1 blade runner
刃の上を歩く者
「おじいさん。魔法使いなの?」
少女は魔法使いと名乗った黒い衣装の老人を前に目を輝かせる。
「キミは今回、何を望んだのかな?ずっと怖がってばかりだったキミがどうして前に進もうと思ったのか、ボクは知りたいんだ。」
子どものような口調なので、少女はおかしな老人だという感想を抱く。
「私は、多分、ずっと止まっていたかったんだと、思います。ずっと、忘れたくなかったから。」
少女はそれが答えなのか自分でも分かっていなかった。でも、口から出た言葉はしっかりとした口調だった。
「そうか。」
「きっと、私は前に進む人を見て、それで、前に進もうって、そう思ったんです。だから――」
「でも、どうかな?彼らはただ単に誰かに追い立てられていただけかもしれない。終わりのないどこまでも滑っていく刃の上を進んでいただけかもしれない。キミはそれでも彼らのように進んでいくというのかい?」
道化のように、お道化て恐ろしい、という声色で老人は言った。
「どうしておじいさんは悲しそうなの?」
老人は突然投げかけられた言葉に驚く。老人が少女に目に見えない何かを見つけた瞬間だった。
「そうだね。ボクは大切な仕事仲間、いや、トモダチを失ってしまった。だから、悲しいんだろうね。」
老人は極めて明るく少女に告げる。
「かわいそう・・・」
少女は弱気な声でそう呟いた。
「そうだ。ボクからキミにプレゼントをあげよう。話に付き合ってくれたお礼だ。」
老人は皺だらけの手を少女の目の前にかざした。
「これできっとキミは、もう大丈夫。新しい道を、刃の上のような危険な道を歩くことを決めたキミには、もう、要らないだろうから。」
「おーい、何してんだ!」
少女は少年の声に振り向く。少女が大好きな少年の声だった。
少女は老人を振り返った。
そこにはもう老人はおらず、ただ、老人の残していった、年齢に似合わない寂しさだけが残滓のように残っているように少女には思えた。
1 blade runner
薄暗い更衣室の中は蒸し暑かった。
「お疲れ。」
「お疲れ様です。」
城崎工兵はバイトの先輩に挨拶をする。
「いやあ、前のバイトが急に辞めちゃって、どうしようかと思ってたんだ。そしたら、筋のいいあんたが来てくれた。あんた、どっかで似たような仕事してたのかい?」
「いえ。こういうのは初めてです。」
「そうか。その割にはガタイがしっかりしてる。」
先輩は工兵の肩を勢いよく叩く。工兵は叩かれたところにひりひりと痛みを感じた。
「このテーマパーク、いつできるんですか?」
工兵は日焼けの後のようにデリケートに肩をさすりながら、先輩に聞く。
「来年オープンだってよ。順調に行けばな。」
「でも、名前がスリラーパークって。なんだか子ども受けしない気がしますけど。」
「マイケル・ジャクソンのスリラーを思い出したか?まあ、あの年は忘年会はスリラーのものまねばっかになったからな。」
「すいません。年代じゃないんで。」
「なんと!俺ももうおじさんか!」
はっはっは、と先輩は更衣室に響く声で笑い飛ばす。
「じゃあ、俺はここで。」
「次はいつ来るんだ?」
「三日後ですね。」
「よろしくな。何も言わないでやめるんじゃねえぞ。」
先輩は笑顔で言っていたが、工兵には半分本気であるように聞こえた。
工兵は更衣室を出て、かつて別のテーマパークとして開業していた建物の門をくぐって外に出る。今は全体的にシートが被せられている。
「わあ、ブレードランナー。こんなところで働いてるってホントだったんだ!」
工兵の前に少女が躍り出る。
「なんだ。No.17か。」
「そんな名前で呼ばないでほしいですよ。私の名前はP3。もう、れっきとした名前があるんんだから、そっちで呼んでほしいです。」
「じゃあ、P3。俺の名前は城崎工兵だ。その名前で呼ぶんじゃない。」
そう言って工兵は少女を押しのける。
「もう。折角いいこと教えてあげようと思ったですのに。」
「なんだ?」
工兵はめんどくさそうに答える。
「どうも卒業生が暴れてるみたい。今日あたり、あなたに連絡が来るかもです。」
「落第生の間違いだろ?」
