む本はいつも『オズの魔法使い』。もう、何度も呼んで一言一句覚えているけれど、冥は母親の声を思い出すようにずっとずっと読んでいた。
誰かが通るのが分かって、冥は土管の影に隠れた。男の子たちであれば、冥をいじめるだろうし、上級生であれば、追い出されてしまう。だから、隠れて様子を窺った。
「まほちゃん!」
冥は通りすがった男の子を見て、飛び出した。その男の子は冥が魔法使いだと仰ぐ人物だった。
「お前は、あの時の――」
男の子は驚いた顔をする。そして、冥は何故だか嬉しくなって、体を揺らしている。こんな気持ちになるのは一年前依頼だった。
「私、冥って言うの。今日はどんな困っている人を助けに行くの?まほちゃん。」
「いや、俺はまほちゃんって名前じゃないけど。」
男の子が俺、なんて言うのは似合わないと冥は思った。男の子の甲高い声は、俺、なんてきざったらしい口調よりもっと可愛げのある言い方をした方がいいと思ったのだ。
「それと、俺は人助けなんかしない。人助けはその人のためにならない。人は自分の足で歩かないと。」
「なんだか難しいね。」
冥は自分に理解出来ないことなので、考えるのをやめた。
「でも、まほちゃんは魔法使いでしょう?なんでもできるじゃない。」
冥は男の子が魔法を使って夜空に浮かんでいるのを見たことがあった。それは遠い昔のようなことなのに、つい最近なのだから、冥は驚いてしまう。
「俺は魔法なんて大層なものは使えない。せいぜい発電所にしかならないって言われたよ。」
何事もなく男の子は言っているのに、冥は何故だか心に寒い風が吹いたような感覚を覚える。
ふと、男の子の胸に幼稚園児のような名札が付いているのが目に付く。そこには『くらふとわーく』と書かれていた。
「くらふとわーく?」
聞き覚えのない言葉に冥は首を傾げる。
「どうしてその名前を。」
男の子の顔が、急に怖くなる。まるで、冥の命を狙っているかのように冥は感じ、思わず後ろずさってしまう。
「その、まほちゃんの胸に名札がついてて。そう書いてあって。今日の朝にも同じような人がいたの。それで・・・」
冥は言い訳をするように言葉を紡ぐ。泣き出してしまいそうだった。
「俺の胸に名札なんか付いていない。今朝会ったのはどんな奴だ。まさか――」
そんな時であった。
「よう。」
タイミングを見計らったようにその人物が現れたので、冥は思わず縮こまってしまう。
「この人だよ、まほちゃん。」
冥は震える声で小さく呟く。
男の子は冥の前に立ちふさがるように男を睨んでいた。
「貴様、何者だ。統括センターのものか。」
急に何歳も大人になったように男の子が言うので、冥は男の子をじっと見てしまう。だが、男に立ちふさがっているので、顔は見えなかった。
「おいおい、その名前を易々と言葉にするもんじゃないぜ。No.3。」
男はまるで同級生に話すように男の子に話しかけていた。
「何故、その名を知っている。」
「そうか。俺とお前は入れ違いだったか。そうだな。俺もお前の顔は資料でしか見たことがない。俺はNo.39。お前の前任でな。ああ、逃げ出したお前を追ってきたんじゃない。それは俺の仕事でもないしな。今のところは。ちょっとその嬢ちゃんに妙なことを言われたんで、気になって声をかけただけだ。野暮なことをして済まなかったな。」
そう言って男は自転車を押して去っていこうとした。それを男の子が引き留めた。
「お前らは一体何を企んでいる。」
「俺が知るかよ。俺たちは詳しい事なんて何一つ知らされないだろ。あの教室がいい例だ。ちなみに、今の俺の仕事はゴミ捨てだ。」
男の子は男が去っていくまでじっと男の背中を睨んでいた。
「さっきの男はなんだ?」
