幻影不明
「ちわーっす。今日も元気に働いてますかー」
威勢良く飛び出した声は店内に轟く。何事かと作業をしていた他の従業員も手を止め、こちらを見ていた。
優衣と別れた後、脱兎のごとく着替えを済ませ店内に向かった。その証拠にポロシャツの上につけていたエプロンは肩からずれ落ち、エプロンについているネームプレートは逆さまになっていた。
この店は大型スーパーの一角にある精肉店で連日学生や奥様方で賑わう。控え室からは離れているので遅刻寸前に行こうものなら、もれなく疲労がついてくる。控え室からでて最初の難関といえば、階段である。この階段がまたきつく働く前に疲れさせるので密かに有名だった。これを上り終えるとスーパーに通じており、食材選びやカートで遊ぶ小学生らしき集団がたむろう。そこから精肉店までは無駄に遠いのでもっと近くに作ればいいのにと思っていた。少し早歩きして天ぷら屋の角を曲がるとそこにあるのが俺のバイト先だ。
威勢良く、そして遅刻がばれないように大きな声をだしたのが失敗だった。目の前には異常なほど大きく見える身長百七十センチぐらいの人が、そう店長が仁王立ちをして待ち伏せていた。というより大声をだしたことによって入ってきたことに気づかれたのだ。こちらをにらみつけたまま店長が言う。
「なにがちわーっすだ。時計見えるか、何分だ」
目の前の壁につり下がる時計を見ると、先ほどスタートした針がちょうど真下まで迫っている。ここはとりあえず素直に時間を答えるのが吉とみた。
「えー、オホン、……五時半前です」
「おー、なんとか時計は読めたようだな。じゃあおまえの今日の始まりは何時からだ? 」
「……五時からです、遅れてすみません」
心にもない謝罪をなんとも心から反省している風に表現した。怪訝そうにこちらを見つめる店長が、あきらめたのか奥のほうへ入っていく。
ラッキー。今日はこれ以上の尋問はなしか。いやー、いつも長いんだよなー。人生嫌なことばかりあるけど、まったく今日はついてる。……だがこんなに早く尋問が終わるとは逆に不気味だな。
つい一人で半笑いをしてしまった。周りからの痛いほどの視線が気になる。さらに悪いことに先ほど奥に戻った店長が再び現れた。手にはなにか白い物体を持ったいる。それがなにか俺には分からなかったが、少し見えた文字にぎょっとする。……あれは業務遂行表なるものだ。
店長は俺が何のために戻ってきたのかという疑問が解けたな、と分かったようだった。勝手に陽気になっていた俺は、次第に冷や汗が流れるのを感じた。一方そんな様子の俺にお構いなしに手にある紙を繰り、やがて手を止めて、こちらの目の前に突きつけた。そこには時解 知曉 遅刻回数七回、と記入されている。だいたい週二で入っているためほぼ遅刻していることになる。そのことを自覚はしていたが人生萎え萎えの俺が努力をしてなにかをなそうとは思わなかった。……今度はとぼける感じで行くか。
「あのー、これが何かー? 」
さすがにこの返答にイラッと来たのか、明らかに今までの雰囲気とは別ものとなる。行動そのものにまだ冷静さは見られるが、気づいたら手を腰に当て、足をゆすり始めていた。普段は格別低くもない声が珍しいことに低い。
「おい、おまえ。がちで言ってんのか。前言ったよな、これ以上遅刻するならクビにするぞ、と。毎回毎回遅刻しよって。ふざけんなよ」
鳴り止むことの無い罵声が降り続けること約一時間。ようやく店長の顔色ももとに戻り、やることが山ほど残ってるのを思い出し再び奥にある店長専用部屋に戻っていった。
部屋というが実際は一畳の空間にパソコンと机椅子のセットしかない。その中にこもり、仕入れ状況などを整理しているらしい。
店長のお叱りが終わったところで、定位置のショーウインドウの前に体を持って行く。目の前には薄くスライスしている豚バラや山のように積もる牛スライスが客を見定めている。どこかで聞いた台詞だが、人間が食材を決めるのではない。食材が人間を選ぶのだ、と。そんな馬鹿なと思いつつもついついこのように考えてしまうのだからあながち間違いではないのではないか、などと考えるうちに隣には俺と同じくらいの身長の高校生が立っていた。
この高校生は野山功造といい、この店に勤めて今年で二年目。つまり勤めてからわずか二ヶ月の俺からすると先輩にあたる。ただ大学生の俺がなぜ年下の言うこととはいはいと素直に訊かないといけないのかずっと不満だった。ゆえに間違いだらけのミスだらけであまり使い物になるとは言えなかった。それでも野山は辛抱強く、そしてめげずに教えてくれる。その優しさが時に邪魔だと思い、時にはなにも出来ない自分にいらだった。
