モフモフ怪談「ドッペルゲンガーの噂」(後編)
それは鏡に映った自分を見ているようだった。
幽体離脱して第三者視点から自分を眺めているような不思議な感覚。どこか現実感がない。
まんまるの体にフカフカの白毛。頭部から伸びた二つの触角とその先端に位置する柔らかなボンボン。愛玩誘う、くりっとしたつぶらな黒目。小さなお口を半開きにして「むきゅう」と鳴くところまで同じだ。
それは似ているという次元を超越していた。CGで作成したオブジェクトをそのままコピーして複製したかのような精巧さ。仮にムー太のクローンを作成したとしても、ここまで似ることはないだろう。そう思わせるほどに瓜二つだった。
――これが、ドッペルゲンガー!
七海に抱かれたまま、ムー太はぶるっと身震いした。そして驚いたのはムー太だけではなかった。普段の冷静さが嘘のように瓦解して、胸元のムー太と、彼女の部屋で待機していたドッペルムー太を見比べて目を丸くしている。
「え? え? ムー太が二人? なんで!?」
聡明なる七海の眼力をもってしても区別がつかないようで、どう対応したらいいのか判断がつかない様子。彼女の狼狽した様は、滅多に見られるものではない。
そして、危機感と焦燥を募らせるムー太に対して、ドッペルムー太の方は、こちらへ向かってボンボンをフリフリするという余裕っぷり。完全にムー太の行動パターンをトレースしている。
そして決して見逃せないのは、ドッペルムー太の陣取っている場所。それは、こたつの上のパソコンモニタの前。ムー太専用の特等席だ。
「むきゅう!」
ムー太から居場所を奪おうというのか!
興奮したムー太は七海の腕から飛び出した。こたつの足元まで跳ねてゆき、ボンボンをふがふが。抗議活動を開始する。
対して、ドッペルムー太は体を傾けて疑問系で鳴いた。
「むきゅううう!」
そこはムー太の席だ! と、なおも抗議活動を続けていると、その熱意が伝わったのか、ドッペルムー太はボンボンをぽふんと叩いてみせた。それは納得した時のジェスチャーである。
訝しんで眺めていると、ドッペルムー太はぴょんとこたつから飛び降りムー太の横に立ち、嬉しそうにこたつの上を指して「むきゅう」と鳴いた。
「むきゅう?」
譲ってくれる、ということだろうか?
ドッペルムー太はニコニコしている。純真無垢なる笑顔。その姿からは悪意の類が一切感じられない。
席を奪うつもりがなかったのなら、それはムー太の早とちりだ。なんだか申し訳ない気持ちになって気分が落ち込んだ。
「むきゅう」
そうだ。独り占めすることはない。
ムー太はこたつによじ登り、ドッペルムー太へ向けてボンボンを差し出した。
二人のムー太がこたつの上に並び、鎮座する形となる。少し狭い。
そのやりとりを見守っていた七海が口を開く。
「どちらが本物なのか……それは一旦置いといて、ひとまずご飯にしよっか。お腹、すいたでしょう?」
今日は朝から遠出していて、朝食以外なにも口にしていない。お腹がペコペコだ。
ドッペルムー太もその意見には賛成のようで、ボンボンをはいっと伸ばして嬉しそうに鳴いた。ムー太も負けじと元気よく鳴いてみせる。
夕飯はカップ麺だった。
それは決して、七海が手を抜いたというわけではない。カップ麺はムー太の大好物なのだ。
電子ポッドでお湯を注ぎ、熱々のカップ麺がムー太たちの前に置かれる。ムー太の一番の好きなスタンダードタイプの醤油味。シリーズ売上ナンバーワンの謳い文句は伊達ではない。万人に支持されるからこその王道。数多くいるファンの中の一人にムー太も含まれている。
――三分。
こたつの上で二つのモコモコがその時を待っている。
フタとカップの隙間から昇る香りを、ドッペルムー太がクンクンと嗅いで、嬉しそうに鳴いた。ドッペルゲンガーは好みまで忠実にコピーしているのだろうか。違いのわかる怪異だなとムー太は思った。
「そろそろ三分ね。食べごろよ」
七海がカップ麺のフタを開けてくれた。
三又のトライデントを手に取り、ムー太は臨戦態勢を取る。
ふと気づくと、ドッペルムー太はやや体を傾け、フォークも持たずにじっとこちらを凝視している。食べ方がわからないのかもしれない。ムー太も最初は苦戦したものだ。ムー太の体型でカップ麺を食べるには少しコツがいる。
「むきゅう」
こうやるんだよ、とばかりにムー太は鳴いて、カップ麺の中にフォークを突き立てた。そのままボンボンを器用に操ってフォークを回転させ、パスタを絡めるように動かしていく。一口分の麺が巻き付いたところで水揚げし、背伸びするように体を伸ばして口の位置を高くする。そうして食べやすい状態をキープしつつ、ふーふーと息を吹きかけた後にパクっと頂く。