そう言われても冥に答えることなどできない。
「ぶれーどらんなーって書いてあった。」
「なるほどな。なるほど・・・」
男の子はじっと考え込んでいた。
「俺は今からおつかいに行く。お前もついて来い。」
「いいけど・・・」
「いいな。それと、今日は帰ってから用心しろ。何か危ないことがあったらすぐに逃げるんだ。」
男の子はそれだけ言うと冥を置いて行ってしまいそうになるので、冥は急いで後を追った。
冥が男のこと並んで商店街を歩いている時、冥はなんだか気が気ではなかった。自分でも分からない体のどこかが自分から飛んで行ってしまいそうで、この初めての感覚に冥自身、戸惑いを隠せなかった。
「おっちゃん。ジャガイモ五つ。なるべく大きいので。」
「あいよ。」
男の子は慣れた様子で買い物をしていた。冥は同年代の男の子が大人のように振舞っているのを見て、感動してしまう。
「さて。今日は何を作るんだい?」
「当ててみてよ。」
男の子は冥に見せたことのない笑顔を八百屋の親父に見せる。
「そうさな・・・肉じゃがかな?」
「それなら、他の野菜もいるだろうよ。ニンジンとかね。ポテトサラダだろう?」
「正解。」
奥から八百屋の女将が口を挟む。
「なるほど。他には要らないかい?」
「そうだね。今のところは。でも、キャベツはちょっと気になる。レタスもいい具合だ。」
「流石、しーちゃん。日に日に目が良くなってきてる。こいつらは今が旬だからね。それも知り合いの農家から買い取ってる。まあ、ここらは農薬をあんまり使ってないから、見栄えは悪いし、大きくもないが。でも、生きは保証するぜ。」
「少し惜しいな。またの機会・・・にするよ・・・」
男の子は本当に名残惜しそうに八百屋を後にする。
「すごいね。おつかいなんて。」
冥の心は弾んでいた。
「お金を払えばみんな平等さ。例えガキでも一人前に接してくれる。」
男の子が素っ気なく言うので、冥は男の子が自分のことを嫌いなんだと思った。
突然、男の子が警戒して、後ろを振り向く。冥の目の前には何者かが迫っていた。
「しーちゃん!どふっ。」
女の人が見事にこけた。
「避けるなんてひどいよ!」
「はなが突然飛び掛かってくるからだ。」
「むうぅ。バカ!」
そう言って女の人は素早く男の子の後ろに回り込み、男の子を抱きしめる。制服から見て、中学生であることが冥には分かった。
「むふふ。顎の置き心地が最高ですなぁ。ん?しーちゃんのボーイフレンド仮?」
「なんだかいろんな要素が混じり過ぎてる。ただの知り合い。」
中学生の女の人は、男の子を思いっきり抱きしめる。男の子は本気で苦しんでいた。
「お友達を知り合いだなんて言っちゃダメ。折角初めてできたお友達なんだから。」
「は、はな。頼む。頼むから離せ。いくら俺でも死ぬ。死にきれないかもしれないけど、死ぬから。」
「もう、しーちゃんは大袈裟だなあ。」
中学生は男の子を解放する。そして、冥の方を見る。
「私、花田はな。あなたの名前は?」
「真咲冥です。」
「冥ちゃん!」
はなは冥にも飛びつき、抱きしめる。
「幼女ぺろぺろ。」
「往来でやめんか!」
男の子ははなを殴る。
「痛いよ。私、乙女?だよ!ちょっと手加減しないと。」
「そのクエスチョンマークはなんだ。お前、意味を理解してないな?」
「そんなことないもん。多分、なんかすごいものだよ。目からビームとか出せちゃうくらいに。」
「改造人間でもそれは無理だ。」
男の子は呆れたように大きく息を吐いた。冥ははなと男の子のやり取りを見て、なんだか一人だけ取り残されたような疎外感を覚えていた。
「今日は何かな?」
「ポテサラ。」
「もう、言わないでよ。でも、好きだからいいや。」