今日も優しく、積極的に話しかけてくる。
「今日もしっかり怒られていましたね。いやー、時解さん遅刻しすぎですよ。お客さんの対応一人ではなかなか辛いんですからね。あ、そうそうあと……」
近所のおばちゃんみたいに店長の次は小山が長々と話し始める。
……仕事をするときには話しかけないでほしいんですけど--。だいたいなぜそんなに話しながら客対応も出来るのか。まさか聖徳太子の生まれ変わりか。などと冗談は考えられる。
ただ話続けるのは得意ではなく、会話も続かない。それが友達が少ない理由なのかもしれないが。
この時間はまだお客さんは数えるほどしかおらず、さして忙しいというわけではない。だがお客さんがいないからといってなにもしていないとこれまた店長が飛び出してくる。……毎回のことなので店長がいるときはなにかしようと努力はしてみる。失敗ばかりだが……。
今日はショーウインドウの上に置いてあるタレがなかなかの減り具合らしく、残り甘ダレ、中カラダレが三本しか残っていなかった。
店長は奥でまだ作業をしているがいつでてくるかはわかったもんじゃない。ここはなにか仕事をしていた方がいいな。独断だが野山もなにも言わないし、後ろにある洗い場にいる二十代後半の男性と四十代前半のおばちゃんもこちらがなにかミスをしないか注意してちらちらと見てくるだけだ。この仕事をやってもなにも問題はなさそうだ。
そう判断し、タレがしまってある場所、すなわちショーウインドウの下にしまってある段ボール箱から味が偏らないように七本ずつ取り出し、残り少ないタレの横に綺麗に並べる。徐々に数が増えてくるタレを眺めるとどこかホットし、小さな感動を覚える。
俺がタレを並べている間、野山は何人かちらつくお客さんの対応に追われているのが見えた。まあ、でも俺がやるより大分早いが……。野山のスピードは凡人より早くずいぶんと慣れた手つきで仕事を進める。いまは豚バラを大量にむしり取り、強引に袋に詰め込んでいた。
ははん、さては一キロの購入だな。地味に一キロ超えると詰めにくいんだよな、あれ。ご苦労、野山。
いまのいままでは他の雑用で暇をつぶし、出来るだけ接客を避けてきたがどうにも雲行きが怪しくなってきた。というのも、さきほどまで人影は皆無、とまではいかないが明らかに数えるほどしかいなかった。だが小山の接客を待つ人は二人ほどおり、あたりを見回すとスーパーのレジ自体にも並ぶ人が多くなりこれからお客さんが増えてくるのは火を見るより明らかだ。さすがにお客さんが増えてくると野山にも焦りが生じ、さきほどよりもペースが落ちている。野山自身も気がついていて、作業をしながら神妙な顔で頼んでくる。
「時解さん、あちらでおまちしているお客様の対応をお願いします。僕だけだとどうしても待たせてしまいますので……。時解さんも仕事が欲しそうな雰囲気だしていますし」
何を言うか。だれも仕事が欲しいなど思ってもいないし、むしろないほうが気持ち的も体力的にも楽なので回さないでほしい。でも、一応給料もらいながら働いているのは事実だし、この頼みを断る道理もないので引き受けざるを得ないが。
「了解ー。あとわざわざ言わなくても働きに来ているのだからやるよ。……やらなきゃ店長にも怒鳴られるし」
このままお客さんが来ないわけはないと実は分かっていた。少なくとも暇にならない程度には来ると思っていた。
このスーパーは毎週水曜日には全品十%引きを行っており、普段は過疎化しているがこの日と週末だけは息を吹き返す。さらに、俺が働いている店も便乗し、水曜日には一部の商品に一グラムにつき一円という出欠大サービスを行う。極めつけには、千円につき百円引きの金券ももれなくついてくるのだからマダムたちは血眼で訪れるのを何度か見ている。もちろんマダムたちだけでなく、学生も多く買い出しに訪れる。その人たちは大抵山のようにお買い上げになる。合計三千グラムは当たり前だった。
いま確認できるのはおおよそマダムで、大量に買い出す雰囲気はない。野山のほうに二人、俺の方に一人だ。
自分でも分かるくらいに嫌々オーラを出している。きっとお客さんにはふてぶてしく、不真面目な学生とみられているに違いない。声も自ずと小さくなる。なんとかお客さんにも聞こえたようで会話が成り立つ。