工兵は鼻を鳴らして言う。
「お前がやればいいじゃないか。」
「私の力はそういうのに向かないってあなた、知ってるです。私は殲滅用です。」
「今一使いどころがなくって暇なのか。バイトでもしろ。」
「フリーターに言われたくないですよ。」
工兵は坂を降りていった。
工兵が住んでいるのはアパートの一部屋であった。四畳半にはこたつと、無数のマンガ本が積み上げられている。工兵は適当にスペースを見つけて寝転びながら、ぼーっとしていた。そして、そのうち眠たくなり、瞼を閉じた。
携帯の着信音で目を覚ます。工兵は腹が減っていた。
「はい、もしもし。」
誰から来たのかは少女との会話で大方見当がついていたので、面倒で仕方なく、工兵は大きくため息を吐く。
「やあ、元気かい?ブレードランナー。」
「お仕事でしょうか。」
「ああ。座標を送ったところに今すぐ来てくれるかな?寄り道は無しだ。腹が減ったからってコンビニによってはダメだよ?」
「分かりました。」
翔の方か、ついてないな、と工兵は肩を落とす。
「さあ、いっちょ本業を頑張りますか!」
窓から暗くなった空を見て、工兵は大きく伸びをした。
工兵は人通りのない町中をすいすいと泳ぐように駆け抜ける。それははた目から見れば異常な光景だった。路面は凍ってもいないのに、工兵はスケートリンクのように少ない歩数で滑るように走っている。見る人が見れば、靴に小型のローラーが付いているように見えるだろう。
だが、違った。
彼の足と地面との間には少し隙間が空いており、そこには何もない。つまり、少し宙に浮いているように見える。だが、実は、目に見えない刃で路面を走っているのだ。
この能力にちなんで彼はある組織で刃の上を歩く者と呼ばれていた。
「どうですか。遅刻はしてないと思いますが。」
工兵は目の前の二人の男に言う。一人は眼鏡をかけた、体の線の細い男で、もう一人は、中学校の制服を着た少年だった。そして、二人の足元には死体が転がっている。
「ああ。十分だ。何をすればいいのかはわかるね。」
「ええ。分かりますが、ゴミの処理はなるべくしたくないので、あまり人を殺さないでくれますか?」
死体は頭から血を流していた。すでに出血は止まり、血は赤黒く結晶化している。
「僕もこういうことはしたくないんだが、局長のご意向でね。」
眼鏡の男は工兵にゴミ袋を出す。燃えるゴミの袋だった。
「死体は生ごみじゃないんですか?」
「生ごみってのは埋め立てるんだ。人は死んだら焼くだろ?だから、燃えるゴミ。」
「分かりました。」
そんな二人の様子を少年はじっと黙ってみている。
「このガキはどうするんですか?」
「ガキとは大層な言われ方だな。」
少年は口を開く。その瞬間、工兵はこの少年に敵わないと悟った。
「ああ、彼はあのジーン・ジーニアスだよ。名前くらいは聞いたことあるだろ?」
「あの伝説の第一期生ですか。」
「その名で呼ぶな。」
「すいません。」
工兵は自然と少年に頭を下げていた。
「さあ、早くしてくれ。でないと他の人が来てしまう。まだ、人が出歩いていてもおかしくない時間だからね。」
メガネの男に言われた工兵は死体に手をかざす。それだけで、死体は見えない鋭い刃によって、バラバラに切断される。
「処分は君に任せるよ。どうせそこらに捨てたからって、問題はないんだけど。」
「では。」
工兵は死体の欠片を素手で触って、ゴミ袋に入れる。この作業は初めてではないので、慣れたものだった。
工兵は立ち去り、ゴミ袋を手に持って、廃工場の前まで来る。そして、そこに死体を放り投げた。
「臭いでバレれば面倒なことになるな。誰かに罪をかぶせるか・・・」
どうするべきか考えながら、工兵はもう今日は寝ることにした。
工兵は朝からずっと自転車を走らせていた。大学卒業後からの彼の職業はない。つまり、フリーターであり、バイトのない日はただ暇を持て余すだけであった。
自転車を走らせ、風を感じていると、子どもたちの声が聞こえる。工兵は子どもたちが列をなして歩いている脇を注意しながら通り抜ける。
工兵は急ブレーキをかけた。横道から女の子が飛び出してきたのだ。赤いランドセルに黄色いキャップ。典型的な小学生という感じであった。
