3.岐阜へ連れて帰る
困惑した顔を隠さないまま響は荷物を纏める。荷物と言っても所持品は元から着ていた服だけだったので大した準備は必要もなさそうだった。
「もう、泊めてくれないんですか?」
「ああ無理だ。どうもお前の姿が町中で見られたっぽくて直にここへ警察がくる。そうしたら俺はお縄だし、お前はパトカーで岐阜までドライブ。なら自分から帰った方がマシだろ」
「でも私………………」
響は不安そうに何度も目を瞬かせては、きょろきょろと落ち着かない様子だ。
「安心しろって。俺が送り届けるから」
「え!? 家まで来るんですか!?」
「そりゃ東京から岐阜なんて中学生一人で行かせられないでしょ、普通に」
それに、コイツの両親に言ってやりたいこともある。自分勝手な願望を子供に押し付ける真似を続けさせても子供の為になんざ絶対にならない。
色々と困惑したまま、俺と響は早々に家を出た。午後5時。日が傾き始めて、ビルの隙間から見える水平線が仄かに橙色に染まっている。
そのまま山手線に十数分乗って、東京駅。少しホーム内を歩くと券売機で購入したチケットを発券し、新幹線改札口を通過。響は何も喋らなかった。
少ししてプラットフォームにのぞみ56号が入線してきた。チケットを取ったものだ。
「多分来た時と同じだろうが、ここからは名古屋まで行く。その後は東海道線を使って岐阜だ。響、岐阜駅から家は近いか?」
「……はい、岐阜から一駅です」
「それは良かった。岐阜羽島の方が近いとか言われたらどうしようかと思った」
まあ言っておいて何だがその心配はあまりしてなかった。
響が良いところの私立中学に通っていることは知っている。ただ岐阜にそんな私立中学があるかと言えば恐らくないだろうという予想で、恐らく県を跨いで名古屋近辺まで通っていると睨んだからだ。ビンゴだ。
そのまま新幹線に乗車した。夕方とあって自由席は多少混んではいたが、始発なので余裕をもって席は取れた。響を窓側に座らせ、俺は廊下側に座った。
静かなモーター音を車体に轟かせて新幹線が動き始める。
横を見れば響は座席に凭れ掛かって寝ることに決めたようだった。疲れが出たのだろう。さっきまで慣れない東京の街を歩いていた上に唐突なことだったのでしょうがない。俺も手持ち無沙汰になったので寝ることにした。
東京から名古屋までは映画一本分の距離である。一回、目を閉じれば体感5分で名古屋に到着してしまった。
名古屋駅のホームに降り立つと、東京とは若干違う景色にほんのり心が沸き立つものがある。
ここは愛知県の中心部だからビルが多い景色こそ都会と変わらないのだが、中部だからか空気感が関東と仄かに違う。
「乗り換えて岐阜行く前に何か食べるか」
「そんなことをしてて良いんでしょうか?」
「文句言う奴なんかいねえし良いだろ」
そう言うと響は僅かに安堵した表情になった。実家を前にナイーブになっているのだろう。
午後七時の夕飯に良い時間だったので少しだけ並んで、駅ビルに入っている味噌カツ屋で昼飯を食べた。俺は完食したが、響は昼の油そばが重かったのか半分残したのでその分も俺が食べた。少し得した気分になったが、これも俺の財布から出ていることに気付いてちょっと虚しくなった。
その後は東海道線の大垣行きに乗車。シートには座れることなく、ドア横で立ちながら車窓風景に想いを馳せる。都会と違って名古屋周辺地域を出ると完全に街灯が無くなり暗闇になる瞬間があって、勢いとはいえここまで来てしまったんだなぁという感想をつい抱いた。
新幹線の時のように寝れないため、思わず響のことを考えてしまう。
家に送り届けるのは良い。インターホンを押して、響が呼びかければ両親は出てくるだろう。
その後どうすればその両親を説得できる?
響の言い分を理解させ、母親からの歪な愛情を一般的な方向性に正すには、何を言えば響く?