「いらっしゃいませー。ご注文はなにに致しましょうか? 本日こちらの豚バラがお安くなっております」
「あら、そう。ならこれにしてもらおうかしら。……とりあえず一キロください」
「はい、一キロですね。少々お待ちください」
はい、きました一キロ。なぜ一気に買いに来るのだ。たとえ今日安売りだとしても一気買いして持ち運ぶのは楽ではないだろうに……。それならばいっそのこと何回かに分けて買いにくれば良いのだ。……売るほうも楽だし。
ショーウインドウの後方には巨大な棚がある。そこには肉塊を入れるための袋が三種類かかっており、一キロ用は左から三番目だった。
無造作に袋をとり、手を大きく広げ、肉の大地へ飛び出す。土をつかむ感覚で強引に奥まで手を突っ込む。しかし下層に埋もれていた土どもが妨害を繰り返し、うまいこと取り出すことは容易ではない。なんとか取り出したとしてもグラム数が足りず、再び冒険へ……。
何回か繰り返し、ようやく一キロに近い数字となった。肉の重さを量ると分かることだが、ぴったり賞など五十回に一回あればいい方だ。今回もぴたりとはいかない。そのような時にはお客さんの承諾を得なければならない規定となっている。
「すみません、お客様。こちら千五グラムなんですけど、このぐらいでもよろしいでしょうか」
このように訊くとだいたいは常套句が返ってくる。
「はい、そのくらいでいいですよ」
これまた無造作にレジを操作し、値段をだす。ぴったりとそろったお代を受け取る。平板な一枚の紙切れとまばゆく輝く小銭が一枚が手のひらで腰掛けている。それらをレジにしまい、品物とレシートを返す。最近はよく見かける光景を今日もまた繰り返す。
やっと一人のお客さんの対応が終わった。後ろからはたわしでなにかをこする音が聞こえる。ものすごく強くこすっているらしい。何度も何度もこする音はやがて消失してゆく。だが数秒もすると何倍にも元気になって戻ってきた。あちらの仕事もなかなか大変らしい。
ふと目の前をみると、今は人の心配などしていられないことを切実に感じさせる。先ほどまで二、三人だった店先がいつの間にか、蟻の行列のようの並んでいる。いや、もはや並ぶというよりは餌に群がる鯉のように互いを押しのけ合い向かってくる。
これにも理由があり、金券は数が限定されており、どうせ買うなら金券があるうちに、と買いに来るお客さんが多数だ。また仕事帰りがピークということもあり、いっそう増加する。
「はいはい、そんなに押し寄せないでください。一列に一列に」
野山は必死に呼びかけるが、結果はむなしく聞く耳も持たない。これから満潮になるのかというくらいお客さんが押し寄せる。
まったくこんな時こそ店長も出番ではないか。あの大ボリュームの声で呼びかけたら、効果覿面だろうに。俺を叱るよりいい使い道があるとあとで紹介してあげよう。
波は収まることを知らず、各自注文をし出した。こうなるとこちらも困ったことになる。ただでさえ人手不足なのに……。
「牛スライス一キロと……」
「こっちだこっち。馬鹿。そっちじゃねーよ」
「急いでるんだ。先に注文を聞いてくれ」
……。なにがどうなっているのか皆目見当がつかない。なにと言ったのかも。
しだいにいらだちを感じ始め、攻撃を始める人も中にはいた。
急に不思議な感覚にとらわれた。目が回り始めたかと思いきや、暗黒につつまれた。だが不思議なのはそこではない。これがめまいで意識を失ったから暗黒に包まれたと最初は考えた。しかし暗黒の中に先ほどのお客さんたちは存在している。行動速度が五分の一まで下がったような遅さだ。音の伝達はなく、口元だけが動いていた。
異常事態でもなんとか対処しようと先ほどの注文の霞がかかっていない部分からなんとか思いだし、実行に移そうとした。だがこちらも同じく遅い速度で意識と体が離れているようだ。そのうえなんだか頭も痛くなってくる。……原因はなんだ。寝不足ではあるまい。昨日はたっぷり八時間は寝たはずだ。はたまたストレスで頭がとうとう逝ったか。いや、それは非常に困る。……まさか呪い。
一番あり得ないと思える答えにたどり着いた瞬間それはあながち間違いではなにのでは、と感じる。
お客さんたちは頭に角が二本生え、衣装がいつのまにか和服に替わっている。お客さんの後ろの方には渦巻き模様が連なり、本当に目が回りそうだ。
これにはさすがに身の危険を感じる。とにかく回りものを自分にぶつけて正気を戻そう。……一番近くにあるのは豚バラの入ったお盆だがこの際仕方があるまい。