「ごめんなさい。」
「いや、いいってことよ。」
そう言いながら、工兵は内心、バクバク言う心臓を治めようと努力していた。
「おじちゃん。まほちゃんと同じで何かついてる。」
「え?どういうこと?」
見るからに内気そうな小学生にそう言われて工兵はドキッとする。
「というか、おじちゃんって歳じゃないから。そりゃまあ、ひげ剃ってないから、老けて見えるけどさ。で、俺に何が憑いてるって?イヌガミとか?」
「う、ううん。なんでもない。」
そう言って少女は工兵に背を向け、小学生の列に戻っていく。
「不思議な子だな。」
工兵は自転車から降り、自転車を手で押しながら進むことにした。本気で小学生を殺してしまったかと思ったのだ。
工兵は川沿いを走っていた。ずっと長く、真っ直ぐ走れる。もうすぐ町を一周してしまいそうだったから、ちょうどいい、と工兵は思っていた。
ふと景色を見ると、赤いジャンパーを着た、おかしな男がいることに気が付く。ジャンパーは薄汚れていて、髪も汚らしい。ホームレスのようだった。工兵は男を無視して通り過ぎる。通り過ぎた後、ジャンパーの男と工兵は互いに振り向く。
「お前、どこかで会ったな。」
「鏡の国で一緒に戦いでもしたか?」
「微妙な仮面ライダーネタ。お前、城崎だな。」
「もしかして、菊池?」
工兵は変わり果てた高校の同級生と再会した。
「お前、何やってるんだよ。」
「見ての通り、フリーターだ。お前は――」
「見ての通り、ホームレスだ。」
「何があったんだよ。」
「いや、大学で没落してさ。今は家さえない状況だ。」
「それは――」
工兵の記憶する限りでは、菊池は優等生だったはずだ。だから、工兵は目の前の光景がにわかに信じられなかった。
「高校の途中で突然転校するから、みんな心配してたんだぞ。」
「いや、親の都合で急に転校になっちまって・・・」
「・・・・・」
「・・・・・・・・」
互いに話すことが無くなり、沈黙する。それほど仲が良いわけでなく、むしろ、互いの名前を思い出せたことが奇跡だったのだ。
「すまねえ。俺、サイクリングに戻るわ。」
「俺も空き缶拾いに戻る。」
「じゃあな。」
「ああ。」
なんだかシュール過ぎて、工兵は自転車を走らせながら、しばらく思考を停止していた。そして、いいアイデアを閃く。
「あいつに処分させればいいんだ。」
きっとはした金でも引き受けてくれるだろう。中身が何かを知らせなければい。それは妙案な気がして、工兵はいい気分でサイクリングを続けた。
空が橙色に染まり始めたので、工兵は帰ることに決めた。だが、町はほとんど一周してしまっているので、方向転換する必要はなく、そのままアパートまで走る。
その途中、空き地に見知った姿が入って行くのを工兵は見た。
「今朝のガキだな。」
何かが憑いてるという不気味な話をされたので、工兵は少し気になって空地を覗く。そこには少女と一人の少年がいた。背丈は少女と同じくらいなので、年齢もそれほど変わりはしないだろう。
「よう。」
工兵は二人に声をかけていた。
「この人だよ、まほちゃん。」
少女は恐れるように工兵を上目遣いで眺める。そんな少女を守るように少年は立ちはだかる。
「貴様、何者だ。統括センターのものか。」
「おいおい、その名前を易々と言葉にするもんじゃないぜ。No.3。」
「何故、その名を知っている。」
少年は動揺を見せる。態度は平然を装っているものの、顔が少し歪んでいる。まだまだ青いな、と工兵は思った。
「そうか。俺とお前は入れ違いだったか。そうだな。俺もお前の顔は資料でしか見たことがない。」
工兵は知り合いに話すように親し気に話していた。だが、少年少女は警戒していて、工兵はこの場を客観的に見て、なかなか滑稽だと思っていた。
「俺はNo.39。お前の前任でな。ああ、逃げ出したお前を追ってきたんじゃない。それは俺の仕事でもないしな。今のところは。ちょっとその嬢ちゃんに妙なことを言われたんで、気になって声をかけただけだ。野暮なことをして済まなかったな。」
工兵は少年たちをいじめているような気分になったので、嫌になり、自転車を押して帰ろうとした。