「また太るぞ。」
「またって何?またって。育ち盛り?だからいいもん!」
「また意味が分かってないな。」
冥は自分の首元に当たる圧の感触をもって、考えた。きっと、体重はここに仕舞われているのだろうと。
「あの、そろそろ離していただけると・・・」
「ああ!ごめん?ね?」
もしかして、三歩歩くと何もかも忘れてしまう人なんじゃないかと冥は思った。
「冥。晩飯はどうするんだ?」
冥はしばらくぼーっとしていた。自分の名前を男の子に呼ばれて、思考が固まってしまったのだ。
「おーい。お茶。」
「はっ。何だったっけ。」
「ご飯どうするのかって。」
なんだか大人の会話みたい、と冥はドキドキする反面、抵抗を覚えていたりした。
「一人だけど。多分、どこかで買わないと。」
「じゃあ、うちで食べない?」
冥を解放したはなは少ししゃがんで、冥の顔を覗き込む。冥は無意識にこの人はいい人だと思った。
「そうだな。親御さんには後で連絡するべきだろう。」
「でも、夜遅くじゃないと帰ってこないよ。」
「事態が事態だから、なるべく一人にしたくないが・・・まあ、仕方がない。別に食べるくらいはいいだろう?」
冥は戸惑っていた。今まで話したこともあまりなかった男の子の家で食事を頂くなんて、それは、もう、何と言うか、急過ぎて・・・
「よろしくお願いいたします。」
冥は深く頭を下げていた。
男の子の家庭は典型的な、それでいて最も理想的で幸福な家庭だった。食卓にははなと男の子、そして、両親が座っている。冥もお邪魔させてもらっていた。
「しーちゃんのお友達だなんて!今日は記念日にしましょう。しーちゃん記念日。」
「ママ。何をサラダ記念日みたいに言ってるんだ。そして、若いころの悪い癖――」
「あら、あなた。あれを悪い癖だと思ってたの?」
「いや、いいや。そんなことないともさでごるでやんすよ。」
あからさまに動揺している父親を見て、冥は笑ってしまった。
「あまり豪勢じゃないけど、ゆっくりしていってね。」
食卓にはポテトサラダと焼き魚が並んでいた。それは冥にとって新鮮だった。いつものお惣菜とは違う、手作り。
「とっても美味しそうです。いただきます!」
冥は手を合わせていただきますをした。そして、ポテトサラダを一口口に運ぶ。それはコンビニの総菜とは違って、少し塩っ辛い、でも、美味しい味がした。
ふと、冥の目から涙がこぼれる。
「どうしたの?冥ちゃん。」
はなが心配そうに冥を見つめる。はなの両親も同様だった。
「いえ。大丈夫です。美味しくって・・・」
冥は悲しくて泣いたのではなかった。かといって、嬉しくて泣いたのとも違う。
冥の記憶にあるのは、いつも病室にいる母親だった。家に帰ってきたのも何度かしかない。冥は母親の食事を知らなかった。ポテトサラダを口に運んだ時、初めて母親の味を知った気がして――
冥は涙を拭く。みんなを心配させてはいけない。そんな気持ちになったのは初めてだった。
「いやあ、泣いちゃうほどおいしいかな、これ?」
はなは不思議そうにポテトサラダを口に運んで考え込む。
男の子は冥の姿を横目に観察しているだけだった。
「ダメよ。子どもだけで夜道を歩いちゃ。」
はなの母親ははなと男の子に言う。
「大丈夫だよ、ママ。余計なヤツが来るから。」
男の子が言ったとき、玄関のチャイムが鳴る。男の子は玄関を開ける。そこには髪の毛を金色に染めた、まだ中学生くらいの男の子が立っていた。
「あら。慶くん。」
母親は驚いたように言う。
「ね?大丈夫でしょう?」
男の子は悪戯っぽく言う。
「まあ、それだけ大勢だと・・・でも、ね。」
「まあ、いいじゃないか。」
父親は玄関に出てきて言う。
