13
『チガウ』
『アソコニ、アノオトコハ、イナイ』
隻眼の赤い瞳は、夜中、山の中腹に煌々と燃える焚き木を見つめていた。
『グルルル』
隣に控える同じ眷属の狼が、旅人を襲うかどうかを確認するように聞いてくる。同じ仲間ではあるが、必ず判断を決めるのはリーダーである自分だった。
しかし、目当てだった妬ましいあの男がいない。今では、街道を行き来する人も少なくはなったが、街から一度嗅いだ事のある人の臭いが漂って近づいてきた時には、嬉々として山間を駆け抜けて来たのだ。
『ナゼ?アノオトコハ、ドコダ?』
今見つめる二人組みの男女は、先日、自分達が襲った人間達に間違い無かった。しかし、この熱い胸に煮える妬みの感情をぶつけたい相手が、焚き木の周囲に居ない事に気づく。
もし、あの男があの中に居たら、仲間の先頭に立ち今すぐにでも女神の寵愛を受けた証である、額の傷を噛み砕いてやりたいと思っていたのだ。
『ガァウ?』
こちらの返答の無い様子に、再度尋ねてくる狼達。
普通であれば、先日の襲撃が失敗したとはいえ二人しか居ない旅人を襲う事を躊躇う事はない。しかし、今はあの男が戻ってきたのかと駆けて来た故に、期待は裏切られたのだ。
そして期待していたほどに落胆し、焚き木をしている二人の事などどうでもよくなっていた。
襲撃する意欲も消えうせ、返事の変わりに踵を返す。襲撃の合図を待っていた周囲の狼は、襲撃しない事への納得がいかない様にしばらく旅人を見つめていたが、振り切るように後を追って撤収を始めた。
『コノ、ネタミ、アコガレ、モウ、オモウコトハナイト……』
踵を返した姿勢のまま、顔だけもう一度、焚き木をしている旅人の方へ顔を向ける。唯一残る隻眼には小さな火の灯りが揺らめき輝いていた。
時は昔、まだ女神が当時のキイア村に降臨していた時の話へと遡る。女神は人間と語らい、愛され、また、多くの神々が地上に降り立ち多くの神痣が授けられた事によって数々の物語が語られた時代である。
当時、村にはまだ宿屋も無く簡素な家々が並ぶ程の村であり、その中を一人の女性が腕に子犬らしい動物を抱えて道を歩いていた。
「ユルキイア様、その子犬はどうなされたのですか?」
「ええ、森で他の獣に襲われたのか怪我をしていて。このままだと死んでしまうのは可哀想で、治してあげたのだけれど眠ってしまって」
銀髪と湖面を思わせる瞳の女性は、優しい瞳を腕の中の狼の子供を見つめる。村人は子犬と勘違いしていたが、無理に訂正する必要もないように思えた。
「おお、それは可哀想に、しかし、女神様に見つけてもらえたのは幸運というものだ」
「もう、片方の目は駄目かもしれないけれど、残りの瞳で頑張って生きて幸せになって欲しいわ」
「女神様でも、失った目を治す事はできないのですか?」
腕に抱く獣の瞳は大きな傷でふさがれ、残る瞳は今は寝ており瞑られていた。
「奇跡は万能ではありません、失ったものを無理に取り戻す事は時の因果と死んだ者達を乱す事につながります、たとえ死に逆らい失ったものを治す事が出来るとしても、奇跡はむやみに使ってはいけないのです」
「そうですか、難しい事はよくわかりませんが、女神様も行ってはいけない事があるんですね」
「そうですね……」
「それでは」
挨拶をして去っていく村人。私は、村の中腹にある家へ戻る路を進む。あそこであれば、湧き水が湖となっており澄んだ空気でこの獣も過ごし易いだろうと思う。
『クゥ?』
うっすらと目を開け起きる狼。まだ夢現の中なのか、赤い瞳で見つめてくる。
「起きた?今はまだ眠りなさい。元気になるまで体を休めて、それから親の元に戻れるように探しましょう」
言葉を理解したのか、スゥっと再び眠る獣。癒しの女神は、獣を大事に抱えながら自らの棲家に戻っていくのだった。
それからしばらく時は流れ、別れの時はやってくる。
『メガミサマ、オイテカナイデ』
『ヒトリハ、イヤダ』
「ごめんなさい、私達の世界へあなたを連れて行く事はできないわ」
銀髪の女神ユルキイアは、一匹の獣を撫でながら別れの言葉を告げる。あの子犬のようだった獣は長い年月を経て、今は立派な狼へと成長していた。