自然界では決して味わえない濃厚な味が口の中に広がる。
それを見ていたドッペルムー太が、了解したとばかりにボンボンをぽふっと合わせ、真似してフォークをぐるぐるやり始めた。その動きは少しぎこちなく、スープがぐわんぐわんと波打ってしまっている。今にもこぼれてしまいそうだ。
そこでムー太は二つのボンボンを使って、カップ麺の両脇をがしっとホールドしてあげた。土台がしっかりすることで動作は安定し、ドッペルムー太は麺の巻取りに成功。初見の一口を頬張る。
美味しかったのだろう。ドッペルムー太は会心の笑みを浮かべて、七海の顔を見上げて鳴いた。そしてムー太の方に向き直り、まんまるの体を前方へ傾けて、もう一度だけ鳴いた。どうやらお礼を言っているようだ。
ドッペルゲンガーとは、話に聞いていたような悪いやつではないらしい。これなら友達になれそうだ。単純なムー太はそう考えた。
最後の一滴までストローを使って飲み干し、二人のムー太は同時に食事を終えた。途端、欠伸が一つ零れ落ちるところまで同時。
そんな食事風景をつぶさに観察していた七海が難しい顔で口を開いた。
「信じられないけど、どちらかが本物で、どちらかが偽物ってことになるのよね……? まったく見分けがつかないわ」
その言葉に、二人のムー太が同時に反応した。都合四本のボンボンがピンと天を向く。
ドッペルムー太はいい奴だ。友達にだってなれるだろう。
けれども、本物か偽物かという話になれば、笑顔で譲ってあげることはできない。七海のベストパートナーは自分だという自負もある。絶対に負けられない。
「むきゅう!」
ムー太は本物であることをいち早く表明。力強く鳴いた。
同様にドッペルムー太もまた鳴き返す。
その迫力に負けまいとムー太が鳴き返し、更にその上からドッペルムー太が鳴き返す。大きな声を出したほうが本物だと言わんばかりに、鳴き比べが始まった。
むきゅうむきゅう、と鳥の雛のように忙しなく鳴き続ける。収拾がつかなくなりかけたところで審判から判定が下された。
「鳴き声はまったく同じなのよね」
――引き分け。
申し合わせたかのようにピタリと両雄の鳴き声が止まる。
鳴き声で区別がつかないとなると、何をもってムー太であることを証明すればいいのだろう。姿形は完全に同じであるし、鳴き声まで同じ。そして挙動は完璧にトレースされているから、ムー太らしい仕草でアピールすることもできない。強いて言えば、先ほどカップ麺を食べようとした時に、もたついたことが偽物要素に当たるだろう。けれどそれも、ムー太が手を差し伸べて助けてしまったことで、決定的な差にはなりえなかった。
最大のチャンスを逃したことになる。けれど、ムー太はそのことを後悔していない。ドッペルムー太を助けた時、年端もゆかぬ弟を助けたみたいで誇らしかったのだ。
七海はしばし少考し、こたつの上に置かれた髪飾りとマフラーをちらりと見やった。
「髪飾りをつけていれば、どちらが本物か一目瞭然だったんだけど」
確かにその通りだ。ムー太は髪飾りをなくすのが怖かったので、つけずに外出してしまった。それが仇になるとは夢にも思わなかった。
と、そこでムー太は閃いた。
「むきゅう!」
そうだ! ムー太しか持ちえないものが一つだけある。
ムー太が迷子にならないようにと七海が付けてくれた、今もボンボンに括り付けられている名札。表にはマジックで「ムー太」と名前が書かれ、裏には住所が書かれている。これは七海が書いてくれたものだからこの世に二つとないはずだ。
ムー太は自信満々のていで名札を差し出した。
「なるほど。やっぱりムー太は賢いわね。でも――」
七海はドッペルムー太のボンボンの辺りを見ていた。
そして少し遅れて、ドッペルムー太が自慢するみたいに何かを差し出した。
それは名札だった。
顔を近づけて、七海が両方の名札を見比べる。
交互に何度も何度も。そして結論が下された。
「両方とも、私の筆跡で間違いないわ……」
「むきゅう!?」
ドッペルゲンガーとは、そこまで用意周到なものなのか。
本当にムー太をまるっとコピーしたのかもしれない。そう思わせるほどに何から何までそっくりだ。
万策尽きて、ムー太はガクリと肩を落とす。
そして今度は、七海の方から提案がなされた。
「こうなったら、私のフィーリング能力に賭けるしかないわ。大丈夫よ。私って勘だけはいいのよね」
何をするんだろうと上目に見上げていると、不意に両脇をがしっとホールドされて、彼女の胸へと押し込められた。いきなり正解を導きだしたのだろうか。期待に膨らんだムー太の体を彼女は撫で回し始める。
「うーん、この柔らかな感触と優しい肌触り。手に馴染むこの感触はまさにムー太そのもの! そして――」彼女はムー太の頭の辺りをくんくんと嗅いで「とっても良い匂い!」