……駄目だ、それを事前に考えるのは難しすぎる。
やはり出たとこ勝負だ。
考えるのが得意じゃ無い俺が出来る唯一の方法論は、場の空気を上手く往なしてタイミングを計らって言葉を叩きつける、その一点に限る。
無策を結論付けると、俺は響の頭を叩いた。
響は何も言わなかった。
ただ、強張った表情の表面だけ氷解したように見えた。
岐阜に付いたのは20時半を回った頃だった。辺りは完全に暗闇に落ちており、駅前の商業ビルの灯りがここが地方都市であることを主張している。
東京より少ないとはいえ、帰宅ラッシュの時間帯な上に乗り換え駅でもある岐阜駅は、急ぎ足で駆け抜ける人々はそこそこいる。その波に乗って高山線へと進んだ。
「……本当に帰らなきゃならないんですよね」
一時間に二本程度しか走っていないようで、仕方なくホームで20分ほど待っていると、響は固い表情で口を開いた。
「今からでも戻りませんか? ほら、別に咲花さんの家に戻る必要はないじゃないですか。適当な場所に身を潜めてほとぼりが冷めるのを待てば」
「自分で言ってて気づいてるんじゃないのか。そんなのは都合の良い妄想だって」
「……。」
黙ってしまった。
まあ家出した家に戻るんだ、気が重いのは当然の話だ。
それでも何れ帰らなくてはならない。それがちょっと早まっただけである。
「だから、一緒に行くからそんな緊張すんなって」
言ってて無理だろうなと思いつつも背中を軽く叩いた。
駅構内のアナウンスに紛れて、囁くように小さな声で響が何かを言った気がする。
「どうした?」
「手、繋いでてください」
「ほれ」
俺は手をゆっくりと差し出した。響は自分が言い出したくせに中々手を取ろうとしないので、無理矢理俺は手を握った。びっくりしてこちらを見てくるのは無視だ無視。自分から言い出したんだろうが。
電車がやって来た。高山本線は単線で二両編成らしく、行先表示がアナログでやや懐かしい気分に駆られる。随分前に首都圏近郊の電車はデジタル化してしまった。
ノスタルジックな気分に駆られていると、電車が動き始める。原理は良く分からないがモーター音も最近乗っている電車では聞かないような音な気がする。
少し走ると完全に真っ暗闇になってしまった。微かに車内から漏れた光で、外が田園風景であることが理解できる。もうすっかり田舎だ。
すぐに次の停車駅に止まった。俺と響は手を繋いだまま降りた。
周囲を見渡してみる。駅舎はローカル感溢れる無人駅で、畦道のような通りに沿って等間隔で並ぶ電灯は都会の喧騒を知る俺からすると非常に光源として心許ない。やって来た方向を見れば岐阜駅周辺のビルから放たれる光が目立って見える。田舎と都市の距離が近いな、地方都市は。
「ここからどれくらい歩くんだ?」
「大体、20分くらいです」
「了解」
もし一時間とか言われたらタクシーでも呼ぼうかと思っていたが、そこまで遠くなくて安心した。
足を踏み外さないようにコンクリートで舗装された道を慎重に歩く。両隣は田んぼだ。今はまだ田植えシーズンにすらなっていないようで、山の尾根のように盛り上がった土が区画の終わりまで続いている。
電灯と電灯の合間は一際暗くなっていて、コンクリートも時折地震か何かの影響か割れて隆起していた。気を付けないと転んでしまいそうだった。
そんな俺に対して響は特段足元に注意を払うことなく普通に歩いている。勝手知ったる地元ってことだろう。
「この辺自販機も無いんだな」
周囲の光景があまりにも暗すぎて心まで落ち込んできそうだったので、響に適当な話題を振ると握っている響の手がピクリと震えた。
「駅にならありますよ」
「あれ、道中は無かったような」
「歩道橋で反対側に行けば一台だけあります。ただ不便なので、電車待ちで時間がある時に喉が渇いたら使うかどうかって感じですけど」
「へー買い物とかどうすんだ? 駅前何も無いけど」
「そりゃ車ですよ。都内とは違ってスーパーなんか全部国道沿いにあるんですよこの辺じゃ。あとは岐阜駅に行ってもありますね」
「ほーん。コンビニも無いよな」
「コンビニはちょっと行けばありますよ。1㎞弱歩けば」
「ちょっとかそれは……?」