「待て。」
少年が工兵を引き留める。
「お前らは一体何を企んでいる。」
「俺が知るかよ。俺たちは詳しい事なんて何一つ知らされないだろ。あの教室がいい例だ。ちなみに、今の俺の仕事はゴミ捨てだ。」
工兵は肩をすくめた後、歩き出す。
工兵はこの仕事が好きでなかった。
「もしもし、俺ですが。」
「なんだ、ブレードランナー。」
「例の死体ですけど――」
「君に一任したはずだ。好きにしろと。」
それだけ言って、電話は切れてしまう。
「本当にそれでいいんですかね。」
工兵は少し怒りを込めて言い放つ。だが、それを聞いているものはなく、ただ、暗く沈んだ声が、部屋に響くだけだった。
彼の属するというより従っている組織は何故そうであるのか分からないほどに、影の権力が強かった。小さな事件であれば、もみ消すことさえ簡単だろう。なら、一々自分を使わなくても――
そして、工兵は何故自分が使われたのか理解した。
「あれは同類なわけか。」
彼と同じ能力者である可能性が高かった。自然に発現した能力者と違い、あらゆる非人道的方法で体を調整された工兵たちは、普通の人の身体と構造が違うところも多い。それ故にバラバラにされたのだ。
だが、そうであっても工兵には関係がない。
早く終わらせてしまおう、と工兵は思った。
馬堀奈美恵は小学生が登校する中、仕事をしていた。家庭の電気メーターを調べる仕事である。それは通常、日中行われるものであり、同業者は訝しむだろうが、一般市民はこんなこともあるのだろうと不自然さを納得してしまう。
「はあ。面倒臭いなあ。」
誰にも聞かれないように奈美恵は手元を動かす。料金を表示させる機械を打ち込みながら、横目で少年少女を見ている。
彼女の任務は監視だった。一般生活に馴染んでいる彼女らの仲間が異常な行動をしないか監視するのだ。そして、彼女は一年前失踪した同胞に関係する者たちの監視を任されていた。その同胞の名はクラフトワーク。能力は自身の半径一メートル以内の物を固定する能力。
クラフトワークという名前は、今の彼女にとって皮肉以外の何者でもなかった。
小学生が通行する合間を縫って、一人の中学生が駆けて行く。時々、小学生にぶつかりそうになり、バランスを崩している。そのうち転げるぞ、と奈美恵が思った瞬間、中学生女子は転んだ。
「いや、私は何もしてないからな。」
思わず、近くに誰もいないのに言葉にしてしまう。
周りの小学生は慣れたことのようにその中学生のパンツを見ていた。
「はちゃー。」
中学生は何事もなかったかのように再び走り出す。
「なんであんな普通の人間を監視するように言われてんだろ。」
クラフトワークをかくまっている少女をクラフトワークより危険視していることになる。奈美恵には上の考えていることが分からなかった。
「あんすとっぱぶる?」
奈美恵はその言葉を聞いた瞬間、身構える。目の前には赤いランドセルを背負った小学生がいた。
「おばちゃんもまほちゃんと一緒なの?」
奈美恵は目の前の小学生を殺そうと考える。だが、今は人通りが多く、逃走に特化している彼女の能力は、人を殺すことには向いていない。
「同じってどういうことなのかな?それと無抵抗ってどういうこと?」
「わかんない。おばちゃんの胸のあたりに変なお札があるの。そこにあんすとっぱぶるって書いてあるから。」
内気そうな小学生は沈み気味に言った。
「そうなの。あと、私はおばちゃんって歳じゃないからね。まだ大学生くらいだからね。」
小学生は興味を無くしたように去っていく。奈美恵はどうするべきか悩んだ。あの小学生は彼女の本当の名前を知っていたのだ。
「天然能力者ということかしら。超自然的なのにね。でも、あのガキを放っておいたら、私たちの脅威になる。それと、おばちゃんって言ったこと、許さないから。」
暴走女は自分の使命を忘れて、行動を開始した。
工兵は朝起きると、大きく伸びをする。そして軽くストレッチをすると、次の朝までぐっすりである。
「俺はキラヨシカゲか。」