「むきゅう!」
こんな手があったのか! ムー太は称賛の拍手を送った。
一通りの愛撫が終わると、名残惜しそうにこたつの上へポンっと置かれた。そして次に彼女は、隣で羨ましそうにしていたドッペルムー太を抱き上げて、同じように撫でまわし始めた。第三者視点で七海と戯れる様子を見るのは初めてで、なんだか不思議な感じがする。
「うーん、この柔らかな感触と優しい肌触り。手に馴染むこの感触はまさにムー太そのもの! そして――」彼女はドッペルムー太の頭の辺りをくんくんと嗅いで「とっても良い匂い!」
まったく同じセリフを口走った。
そしてどこか満ち足りた表情で彼女は判定を下した。
「ムー太ソムリエたる私の感覚がまったくの互角だと言ってるわ」
またしても引き分け。期待していたところからの転落。その落差でムー太はコテっとずっこけた。ドッペルムー太は嬉しそうに七海の頬をぽふぽふしている。
再びこたつの上へ両雄は並び立ち、審判員である七海が次なる一手を思案する。そして閃いたという風に、ポンっと手を叩く。
唐突に無理矢理なハイテンションで彼女は言った。
「モフモフクーイズ! ドンドンドンドンパフパフ」
モフモフクイズとは、七海が考案したムー太専用のクイズのことである。外見では見分けられないので、ムー太の知識で見分けようということらしい。流石七海、賢い!
「今度はこっちのムー太からね」彼女はドッペルムー太の方を向いて「さて、ここでムー太に問題です。3の4乗から12を引くと何になるでしょうか?」
これは難問だ。ムー太は簡単な足し算までしか理解していない。
けれども、答えは知っている。彼女はムー太に合わせて問題を作ってくれているから、ここは「むきゅう」と鳴くだけでいい。これはそういう問題なのだ。
疑問符を浮かべて回答が遅れたり、答えられなかったりすれば即座に偽物だと露呈するだろう。
しかし、そんなムー太の期待に反し、ドッペルムー太は間髪入れずに「むきゅう」と鳴いた。
「正解! 答えは69(むきゅう)でした! この賢さは間違いなくムー太ね」
ポンポンと跳ねるドッペルムー太の頭を彼女は撫でた。
ムー太は嫉妬した。
「むきゅう!」
まだ本物だって決めるには早い。ムー太にも問題を出してほしい!
駄々をこねるように暴れていると、彼女は苦笑して言った。
「わかってるわよ。じゃあ、こっちのムー太に問題です。休みなく働くことを何というでしょうか?」
「むきゅう」
彼女が言い終わらぬうちにムー太は鳴いた。
その熱意が伝わったのかは不明だが、彼女は頭を撫でてくれた。
「正解! 答えは無休でした! 電光石火の一撃。この速度での回答はムー太にしかできないわよね」
「むきゅう!」
ムー太は満足。安心したら少し眠たくなってきた。隣にいるドッペルムー太を見やると眠そうに欠伸をしているところだった。
「あらあら、二人ともおねむなのね」
ご飯を食べてほどよい満腹状態。食後の運動もした。
瞼がだんだんと重くなっていく。
「このまま二人とも一緒に暮らす? 私は構わないわよ。ムー太が二倍になったんだもの。喜びも二倍よね」
ムー太が本物だと認識された状態で一緒に暮らすなら構わないけれど、どっちがどっちかわからない状態で一緒に暮らすのは嫌だった。七海にはきちんと結論を出してもらいたい。
ドッペルムー太も同じ意見なのかどこか不服そう。
七海は「むう」と唸り、腕を組んだ。そして「仕方ないわね」と言って、顔を上げた。覚悟を決めたようだった。
「本当はとっくに結論は出てたのよ」そう言って、ムー太を抱き上げて胸にぎゅっと押し付けた「こっちが私のかわいいムー太なのよね」
唐突に導き出された正解。
ムー太は驚きと喜びで舞い上がった。いや実際に、高い高いされて舞い上がっていた。えも言われぬ浮遊感に包まれる。
勝利の胴上げが終わると、再びこたつの上へポンっと置かれた。
ドッペルムー太がすごく寂しそうに俯いている。ムー太はなんだか可哀そうな気がして、救いを求めるように七海を見上げて鳴いた。偽物だとわかっても冷たくしないであげてほしい。ドッペルムー太は何も悪いことをしていないのだから。
「大丈夫よ。この子のことは私に任せて」
そう言って、彼女はドッペルムー太を抱き上げた。
そして何事かを呟いた。ムー太には聞こえなかった。
「むきゅう?」
どうするつもりなのだろう? 疑問符を浮かべていると、彼女はドッペルムー太を抱えたまま、ムー太の頭を撫でた。
「心配しないで。在るべきところに帰してくるだけだから。一眠りして朝になったらすべてが元通りになっているわ」
ドッペルムー太にはもう会えないのだろうか?