「もう、遊んであげる事も出来ないわ。結局、親とは会えなかったけれど、あなたを受け入れてくれる仲間はいてくれる。そして村人たちも」
そう言う女神が見つめる森林の先には、こちらを見つめる数十頭の狼達の群れがあった。
「私達、神々は恩恵を人々に与えすぎてしまった。良かれと思って授けた力は暴力と互いに争う種としか成らなかったわ。そこで、私達は人々の前から姿を消し元にいた世界へ戻る事に決めたの」
普通の狼であれば言葉を理解するのは難しいだろう。しかし、隻眼となった神痣を持つ狼は、人々の言葉を理解し、月日が経つにつれて、女神に好意を寄せていたのだ。
『イヤダ、ワカレハ、イヤダ』
「きっと、幸せはどこにでもあるわ。そして、私達には思い出がある。この村をいつまでも大事にして頂戴……ス……ゥ」
狼から手を離し、光の粒となって消えていく女神。最後に読んでくれた名前さえも聞き取る事は出来なかった。永遠の別れを感じた狼は、いつまでも空へと叫んでいたのだ。
いつの頃からか村に噂が広がっていた。村に向かい森を切り開き商売しとうとする隣町の領主が、狼に襲われたと言うものや、ゴブリンと狼が争っていて村の商人が運良く難を逃れたというものだ。その群れの先頭に一頭の隻眼の狼がいた姿を見た者も少なくなかった。
しかし、時の流れは、女神の願いさえも歪めていく。
『メガミサマ、ニ、ステラレタ』
『アレホド、スキダッタ、ノニ……』
『コレホド、クルシイナラ、ワスレタイ』
一頭の狼は今夜も思う、好きだからこそ報われない思いは憎さへと変化していく。会いに来てくれない、声を掛けてくれない、もう優しく撫でてくれることも無い。
そして、溢れる好意は憎しみへと変化する。昇華されない願いは心の中に積もりより硬くなっていったのだ。
ある日、数日前から女神の力を近くに感じるようになった。女神様が再びこの世界に来た感じではない。自分と同じ存在、女神の祝福を受けた者が近くにいるという感覚だった。
そう、はるか昔にメガミと過ごしたあの村の方向から……。
『アア、メカミヨ、マダ、コノセカイヲ、ミテイルノカ?』
『ワカレノ、ゲンイン、シュメリアヲ、フタタビ、アタエテイルノカ?』
狼の思いに答えるものは誰も居なかった。
女神の恩恵を感じる事ができる懐かしさよりも、怒りが込み上げてくる。神痣を持つ愚かな人間達による争いが元で、女神はこの世界を去ったのだ。それなのに、再び人間に力を授け、これ以上自分から何を奪うのか。自分は忘れられ、孤独に心を痛めているのに、他の者に関心をよせる女神が恨めしく、力を授けられた者が羨ましく妬ましい。
そして、その時はやって来た。あの日の出会いは偶然だった。村から出てきたとはいえ盗賊の臭いと雰囲気の異なる商人を襲っていたあの晩に、あの男と出会ったのだ。
数人の仲間を連れ始めは力の差は均衡していた。しかし、その均衡も夜の闇による相手の苦手とする時間の影響が大きかったのは明らかだった。一気に自分があの男を組み伏し襲いたい衝動を抑え、数頭を向かわせたが返り討ちにあったことで、もうすぐ夜明けだという時間の限界だった。劣勢へとこちら側が陥る前に撤退したのだ。
『ナニモシラヌ、アワレナ、ニンゲン』
『ジブント、オナジ、ミズノ、メガミノ、ニンギョウ(玩具)メ』
声には出さない、思念であの男を睨みながら。女神に会ったのだろうかという羨ましさ、神痣を互いに授けられたという悲しさ、女神の関心を受けたと思われる妬み、そして、自分は孤独では無いのかも知れないとわずかな希望を内心抱けたのだ。
そして今日、あの時に居た人間の匂いが街道を通るのに気づき興奮と喜びに支配された。そして一目散に駆けたのだ。しかし、中腹で人間達に追いつくと予想外の人間二人で、思っていたあの男はいない。嬉々とした期待は落胆に変わってしまった。
『アア、アノオトコハ、メガミニ、アエタノカ?』
『メガミハ、ジブンノコトヲ、オモイダシテ、クレテルダロウカ』
一匹の隻眼の狼は今日も夜空に向かい悲しみに咆哮するのだった。