「あなたはいっつもそう無責任な――」
「しーちゃんも慶くんも男だ。大人以前にね。だから、大丈夫。」
自信に満ちた声で父親は言った。
「分かった。でも、寄り道はダメよ。ごめんね、慶くん。何かあったら大声で叫ぶのよ。」
「分かりました。」
金髪の少年は恭しく頭を下げる。しかし、冥は金髪の男が怖かった。
「さあ、れっつごー!ですよ!」
「遠足じゃないんだからね。」
母親は呆れたように言った。
「あれ?静ちゃんもいるんだ。」
「ええ。」
慶の影に隠れて、一人の利発そうな少女がいた。髪は長く、艶やかだった。
「はなセンサーがビビット来たの。男のの匂いがしてね。」
「うん?まあ、いっか。さあ、行こう!」
はなを先頭に冥の家に向かう。
「あの・・・方向逆です・・・」
冥は申し訳なさそうに呟いた。
「うん。そうだと思ってた。」
はなは底抜けの明るさで方向転換をする。そんなはなを冥は羨ましく思った。自分であれば、恥ずかしさで声も出せない。
「でも、ここ最近ここも物騒だから、はなのママが心配するのも分かるわ。」
静は溜息を吐きながら言った。
「大丈夫。かつての危機は去った。新たな危機が迫るかもしれないが、迫らないかもしれない。」
男の子が難しい言葉を言う。
「ふん。なにを偉ぶって。というか、これが噂に聞くしーちゃんなのね。」
静は男の子をきっと睨む。
「ただのガキだと思ってたけど、やっぱり、はなに男が近づくのは解せない。」
男の子と静は火花を散らす。
「何やってんだろう。」
「さあ。」
慶と冥は顔を見合わせていた。
家は真っ暗だった。誰もいる気配はない。冥はそれが怖くなって電気を点ける。部屋には誰もいない。何故だか、誰もいないことに安心を覚える冥がいた。
「お風呂に行って、早く寝ようっと。」
そこで、冥はお風呂を沸かしていないことに気が付く。
「お父さんが帰ってくるまでに沸かしておかないと。」
冥は急いでお風呂を掃除し、お湯を沸かした。
翌朝。冥は仏壇に向かって手を合わせた後、朝食を採って、家を出る。昨日のように危ないことのないように冥は中止して歩いていった。歩きながら、小学校に行きたくないと気持ちを暗くする。
どうしてあの子は学校に行かないのだろう。
別の小学校に通っているのかもしれない。だが、その可能性があるのは鳳学園だけで、その学園は全寮制である。なれば、別の学年――という可能性も潰える。それなれば、同じ通学路で出会ってもいいはずである。
冥はあの不思議な男の子がいてくれれば、まだ学校は楽しくなるかもしれない、などと思っていた。
「あれ?」
冥は何かが気にかかって、暗い路地に目を向ける。そこには一人の女の人がいた。帽子を深くかぶって、姿は見えない。だが、何かがおかしい。この時間に電気メーターの確認をしているということもあるが、服装が、ラメ入りのスリムジーンズに、黒い、蝶の柄をピンクのラメで表したTシャツ。そのTシャツは半袖だった。
それだ、と冥は分かった。まだ日陰は肌寒いというのに、その女の人は半袖である。そして、少しも寒そうなそぶりを見せていない。
そして、胸には名札。
「名札?」
それと類似したものを冥は何度か見た。それは魔法使いの証なのだ。自分の胸にはついていない、力の証。
「あんすとっぱぶる?」
思わず冥は声に出していた。冥に気が付いた女の人は、驚いた顔をして、冥を見る。冥は弁明気味に女の人に向けて言った。
「おばちゃんもまほちゃんと一緒なの?」
今まで会った魔法使いは悪い人たちではなかった。あの男の人も男の子と仲は良くなさそうだったが、別に悪いことをする人じゃない。
「同じってどういうことなのかな?それと無抵抗ってどういうこと?」