けれども、彼女の様子からドッペルムー太に危害を加えるつもりがないことは感じ取れる。彼女に任せておけばすべてがうまくいくという確信がムー太にはある。きっと、ドッペルムー太にとっても最善の選択を彼女はしてくれるだろう。
彼女はまあるい頭をそっと撫でながら、子守歌を歌い始めた。
眠気が加速する。とても心地よい。
瞼が閉じられる。良い夢が見れそうだ。
子守歌はムー太が眠りの深淵に落ちるまで続いた。
◇◇◇◇◇
「結局、昨日のあれはなんだったのかにゃ」
商店街の一角。路地裏にある小さな空き地でクロが言った。
朝起きると、すでにドッペルムー太の姿はなかった。
まるで夢と共に消えてしまったようだった。
そのことを七海に尋ねると、彼女は菩薩のような笑みを浮かべてムー太を膝の上へ乗せて言った。
「覚えておいて。なにか困ったことがあったら真っ先に私を頼るのよ。絶対に解決してみせるから」
その一言でドッペルゲンガーの件は解決したんだとムー太は思った。
縁があればまた会えるだろう。寂しさを紛らわすため、ムー太はそう思うことにした。
「しかし、本当にそっくりだったにゃあ」
顔を洗いながらクロが言う。ムー太は頷きを返した。
ポカポカ陽気の昼下がり。ムー太はしばらく雑談を交わし――と言っても、クロが一方的にしゃべるだけなのだが――、その場を辞すことにした。その背中にクロが声をかける。
「ああ、そうそう。兄貴には今日はいけないと伝えてくれにゃ。急な用事が入ってしまったにゃ」
◇◇◇◇◇
六角橋家へ到着する。
サンダースの兄貴は芝の上で寝そべっていた。
ぴょこぴょこと近寄っていき、ボンボンをフリフリして挨拶すると、サンダースの兄貴はムー太の頭に前足を乗せてお手をした。そのままポンポンと叩かれる。そして犬小屋の方を向いて「ワン」と一声鳴いた。もしかすると、昼食をご馳走してくれるのかもしれない。
犬小屋の方へ振り返ろうとした時、背後から声がした。
「何をのんびりしてるにゃ。早くこっちに来て一緒に食べるにゃ。兄貴のご厚意だから残すにゃよ」
そこには銀のお椀に盛られたドックフード(トップブリーダー推奨)にがっつくクロの姿があった。
「むきゅう?」
今日は用事があるから来られないのではなかったろうか?
「狐につままれたみたいな顔して何を呆けてるにゃ。だいたい昨日のあれはなんだったのかにゃ?」
既視感を感じた。
前半部分はともかく、後半部分については聞き覚えがあったからだ。空き地での雑談。つい数分前の軌跡をなぞるようにクロが呟く。
「本当にそっくりだったにゃあ」
その後もクロの話す内容は、ほとんど同じものだった。ムー太と会話するのは、今日これが初めてだとでも言いたげな態度に違和感を拭えない。異なるのは、サンダースの兄貴に関する話題がちらほら混ざるのみ。
まるで時間をループしたかのような錯覚。
いや、違う。これは――
ムー太の白毛がぞわっと逆立つ。
まったく同じ姿に、まったく同じ声。思考パターンは似通っていて、知識は共有されている。
その者の名は――