遅くなった手をこれでもかと言うくらいに伸ばす。冷たいお盆の感覚を感じ取り、無我夢中で持ち上げ、そしておもいっきり頭上の落とす。
頭の上に星が舞う。意識は朦朧とし、やがて事態を認識出来なくなる。遠く遠くに風景は離れていき、その遠方の風景も傾き始めた。
……一瞬のことだ。俺には長々と感じられたのかもしれない。だが実際には数秒もかからないうちに身体は床に叩きつけられる。
「……いさん。……きかいさん。」
む、どこからか名前を呼ぶ声が聞こえる。はて、だれであろう、とても聞き覚えがある。
「時解さーん。大丈夫ですか? 聞こえてますかー」
ああ、この声はなんだ野山か。でもなんでこんなに大声で名を呼んでいるんだ。なにか問題でも起きたのか。あんなに仕事が出来る小山にもミスはあるものなんだな。
俺は自分のふがいのなさに呆れ、苦笑をもら……せないだと。口元は堅く、開く様子もなし。自分の身に起きたなんかをまだ認識できない。
「時解さんっばなんであんなおかしな行動にでたんでしょうか。店長はどう考えますか」
「そうだな、まあ、元からおかしなやつではあったがな。……一つ言えるのは遅刻したうえに商品までだめにすんだ。これは責任をとってもらうほかないな」
野山と店長の話が耳に浸透していく。そしてだんだん事を思い出していく。
そうだ自分でお盆をぶつけて、たしか気絶したんだ。
記憶障害が直り、瞼を少しづつ開いていく。微弱な光が入ってきたかと思うと強力な光が入ってきたときには少々焦りが生じた。だがあの光景を目の当たりにした後だとこんな焦りはちっぽけに感じる。
目の前には心配の様子を孕み、ドギマギしている野山と、心配の様子がないわけでないがどちらかというと怒りが大半を孕んでいるらしい店長、その他諸々が俺を覗き込んでいた。
「あ、気がつきましたか。良かったー。本当に良かった。一時はどうなるかと思いましたよ。時解さんもう少しであの世行きだったかもしれませんね」
涙ぐむ野山が本気で心配してくれていたことにうれしさを覚える一方、店長は涙一つ見せずに言う。
「ああ、無事で何よりだ。だがおまえが自分で何をしたのか分かっているか? まったく呆れて言葉もでない。店が終わり次第私のところまで来るように」
店長はその後また奥に入る。さきほどまで群がっていたお客さんたちはすでにいなくなり、時間的にももう来なかった。時計の針は九時を抜けたばかりだ。
「今日だけではない。おまえがこれまでに犯してきたことは。……いままでは初バイトということで大抵もことは見逃してきた。だが今日という今日は我慢の尾が切れた。一つだけ聞く。あのとき何があった。どうしてああなった。答えによっては考え直せすぞ。」
店長はそう言うが、俺は反論する気にはなれなかった。たとえ反論したとしても,「突然風景が変わり、お客さんも異様な格好になったんです。だから正気に戻るため仕方なくやりました」などと言っても信じてもらえないのは火を見るよりも明らかだ。それに店長が言おうとしていることが俺の思ったとおりなら、実に都合が良い。自分からは言いにくかったあの言葉、そうクビという宣言だ。今日俺は仕事をやめるためにきたのだ。だから反論などするわけもない。
「いえ、特に理由などは……。ただお客さんのあまりの多さでパニックになっていました。……すみませんでした」
遅刻の謝罪と比べものにならないほど丁寧に言う。俺もそれなりに責任を感じているわけだ。……当初はもっと適当に流そうと思っていたが、実際は無理だった。先ほどまでの自分との矛盾が心を彷徨う。言葉に出すと頭で思っていたことと行動が違うことはこれまでによくあった。やはり俺はかなりのひねくれ者だ。
なんとも言えない微妙空気が漂う。いつもの店長の怒鳴り声で吹き飛ばしてもらいたいところだ。そんな期待は敢えなく潰え、店長の小さな声が店内に漂流した。それは期待どおりの言葉だったが実際に宣告されると心が抉られる痛みだった。
「そうか、ならば仕方が無い。私が言おうとしていることがわかるな。今日限りで……おまえはクビだ」
「……はい。これまでどうもありがとうございました」
この場にいるのが気まずく、早急に店を出る。
夕焼けが綺麗だった自転車置き場は月明かりに照らされ、夕刻とは違う顔を見せていた。いまはこの明かりが届かない場所に行きたい。
いても立ってもいられず、自家用自転車に跨がり街頭もない暗闇も道へ向かいペダルを踏み込み、誰も気がつくことのない道から帰路についた。