女の人は冥に視線を合わせるように屈んで言った。笑顔で言ってくるので、冥は悪い人でないと判断する。
「わかんない。おばちゃんの胸のあたりに変なお札があるの。そこにあんすとっぱぶるって書いてあるから。」
それでも、少し女の人の機嫌を窺うように冥は呟く。
「そうなの。あと、私はおばちゃんって歳じゃないからね。まだ大学生くらいだからね。」
冥は逃げ出した。どうして自分が逃げ出したのか分からない。でも、この場にいたらなんだか危ないような気がした。
「天然能力者ということかしら。超自然的なのにね。でも、あのガキを放っておいたら、私たちの脅威になる。それと、おばちゃんって言ったこと、許さないから。」
アンストッパブルの声は誰にも届かない。
憂鬱な時間だった。何もかも、現実味を帯びていて、冥には刺激が強過ぎる。彼女は結局のところ、現実の迫りくる波というものに対処しきれていないのだろう。
物語の世界を夢見た少女は、物語の登場人物のような男の子に期待をしていた。この億劫な世界を変えてくれるのだと信じた。そして、実際のところ、それは冥が男の子と接している瞬間だけ叶えられる、シンデレラのような儚い物語であった。
「先生さようなら。」
「はい、さようなら。早く帰るのよ。」
でも、早く帰る小学生も少ないことを冥は知っていた。半数以上が塾に通っていて、夜遅くに帰宅する。数日前、事件が起きても親は塾に通わせているのを知って、怖くないのかな、と冥は不思議に思った。小学生が危険にさらされるのももちろんだが、親たちは子どもが危険にさらされれるということが怖くないのか、と冥は子どもながら大人の心境について考える。そして、出てきた答えは、きっと親たちは誰かを失う怖さを知らないからだというものだった。
どこに子どもが危険にさらされて不安にならない親がいるか。あえて危険にさらす親がいるものか。それは休日のワイドショーで刑事さんが言っていたことだった。それも結局は物語。そして、現実は少し違うことも冥は知っている。恐らく、その年で冥ほど現実と物語の齟齬を感じている少女はいないのではないだろうか。
誰かを失うのはとっても怖い。テレビでドラマで誰かが死んだシーンを見て、冥は立ち直れなくなりそうだった。それは自分が弱いからだ、と冥は自分を貶めるが、それでいて、強くなれないし、強くなろうとしない。自分を助けてくれる存在を彼女は欲している。それが魔法使い。だが、それは致し方ないことではないだろうか。冥と同じ境遇の子どもはたくさんいて、冥ほど弱気になっていないかもしれない。だが、冥はそんな子たちより勇気がないのだ。小学生に負わせるには、その現実は確かに重すぎる。
「ああ。今日もまほちゃんに会えたらな。」
ランドセルを置いたら男の子を探しに行こう、と冥は決めていた。
そんな折、地面が凍っているかのように滑り、ランドセルの重心が傾いている後ろに冥はこけてしまう。
「痛い。」
冥に外傷ない。だが、思った以上に勢いよく転がってしまって、冥は灰の中の空気を勢いよく吐き出してしまった。普通に転んだ方が良かったのかもしれない、などと思いつつ、自分の膝小僧が赤く染まっている光景を連想して、頭を振る。
ふと、背後に誰かが立っていた。冥は背後を振り返る。
「あれ?まほちゃんのお友達?」
何故だか嬉しくなって、冥は男に笑顔を向けた。
「何してるの。早くやりなさい。」
どこかで聞いた声。でも、冥は思い出せない
「すまねえ。俺、無理だわ。」
そう言うと、冥の視界は大きく揺れる。少し経ってから、自分は男に抱え込まれて走っていることに気が付いた。男は地面を滑るように駆けて行く。