「近い方ですよ。人の往来から離れたところ住んだらコンビニまで歩いて2時間とかザラにありますから」
「そ、そうか」
何処となく自慢げに話す響に俺は曖昧な相槌を打った。実感がいまいち湧かないが、少なくとも車の免許すら取得していない俺じゃこの周辺で生きるのは非常に難儀しそうだということだけは分かる。
再度沈黙が下りた。
一度黙ってしまえば風の音と虫のさざめきだけが周囲を支配する。偶に家の前を通りかかったとき、家内から誰かの笑い声が響き渡る。岐阜から一駅というのに長閑な田舎という印象が強い。
「……怒ってますかね、お母さん」
ふと、隣から不安交じりの呟きが自然の吐息に混ざった。
「さあどうだろう。心配の方が勝ってるかもしれないぞ」
「いえ絶対に怒ってます。自分の思い通りに行かないとヒステリーを起こすんですお母さん」
「じゃあ怒ってるかもな」
「はあ……咲花さんは適当すぎます。もっと慰めてくださいよ……」
「所詮他人だしな。響の母親のことは知らんよ。俺が知ってるのは響のことだけだ」
その言葉に響が俺の顔を覗き込んだ。少しの間歩きながらそうしていると、繋いでいる手をより強く握りしめる。
「私、生まれて初めてお兄ちゃんが欲しくなったかもしれません」
「残念だったな、可能性があっても妹か弟だけだぞ」
「じゃあ咲花さんが私のお兄ちゃんになってください」
「全然じゃあ、なんて気軽なもんじゃないんだけど」
「咲花さんが私の家に婿入りすれば可能ですよね?」
「婿入りって誰にだよ」
「お母さん」
「ボケ。幾ら美人だろうが人妻は二次元とAVだけって決めてんだ。揉めると面倒だから」
「……考え直しました。咲花さんはお兄ちゃんって感じがしませんね。クズだしカスだし。上に立たれると恐ろしく面倒な人間性を発揮しそうなのでお兄ちゃんにするのはやっぱり辞めときます」
「何なんだよお前は」
俺だって響の兄貴になる気なんかねえよ。そもそも妹って言うのが嫌だ。なんだか必ず守らないといけないみたいな庇護義務が発生するような気がして、そんなのは願い下げだ。
我ながら非常に空気の読めないことを考えていると、響は立ち留まった。
疑問に思った俺が声を掛けるよりも先に繋いでいた右手が割れ物でも扱うかの如くそっと両手で包まれて、些細な疑問は雲散霧消してしまう。響の手は春先の夜の外気温よりも冷たく、ひんやりとしていて、初期微動みたいに小刻みに震えている。
「なら結婚ですね。咲花さんみたいな人間に私みたいな容姿も性格もそこそこ良い女の子の相手が出来るなんて快挙ですよ、泣いて喜んでください」
「断る。そもそも年齢的にまだだろ」
「2年後ってことですか、分かりました。それまでに結婚届は用意しておきます」
「すんな。詭弁だっつーの」
言葉とは真反対に、触れ合っている響の皮膚から目の前のイベントに対する鈍重な感情がありありと伝わってくる。
冗談に付き合うことでそれが多少マシになるっていうなら付き合ってやってもいいが、きっと違う。これはただの現実逃避だ。
俺は反対の手で自分の後頭部をガシガシと掻いた。それから溜息を下した。酷いことを言われるんじゃないかと危惧したのか響の両手がぴくりと跳ねた。
「言ったろ。響は強いんだ。年齢以上に、俺以上に賢いんだ。何も怖がる必要はねえよ。それでも駄目だったら俺に言えばいい。俺は兄でも何でもねえからなんも出来ねえけど、こうして一緒にいることは出来るから」
「……分かってました。甘言ばかり振り翳して、いざとなったらそうやって突き放すのが咲花さんだと」
「そりゃそうだろ。俺は響の友人だが響の他人だ。友人の範疇を超えて土間の敷居を跨ぐことはしねえよ」
「ズルいですよ。普段は飴を与え続けて、いざとなったら一線を引くなんて」
「それが大人ってもんだ。社会科見学出来てよかったな」
と、ちょうど話に区切りが付いたところで『鳴見河』と表札が掲げられている二階建て住宅が目に入ってきた。響の実家らしい。俺は横にいる響にバレないように生唾を吞み込んだ。俺はこいつの兄貴ではないが、それでも年上が緊張感を露わにしていたらより響が不安を感じてしまう。