工兵は自分の部屋のマンガ本のタワーを潜り抜け、押し入れに到達する。そして、中からスポルティングのバッグを取り出す。主にバスケットボールのスポーツ用品を出しているブランドである。バッグから中身を取り出す。それは一風変わった道化のような黒いマントである。
上からの命令で、この衣装は必ずバッグの中に保管することになっていた。どうしてなのかは工兵も知らない。噂によると、カガキョクチョウなる人物の命令だそうである。
「科学者の考えることは分からないな。」
工兵はカガキョクチョウが科学者かは知らないが、そう呟いた。
「さて、お仕事お仕事。」
工兵はバッグ持ち、再びマンガ本のタワーをかいくぐって、アパートを後にした。
自転車を茂みの中に隠し、その茂みの中で工兵は着替えた。衣装に袖を通すのは、久々なので、工兵は少し緊張した。
「どうみてもおかしな恰好なんだよな。」
工兵は自分の姿を垣間見る。それは黒い筒のような恰好。道化と言われればそうであるし、また、処刑人と言われればそうでもある。少なくとも、普通の恰好ではない。工兵のいる場所だけが不自然と、奇怪という幻想に切り取られてしまうような、そんな幻覚を覚える。
「昼間っからこれは目立つよな。」
工兵は能力を使い、川沿いを滑り始めた。
そして、赤いジャンパーを着た浮浪者。かつての同級生、菊池の姿を見つけて、停止する。
「なんだ、お前は。」
腰を抜かしたように菊池は座ったまま後ろずさる。工兵は黙り、有無を言わせぬ雰囲気を出す。
「百万払う。仕事を引き受けろ。町はずれの廃工場まで来い。」
低い声でそれだけ言うと、工兵は能力を使い、滑って去っていく。
川べりを少し滑り、もうすぐで自転車を隠した茂みに到達するといったところで、工兵は横合いの草むらに姿を隠した。女が走ってくるのを見つけたのだ。この異常な姿では、不審者扱いされるだろう。
工兵は息を潜めて女が去るのをじっと待った。女は工兵のいる草むらを駆け抜けなかった。
「おい、処刑人。いるんでしょ。」
工兵は能力を使う準備をし、がさり、と音を立てて女の前に姿を現す。
「待って。私は仲間よ。」
女は両手を上げて、戦う意思はないと告げる。だが、油断はならなかった。
「私の名前はアンストッパブル。一大事が起きてね。力を貸してほしい。」
「どういうことだ。」
工兵は尋ねる。
「私たちの正体を見破れるガキが現れた。私たちにとっての敵が現れたの。」
「誰かの指示か?」
「いいえ。上の連中なんて私たちの言うことなんて全く聞かないじゃない。でも、アイツを放っておいたら、私たちはみんな殺されるわ。」
「だが、それは越権行為だろ。」
「現場も分からない奴らに任せられるか!これがどのくらい大変なことなのかぐらい、自分で判断できるでしょ!」
女は怒鳴った。
「分かった。アンストッパブル。だが、俺にも仕事がある。そちらが優先だ。」
「そう。まあ、私も夕方になるまで手は出せないし。いいわ。あんたに付き合ってあげる。」
工兵は面倒ごとに巻き込まれたのだと理解した。女は隠密にその敵を殺そうとしている。上に知られれば、自分の立場も危ういことを理解しながら。
「分かった。」
そうとだけ言って、工兵は再び地面を滑り、茂みまで辿り着く。女も工兵と同じように滑って跡をついてきた。
「あんたも私と同じような能力なのね。」
「お前の能力はなんだ。」
「それを言ったら弱点も分かるでしょう?言えるわけない。」
工兵は衣装を脱いだ。
「あら、意外と普通の人間なのね、処刑人って。もっと体中傷のある人間だと思ってた。」
工兵は返事をせず黙って、衣装をバッグに詰める。そして、バッグを自転車に乗せ、自転車を道に戻した。工兵は自転車に跨る。その自転車に妙な重みが加わる。
「何してんだ。」
「二人乗りぐらいいいでしょ。」
「滑ろよ。」
「不審がられるじゃない。」
なんなんだ、この女は、と思いながらも文句は言わず、工兵は自転車を漕いでいく。目指すは死体の袋を捨てた工場だった。
「特撮に出て来そうな、何にもない工場よね。」
「お前は出てくるなよ。雰囲気ぶち壊しだから。」
工兵は黒装束に着替え、手には大きなごみぶくろを持っていた。
「中に何入ってるの?」
「死体。」
「ああ。生ごみ処理ね。あの仕事、嫌だわ。」
