12
カタン
日も落ち、蝋燭の明かりが室内を照らす中、ユキアは呆っと視線を彷徨わせ、洗っていた木皿を落した。
「―――はぃ。―――分かりました。――大丈夫です」
誰にともなく宙を見つめたまま片言の返事を返すと、見上げていた顔を正面に戻した。
その時には、焦点を失い呆然としていた視線も正気に戻っており、落とした木皿を何事も無かったかのように再び洗い他の皿と同じく立てかけた。
「ユキア?どうかしたの?」
「いえ、お母さま。何でもありません」
「え?そう……」
ユリアは、「そうなの?」と言おうとして、振り返り返事をするユキアに息を飲んだ。
つい先ほどまで、夕食後の食器を洗っていた娘の雰囲気とは異なっている事に気付いたからだった。
「えーと、お母さま、友達と……そう、街に行こうと誘われていたんです。行っても大丈夫でしょうか?」
「……いつ行くのかしら?」
「迎えに来ると言ってましたから、そう遅くないと思います」
「危険な事は……」
「大丈夫です。結構強い友達なんですよ。噂になるほどには」
ユリアは娘ユキアの瞳を見つめ、返事を言い返せなかった。
雰囲気だけでなく、話し方さえ違う。指摘・問いただす事にさえ意味をもたず、そうある事が自然であると自分が理解している事に気付くユリアだった。
最近、タモトさんが首都への呼び出しにあってから、元気が無かったユキアである。
夫からの連絡も無い事は、大事無い事とは思うが、この娘の変化が何かの徴候なのではないかと心配してしまう。
ワォオオオオンー
「あらあら、もう気づいちゃったのね。白たら」
ユキアは肩をすくめると、荷造りをするからと自分の部屋へ行ってしまった。
「本当、今年は色々ある年ね。あの人に話すことが多そうだわ」
ユリアは溜息をつくと、頬杖をつきながら夫の事を思うのだった。
キイア村から馬車で7日北上した首都のさらに北、迷いの森を超えると2000mを超える山脈が連なる。グランドホーンと呼ばれる最高峰4000mに及ぶ頂きを越えた向こうに、その場所はあった。
山頂より続く急な斜面の傍らに火口を有し、はるか昔に造形された溶岩によって作られた洞窟の中に一角を持つ竜が座していた。
周囲は金銀財宝の類は無く、岩に苔むし、岩の間より差し込む光だけがその姿を照らしだしていた。
「一角様、今日も我ら竜の民に安寧をお与えくださり、ありがとうございます」
ベリーダンス風のドレスに身を包んだ、白い鱗を持つ竜人の女性が跪き、竜への感謝を表していた。
煽情的な肌の露出を控えた衣装は、傍から見ると薄いベールを掛けた様に見える。
「……リャナンよ。我は祈りの対象では無いと、言っておるではないか。真に祈るべきは貴きフレイラ様であろうに」
「もちろん、フレイラ様には朝を迎えれる感謝もお祈りをいたしております。一角様には、一日を無事に終える事が出来た感謝の為にございます」
「ほんに、優しき子よの。負担であろうに、我に供物を持ってきてくれる村の物にも感謝を」
返事の代わりにリャナンと言われた女性は再度跪き、頭を垂れた。
微かに見えるベールの隙間から、白い皮膚と白髪、頬や腕の一部に虹彩を反射する鱗が見える。
「ところで、まだ良き人は連れてこぬのか?」
「……まだ15の歳でございます。今しばらくは一角様のお世話をさせて頂きたく」
「そうか、初めておうた時から幾分と成長したように思えたがの」
「一角様から見れば、我らの成長は微々たるものでしょうに」
「些細な事も、この歳には面白き事よ」
和やかな雰囲気の中、二人?いや、一人と一匹の竜とのやり取りはいつもの事であった。
『うあー何?このほのぼの感』
『フレイラ様!』
「ぇ?女神フレイラ様?」
笑みを浮かべていたリャナンも、突然聞こえてきた雰囲気を遮る声に驚きの声をあげた。