「あっ………………」
手をパッと離すと響が名残惜しそうに声を上げた。家出娘が知らない男と手を繋いで帰ってきたらあらぬ誤解を招くことは簡単に予想がつく。ここから先は、もう俺は隣にいてやることしか出来ない。
それでも愛犬が死んでしまったみたいな顔をするもんだから、俺は仕方なく懐から何かないかと取り出した。
握りしめて安心できるような、俺の代わりのようなの役割を果たせるもの。
何か無いか何か無いかとドラえもんみたいな気持ちになりつつポッケを探っていると、ふと指に布地が引っかかる。ハンカチとかスカーフとかだろうか。それなら都合が良い。
見ないまま俺はそれを引っ張り上げた。
「代わりにこれでも持っとけ」
そう言って出てきたのは猫耳カチューシャだった。
……懐に入れたまま洗濯機にぶち込んだのか。
「この場面でそれ普通渡しますか? TPOってご存じですか?」
「ごめん、これしか無かった……要らないか、普通に」
「全く……しょうがないから貰っておきます」
流石に跳ね返されると思いきや、顔こそしかめっ面だが満更でもない声で響は猫耳カチューシャを受け取った。
響は何か思いついたみたくにやりと笑みを浮かべて受け取った猫耳カチューシャを掲げると、すぽんとそのまま自分の頭に装着する。
………………ん?
「なあ響」
「なんですか咲花さん」
「今それ付ける必要性ってあったか?」
「そういうつもりじゃなかったんですか?」
「いや保護者を前にしてその娘に猫耳カチューシャの装着を強いる奴なんていねえよ!」
それをされると俺がまるで変質者みたいに見られてしまう気がする。
「でもその……ちょっと安心するんですよ。咲花さんが傍にいるみたいで」
照れるように響は言うと、目をインターホンに向けた。
あの、本物の俺も横にいるんだけどな?
そういう意図を込めてチラチラ見ていると、響はふぅと微かに息を吐いて。
「鳴らしますね」
「待て待て待て待て」
俺は身長差の暴力により響の頭の上に乗っていた猫耳カチューシャを取り返した。
「やっぱ没収で」
「ちょっと待ってください! それってもう私のものですよね!」
「ここで付けるのは話が違うだろうが! それをやられたら俺どう自分の立場を釈明すればいいかわかんねえよ!」
「私の結婚相手ですって名乗れば万事解決じゃないんですか!」
「解決どころか万事勃発するわ! コラ取ろうとするな!」
「今まで散々揶揄われた仕返しです!」
「俺の方が万倍クズとかカスとか罵られてるよな!?」
「事実陳列罪は刑法にも民法にも定義されてませんから無罪です!」
良く分からないことを言いつつも右手で高く掲げた猫耳カチューシャを目掛けて響はぴょんぴょんと俺の下を跳ね回る。状況だけ見れば意地悪されている小学生みたいだが、実際に意地悪されているのは絶対に俺の方だ。猫耳カチューシャを付けた響と成人男性の俺のコンビを見て、まず響の両親がする行為は秒も掛からず見当がつく。───警察への通報だ。
「諦めろ! こんなの後であげるから今は目の前の出来事に集中しろよ!」
「私、それが生まれて初めての男の人からのプレゼントなんです! 適切に使うので返してください!」
「適切に使っちゃだめだからこうしてんだよ! プレゼントなら後でまたあげるから今は───」
と説得を続けながら響の手から猫耳カチューシャを遠ざけていると、ピンポーンというチャイムが鳴った。響が押したのだ。いつの間に……!
「隙ありです!」
「あ、おい!?」
刹那の油断を逆手に取った響は俺の手から猫耳カチューシャを奪い取ってしまう。
猫耳カチューシャに対して何なんだこの執念は!
再度奪取すべく俺は響の頭に乗せられた猫耳カチューシャを狙って手を振るう。しかし身長差や、すばしっこい身の熟しもあって中々捕まらない。インドア派の癖にどうでもいいところで運動神経を発揮すんじゃねえ!
そうこうしている内に白熱してきた猫耳カチューシャ争奪戦は、
「……響?」
父親らしき白髪の中年男性が駅とは逆の方向から自転車に乗って現れたことで幕を閉じた。
同時に俺の人生も幕を閉じた気がする。
……これ、俺大丈夫だろうか。通報されないよな?