「やったことあるのか?」
「まあ、逃げ足だけはいいから。あんたもそのくち?」
「そうだな。」
工兵の場合は加工も入っているが。
がたり、と工場の扉を開けようとする音がする。工兵は時間を稼ぐためにわざと扉を固くしておいたのだ。その隙に、女は音もなく隠れる。工兵はゆっくりとした足取りで工場の真ん中にゴミ袋を置いた。
「来たぞ。」
菊池は口調をめんどくさそうにしながらも、顔は笑顔そのものだった。仕事内容はともあれ、ホームレスに百万という金は大金で、思わず頬が緩んでしまうのだろうと工兵は考えた。
「その袋の中身をどこかに捨てろ。一目がつかないよう、夜に捨てるといい。」
「分かりやした。それより、あんた、一体何者だい?どっかの組織とか?白人主義?」
菊池は器用に舌を回転させ言葉を紡ぐ。それは工兵にとって驚きであった。彼の知っている菊池は寡黙だったからだ。人のご機嫌を窺うような卑しい笑顔にも苦労の後が目立っているように工兵は感じた。
「要件が分かったら、早くされ。」
「金は?」
「二日後、ここに取りに来い。サツを連れてこれば、報酬は無しだ。」
「へいへい。」
菊池は二度と工兵を顧みずに工場を後にした。
「あんなの、自分でやればいいのに。」
「リスク回避だ。」
「私には、あの男に金をやりたいだけに思ったけど?」
工兵は女の言葉に、返事をすることができなかった。
「そのガキってのは何者なんだ?」
路地に身を隠しながら、工兵は女に尋ねた。
「まあ、普通の女の子ね。ちょっと最近母親が死んじゃったみたいだけど。」
「関係者じゃあないよな。」
「ぱっと調べた限りじゃあ、何も。マークもついてないから、白の可能性が大きいけど。ビビってる?」
「当たり前だろう。俺はお前が危なっかしくて仕方がない。」
「そういえば、あなたの名前、聞いてなかったわよね。」
名前を告げようとした工兵を女は手で制止する。
「来たわ。」
路地から歩いてくる少女を工兵は見た。少女は赤いランドセルを背負い、黄色い帽子を被っている。手には一冊の本を大事そうに持っていた。
「どうするんだよ。」
「殺すのはあんたの専門でしょ。私は転ばせるだけ。」
女がそう言うと、少女は何もないところで氷の上で滑るように転ぶ。
「痛い。」
少女は小さな声でそう言った。
「さあ、早く。」
工兵は少女の前に現れ、手を近づける。
「あれ?まほちゃんのお友達?」
少女は顔を上げ、工兵を見上げる。その少女は昨日工兵に話しかけてきた少女だった。工兵は少女を、殺せなかった。
「何してるの。早くやりなさい。」
女は痺れをきらして、姿を現す。
「すまねえ。俺、無理だわ。」
そう言うと、工兵は少女を抱えて、勢いよく滑り出した。
「待ちなさい!」
だが、工兵は静止を聞かず、滑りだす。
奈美恵は逃げゆく男に向けて能力を使う。視認しうる範囲で物の摩擦を消す能力。しかし、効果がない。
「なんだって、こうなるのよ!」
奈美恵は腹立たし気に叫ぶ。
何が悪かったのか。考えても答えなどでない。どうして処刑人は少女を連れて逃げたのか。どうして組織を裏切るような真似をしたのか。
「いいえ。組織を裏切っていたのは私のほうだわ。」
彼女はすぐに上司に報告するべきだった。だが、それを怠った。それは一体どうしてなのか。彼女自身にも分からない。
彼女は人殺しに抵抗を持っていた。だから、処刑人を見つけた時は神を信じようとさえ思った。しかし、それが仇になったのだ。
「抵抗?」
彼女は自分の思いに抵抗を感じる。
「抵抗、抵抗・・・そうよ。私は無抵抗。アンストッパブルなのよ。」
彼女は試しに自分の胸に手を当て、能力を使用する。それは物の摩擦を消すのではなく、自身の心の抵抗を消す、力。
「あは。あはははははははは。」
思ったより簡単だった。彼女は自身の能力のように、もう滑って止まらない。
「私の真の力。私だけの能力。最高じゃない。」
奈美恵には、いや、アンストッパブルにはもう枷はない。むしろ、自分の障害となる枷を取り除こうと決意した。
「となると、排除すべきはあの男と、クラフトワーク。」
アンストッパブルは天敵を殺す算段を始めた。そこにはもう抵抗はない。