一角と呼ばれた竜も、驚いたように首をもたげた。
『久しぶりね、ホーン。元気にしてた?』
『無事息災に御座います』
『それはよかったわ、そこに居るのが?』
「巫女を務めておりますリャナンと申します」
『そっかそっか、良かったわ。ありがとうね。問題なさそうだわ』
「ありがとうございます?」
恐れ多くも、まさか女神の声が聞こえ話が出来るとは思っていなかったリャナンにとって、話しかけられる内容に思考が追いつかず、何かの問題が解決し感謝されている事だけは理解できた。
『それで、何か大事が御座いましたか?』
一角はただ雑談に女神が来ただけではないと思い尋ねたが、いや、考えてみれば主は何も用は無くても、話しかけてくるかもしれないと自信に揺らいでしまう。
『そうそう、ちょっと用事に降りたいと思ったんだけど、さすがに出来ないから、ホーンか巫女ちゃんの体を貸してくれないかな?と思って』
『また……突然の事ですな』
『そう思うでしょ?私もそう思うしね。で?どうかしら?』
『フレイラ様の力になれるのであれば嬉しき事ですが、私の身体の大きさではやや不自由過ぎるでしょう。リャナンではどうですか?』
「え?一角様?」
『そうよねー、向こうもユキアって子が来るらしいし、リャナンちゃんなら十分。うんうん』
姿は見えないまでも、上から下まで見られている感じに襲われ、リャナンは体を緊張させてしまう。
『良いかしら?リャナンちゃん。しばらく体を借りても?大丈夫よ、嫌な時は直ぐに自由に戻れるわ』
『リャナン、急な事で戸惑うと思うが、良い経験になるかも知れぬぞ』
急に女神フレイラという声が聞こえ、眷属である一角様の認知もある中。断る理由さえなかった。ただ、リャナンにとって本当に急な事で理解が追いつかなかっただけだった。
「大役、嬉しい限りに御座います。私に出来る事が御座いますれば、この体お使いください」
『うんうん、大事にする!何か気になる事が有ったら教えてね』
じゃあ目を閉じてと促されリャナンはいつも通り祈りを捧げる姿勢に両手を組み、すべてを受け入れる。
やや熱いほどの感覚が体の中に溶け込み、自然に開いた視界にはリャナンにとって夢を見ている様に感じた。
『リャナン……フレイラ様?』
一角がためらい気味に女神の名前を言い直す。巫女の姿から生じる雰囲気は、明らかに15歳の巫女のものでは無かったからだった。
「はあ、久しぶりね。この感じ」
「主よ……」
一角は懐かしさ、戸惑い、これからを考えると、喜びだけでなく苦笑している事に気付いた。
「さあ、行きましょうか!」
そういうリャナンの体に入ったフレイラは、視界を遮るベールや胸を隠していたフリル付きのスカーフを煩わしそうに払い取ると、絶対にリャナンが行う事が無い腰に手を当てた仁王立ちで宣言した。
『きゃあああ、フレイラ様ぁぁ、やめてぇぇ』
『……リャナン、諦めが必要だ』
一角の虚しさを含んだ声がリャナンの心の中に響くのだった。
直径20mはあろうかという大きな木の洞うろに住居が作られ、階層を重ね限られた広さに長年の機能性を重視しているのが一目でわかる作りだ。
住居としての役割を持たされた木々は樹齢数千年では、育つことが叶わないほどに大きく、それぞれの家々・木々をつなぐ為に蔦が結ばれ移動できるようになっていた。
その中の一軒、いや、一洞と言えば良いだろうか。
ランタンの中に蝋で灯された明かりが、削られた年輪の凹凸を揺らし影を波打たせていた。
130㎝程の小柄な女の子が、木のテーブルに突っ伏しながら夢の中にあった。
顔の前には倒れた木製のコップがあり、酒精が周囲に漂いながらテーブルから床へ水滴を落していた。
『……まさか、この子が……冗談ですわよね』
「うふふ……ぐふっ、うぅーじょおーだん、じょおだんですってばぁ。あは、あはは」