状況に見合わない懸念を抱いていれば、響は父親がやってきたことで動揺を顕にして、猫耳カチューシャから手を引いて俺の背に隠れた。
「お父さん……」
響の父親は複雑そうな声音を発する響に目を遣って、それから俺の方を見た。
「そちらの方はどなただ?」
「ええと、俺は家出していた期間響さんを保護していた者です」
「……それはご迷惑をお掛けしました」
真意を探るような鋭い瞳で俺を牽制しながら、響の父親は俺たちの前を通り過ぎると家の鍵を開けた。
「取り合えず中で話をしましょう。響も疲れたろ、言いたいことは山ほどあるから家に入りなさい」
「……うん」
猫耳カチューシャを右手でポケットに押し込んだ響はすっかり先程までの威勢を失って、蚊の鳴くような小声で返事をした。
─── ─── ───
響の父親によって案内された鳴見河家は外から見た印象よりも大分大きかった。玄関は大人五人ほど立っても余裕がありそうな広さで、細長い廊下を抜けると30畳はありそうなリビングスペースが出迎える。開業医という職業がもたらす収入の豊かさを伺える程度には中々の豪邸だ。
リビングには響の母親と見られる女性もいた。年齢は50歳近いだろうに、一見すれば30歳くらいにしか見えないその顔立ちは完全に響が大人になればこんな感じなんだろうと思わせる造形をしていて、しかし今は何かを堪えるように響に険しい視線を送って導火線に着火した爆発寸前のダイナマイトに見えた。全く俺のことは気に留めない様子だった。
響の父親は俺をダイニングチェアへと案内すると、自分も対面に座った。響の母親もその横に座り、響は俺の隣に座る。経験したことはまだないが圧迫面接とかきっとこんな感じなのだろう。
「すみませんね、手狭な家で」
謙遜するように響の父親は言った。これが手狭なら俺の2LDKはうさぎ小屋だ。俺の全く想像できない世界でこの家族は生きているらしい。
「いえ、これだけ広いと羨ましい限りですが。それよりそちらは響さんの母親ですか?」
「はい。私は鳴見河大河、こちらは妻の鳴見河幸です」
「失礼ながら名前で、大河さんと幸さんと。改めて俺は早房彰と言います」
凄まじい速度で響がこちらへ振り向いて「苗字違うじゃないですか偽名だったんですか!?」と言いたげな変な目をした。そりゃインターネットのハンドルネームなんだから本名使わないだろ。寧ろ響に関しては最初に自己紹介されたのもそうだが、名前がハンドルネームと同じっていう現代っ子としてはありえないネットモラルの低さにびっくりしたわ。まあ思うだけで指摘はしなかったが。俺は個々人の自由ってやつを尊重する清く正しい大人である。
「早房さん、この度は響を連れてきて頂きありがとうございます。因みに保護というのは具体的に何日ほど?」
「2週間程度です。家に帰りたくないお母さん怖いと言うので非常に心苦しいながら大事なお子様をお預かりしていました」
「家出したほぼその日からですか」
机の下で足を軽く踏まれながらも答えた。響的にはそんな事は言っていないという抗議のようで、それは非常に真っ当の主張だ。俺もそんな発言は聞いたことないし。こう言っておけば俺の悪印象を減せるかなぁという打算に基づかれた言動である。許せ。
「なぜ保護をされたので?」
「ゲーム仲間だったんです。お恥ずかしい話、その日は酔った勢いで話していて記憶が混濁しているんですが、どうやら響さんが家出するのに俺が家に来いと言って住所まで教えたみたいでして。決して他意はありません」
怪訝な顔をしながら大河さんはやや難しい顔をした。それもそうだろうと思う。自分の娘が知らない男の家で二週間も泊まったら当然悪意を疑う。ただ実家まで響を連れてきた俺がそこまで悪人に見えないために露骨に表情に出すことも出来ず、心配と困惑と敵意を丁度一つずつブレンドしたような難儀な表情をしているんだろう。
「家はどちらに?」
「東京で一人暮らしをしてます」
「東京まで……!?」
驚いた顔で大河さんは響に視線を送る。
「響、なぜそんな遠くまで家出なんてしたんだ!」
「お父さんは関係ないでしょ」