『……』
リークは、起こすべきかどうか悩み、姿は見えないまでも頭を抱えたい気持ちでいっぱいになり、すぐにでも帰って寝てしまおうかと言う気持ちになった。
机に突っ伏した少女は、肩まで伸びた癖のある赤毛を頬に付けながら、何故かニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべてながら返答していた。俗に言う寝言である。
『参りました。まだ、夕方と言っていい時間帯ですのに、先代から代替わりしてまだよくこの子の事は知りませんが、朝の時間はきちんとしていますのに、お酒を飲むとこうなるだなんて』
「ふふふ、酔ってませんよぉー、まだ、まぁだ、だぁいじょうぶっでぇす」
泥酔しながらも、何故かリークの言葉に返答する少女は、いっこうに目を覚ます気配がなく、このまま話を進めていいものかと悩んでしまう。
『他には誰も居ませんわよね……』
リークは、この少女以外巫女が居ない事も十分に理解していた。ただ、確かめたかっただけだ。先代の巫女は、この子の母親であり、つい先日体調を崩しすでにこの世に居ない。
以前は、お酒など飲む子では無かったはずだ。子供と言っても15歳を超えており、成人している年齢ではある。小柄な姿はリョースエルバン族の特徴であり、色白でやや尖った耳が垂れ下がっているのが、先代の母親に似ていた。
『えーと、ササラでしたわよね』
「そうですー、ササラちゃんでぇーす。よぉく知ってます、ねえぇ、ムニャムニャ」
『あなたを女神の巫女として、お願いが有るのです』
「うふふふふ、そぉ、巫女なんです!よぉ、ササラちゃんは凄いのぉだ」
『……ハァ』
リークは今までに感じた事の無い重圧ストレスを感じ、自然に溜息が漏れる。
あとの二人の女神であるお姉様達の巫女がどの様な子かは知らないが、今すぐにでも交代して欲しい。きっと今の状況よりはましなはずだから。
「どぉーしたんですかぁー溜息はぁダメ、ダァメです。幸せがぁ、幸せがぁぁ、にげ、にげちゃいまぁうううぅ……グスッ」
『……しばらく、私リークに体を貸していただきたいのです』
ようやく言いたいことを言えた事に、少しばかり達成感を感じてしまう。
ここでやはり不参加ですと言っても、フレイラお姉様が無理にでも引っ張っていくだろう。それでも、私は良いかもと思ってしまうけれども、出来れば私の巫女もしっかりして欲しい。
「おぉーリーク様ぁ。あは、あははは。私ついに女神になるの巻まき」
ニヘラと笑う少女は、きっと他の誰にも見せることが出来ない姿だった。
お付き合いしている異性が居たら、百年の恋も冷めて凍ってしまうんでは無いだろうか。
たぶん、彼女は、まだそれ程の人生を生きてはいないが。
『夢と現実の狭間にいる気分かも知れませんね。起きたい時は言ってくれれば、大丈夫ですから』
「うふふ、寝てていいんですねぇ。じゃあ、おねがいしまぁーす」
『お酒のせいですわよね……。もし素だったら……、今度ゆっくり話さないといけませんわ』
リークは、ササラの精神に同調しながら次第に意識が酩酊していくのを感じた。
「うっ……頭が」
むくっと起き上がったササラ(リーク)は、頬に付いた髪を手櫛で整えながら、口唇から垂れる言いたくない液を手の甲で拭う。
言いようのない頭重感が歩行をふらつかせ、壁に手をつき支えながら、テーブルに汲んであった水を口に含む。
「まずは、お風呂ですわ……ハァ」
『めぇ、がぁ、みぃ、になったわぁたぁしぃ、しあわせがぁ、しあわせがぁ……』
飲酒後のお風呂は危険だという認識よりも、身なりを整えたい欲求が勝り、確か下の階に降った雨水が木々の葉から幹の中を通る導管(師管)を伝い貯めてあったはずだと思い出し、階下へと降りていくのだった。