「家族だぞ! 関係あるに決まってる。居なくなったときは心配したし、本当にどうしようかと俺は思った」
「普段私のことはお母さんに任せきりで無関心なのに? 咲……早房さんがいるからって良い父親面しないでよ」
痛い腹を探られたように大河さんは渋い顔をして黙った。
俺はここにいていいんだろうか。
非常に複雑な他人様の家庭環境が垣間見えて割と肩身が狭い。
「別に心配しなくていいから。お父さんが心配するようなことは何もなかったし」
響は更にきっぱりと答えた。大河さんはそんな娘の言葉に何か言おうと口を開いて、きっと響に対する放任主義は本当だったのだろう、後ろめたそうに双眸を響から逸らして口を閉ざした。
腹の底から冷えるような嫌な沈黙が場を支配する。
響は父親には矢鱈と強気だったが、すぐに両手を太ももの上に置いて俯いてしまう。大河さんは時折何か言葉を紡ごうという意思は表情から感じられたが、結局何も言わずに静寂を選んだ。
「勉強はどうするのよ」
だから母親である幸さんが次に口を出すのは必然だった。
幸さんは響のことを睨むでもなく、かと言って心配そうな慈愛の瞳で見るでもなく、さながら事実を聞いただけと言わんばかりに感情を露わにせずただただ淡々とした口ぶりで言葉を発した。
「それは……やってたよ。ここ二週間、毎日」
それは本当だ。響がリビングで勉強するもんだから俺は毎日やっていたことを知っている。
しかし幸さんは更に言及する。
「学校だって二週間分の遅れが出てるのよ? どうするのよ、あの学校の二週間なんて簡単に取り戻せるの?」
「それは……」
「それに二週間分の学費、無駄になっちゃったじゃない。無駄よね」
幸さんが大きくため息を吐くと、響の方が上下に震えた。
「本当にしょうがない子ね。下らないことをして自分から不利になるなんて信じられない。ゲームだってそう。あんなのやるだけ時間の無駄じゃない、無駄。オマケに家出先まで見つけちゃって何してんだか。お母さん、響のことが分からないわよ。そんなことしてて本当に大丈夫だと思うの?」
「それは……また今日から頑張るから」
「頑張って? 頑張って頑張って……何回聞いたかしらその無責任な言葉! 頑張って模試の成績が上がるならじゃあ頑張りなさいよ! 頑張っても駄目だから成績が上がらないんでしょ! このままじゃ医者にだってなれないわよ! 本当にそれでいいの!?」
響がモゴモゴと言いづらそうに答えると、突如として幸さんは感情を爆発させて金切り声を上げた。
その大きく人を圧迫するような叫びに、響は目を瞑った。
なるほどと俺は理解した。
響がNoと言えない理由がこれか。別に響は特段医者になりたいとか医学部に進学したいとか考えている訳ではないはずで、なのにそれを言葉に出来ないのは母親に怯えて意見が出来ないから。話し合いにすら持ち込めず、挙句の果てには折檻すら受けるのだろう。その証左が白いお腹に異様に浮かんだあの青痣だ。
「幸、その辺で」
「貴方は私の教育に邪魔してこないでくれますか!? 今までずっとそうしてきましたよね!? 今更響のことを一番理解している私を押しのけて響の教育に関わろうだなんて出来ないでしょ!」
「そ、それはそうだけど」
「だったら口を挟まないでもらえますか! 響の教育担当は私です!!」
力関係もやっぱり大河さんが尻に敷かれているようで、少し反駁こそしたがすぐに大人しくなってしまった。
「家出するくらいなら学校に行きなさい! 宿題をして自習をして分からないところは分かるまでトライ&エラー、そうお母さん教えたわよね! ああもう何で理解してくれないのかしら、イライラする!!」
「お母さん、私頑張る、頑張るから」
「頑張るのは当然でしょ! 貴方の問題は一貫して頑張り方なの! お母さんからすれば取り組む姿勢に真剣さがまるで足りてない!」
幸さんは徹底的に響を詰るように怒声を上げる。響が何も言えないのは当然だ。
……これはまるで洗脳だ。
怒声を浴び続けた響の自己肯定感は下がり、下がれば下がるほど幸さんの言葉の重みは増すだろう。
母親の言う言葉は聞かねばならない、母親の言葉に逆らってはならない。
だがこんなことをして、本当に響のためになるとでも思っているのだろうか。
そうやって徹底的に自信や嗜好を下ろし金で削られ続け、自己否定を無意識に刷り込まれた先にある姿は、感受性が死んだ幽鬼のような大人だ。何をしても心が動かず、人間関係はボットのような定型文句の会話しか熟せず、社会的な繋がりが希薄な人間になってしまうと俺は思う。友人の一人もいない理由も自分の非にしては自己批判を繰り返し、毒となって心の健康を荒ませ、繰り返すうちに精神疾患に陥る。俺にはそんな将来が透けて見えた。
赤の他人ならそれでも放っておいたが、響は友人だ。一年間一緒にゲームもしたし、何だかんだと二週間楽しく一緒に暮らした仲だ。
そう思うと俺は口を挟まずにはいられない。
「あの、幸さん。言いすぎだと思います」
「……すみませんが家庭の話に入ってこないでもらえますか」
「いえ、明らかに言い過ぎなので無理やりにでも介入させてもらいます」
俺の言葉が気に入らないのか強く睨まれた。美人の怒り顔は怖い。でも響が俺を縋るような目で見るから、俺にビビってる暇なんてない。
「響さんが進学校に通われていることは存じてます。でもなんで医者になること前提に話をされているんですか?」
「そんなことも知らずに横から入ってこないでもらえますか!?」
「なら教えてもらえますか。正直貴方の教育は教育じゃないですよ」
「失礼な……! だったら何だって言うんですか!」
「まるで子供に自分の第二の人生を歩ませようと必死な大人の顔ですね。それが響さんのためにならないのがお分かりにならないんですか?」
「部外者が知ったような口で言わないでください!」
「部外者だから言えるんですよ」
一瞬表情が強張った幸さんに、俺は更に続けて言う。
「響さんは医学部を目指していません。いえ、正確には母親である幸さんが言うから目指しているだけで、自分の意志を持ってやってるわけじゃありません」
「そんなの私も知ってます! 響のことは貴方なんかよりよっぽど理解しているつもりです! でも将来的な幸せを考えるなら、絶対に今から勉強を積んで医学部に行かせる方が良いに決まってます! なにせ医者は士師業です! 夫がそうですが、資格を取って経験を積めば生涯豊かに暮らせるんですよ!?」
「じゃあ今の幸せは捨ててもいいと? 幾ら勉強が得意でも、特段興味の無い職業を血眼で目指して現在の学生生活を受験一色に調教仕立てるのが幸福だと?」
「別に興味なんて無くたって良いでしょう! なりたいものがないのであれば取りあえず医者を目指しておけば後からどうとでもなるんですから!」
やはりと言うか譲らない。
自分が正しいと思い込んでいるみたいで、きっと今の生活を送る上で培われた価値観なのだろう。
「でも俺は響さんが勉強をあんなにはしたくないと言ったのを聞きました。幾ら学業と言えど程度の限界があるんじゃないでしょうか」
「さっきから何ですか貴方は……じゃあ響、貴方の夢は!」
突然名前を呼ばれて響は大きくピクリと肩を震わした。
「……と、特にないけど」
「なら勉強なさい! 沢山勉強して、なりたいものが出来たら認めてあげるわ」
「……。」
響は諦めた顔をしながら緩慢な動きで頷いて、視線を下に向ける。
きっとこれが何時もの光景なのだろう。
そう思い反論を考えていると、俺のシャツの裾が引っ張られた。目の動きだけで確認すれば、響がぎゅっと子供みたいに握り締めていた。
「……したくない」
「え、なに?」
「お母さん、私、あそこまで勉強したくない」
言葉にならず息が掠れた声だけが空間に響いた。
───勇気を出したんだな、響。
「今、なんて言ったの響」
「勉強は、ちゃんとする。でも1日10時間もやりたくない」
「我儘言わないで! 貴方には立派なお医者様になるって将来が!」
幸さんの声を遮るように大河さんが咳払いをする。
「もういいだろう、幸。勉強は強いることじゃない」
「貴方まで何よ! 貴方が響にゲームをこっそり与えたのは知ってるのよ! 勉強の邪魔ばっかして!」
「あんまり言ってこなかったけどね、僕はそこまでする必要はないと思ってるんだ。勉強は一定の合格ラインに達していれば、常日頃から目前の数字を追いかける必要なんてないだろう。そんなの心にも良くなければコスパも悪い」
「今更何を……」
「気付いたんだ。忙しいからって、ずっと幸に任せきりにして頼り過ぎていたよ。僕が悪かった、謝るよ。これからは出来る限り僕も響との時間を作る。だから思い詰めなくていいんだ。響、それでいいね?」
大河さんは意志を確かめるように響に視線を振った。それに対して響は間を置いて、小さくうんと頷いた。幸さんは何も言わなかった。
特に反論も出て来なかったので、大河さんは〆るみたいに両手をパンと鳴らした。
「じゃあ、これで家族会議はお終い。でも家出の件は明日きっちり詰めるからそのつもりで」
笑顔で言う大河さんに響は非常に嫌そうな顔をした。
こればかりは仕方ないと思うので、良い機会だ。
俺は響の耳元にバレないようにさっと口を近づけて囁く。
「DVされてたこと、話してないんだろ。早いとこ大河さんに言っておいた方が後の為だぞきっと」
「何故それを知って……!?」
一瞬慌てた様子を見せて、親から不審がられると思ったのかすぐに響は平常心を取り戻した。
俺は元気づけるように響の背中を2度ほど軽く叩いた。
─── ─── ───
『捕まらなかったんだね彰』
で、今回の話のエピローグである。
響を実家に送り届けた後、岐阜に泊まることなくほぼ終電で自宅へ帰ってきて3日目が過ぎた。
リビングはいつも以上に広くなって、響が住んでいた痕跡も徐々に翳りを見せてきた。戸棚に置かれたものは突っ込みっぱなしで整理していないし、掃除も週に一回でいいやと考えていれば色々なところに埃が薄っすら積もり始めている。そう言えばゴミ出しも今日はしていない。普段なら外に出れなかった響に急かされてゴミ出しに俺が行っていたのだが、今はもうそんな急かしてくる存在はいない。
急に虚しいほどに手広になった2LDKをベランダから見渡しながら、俺は藍那に返事をする。
「嘘だったんだろ、情報提供したって話」
『あれ、分かったんだ?』
「そら元彼だからな」
『縁戻す?』
「絶対に断る」
こいつとだけは二度と付き合わないと俺は決めている。例えヒモにしてくれて毎月小遣いを20万くれると言われても首を縦に振ることは無い。
『でも何で分かったんだろう、気になるなあ』
その言葉に俺は響を岐阜まで連れて行った日を思い出す。
「情報提供したって割にはあの日外で巡回している警察官をあまり見なかったからな。幾ら当日の情報提供と言えど、二週間も家出して誘拐された疑いすらある未成年女子中学生が見つかったとなればもうちょっと体制が出来ると思った」
『ふーん』
「でもそれ以上にお前の性格的にあり得ないんだよ」
『どうしてそう思ったの?』
「お前はどうしようもない変人だが、一線は弁えている。俺が困るという結果になれば過程はどうでも良くて、そこに常識的な判断が挟み込まれる余地がある。俺が本当に捕まるようなことを藍那がするはずがない」
藍那は確かにヤバい女だ。バレンタインは何入れてくるのか本気で分からないから毎年処理してるし、外で視線を感じればそれは大抵この女だし。一回俺の実家の部屋のタンスに隠れてて夜中寝る直前に襲ってきて思わず悲鳴を上げたことすらあった。
でも、それらは全て日本の治安を維持する法律を破るような言動ではない。
藍那はモラルはあんまり無くとも、超えちゃいけないラインだけは守る。
『さっすが彰! 分かってるね、やっぱ私達相性いいよ』
「そうだな。一生友達でいような」
『冷たいなもう。でもさ、それ正直結果論で推測したでしょ、じゃなきゃすぐさま岐阜に行かないもん』
「そらそうだろ。幾らお前のことを信用してても0.01%くらいは可能性あると俺は思ってるからな」
『信用無いなあ私』
信用を落とす行為ばかりしてるからだろうが。
なんて思っていれば、藍那は楽しそうに声を弾ませた。
『結局響ちゃんとは話せなかったなぁ。響ちゃんとはアレから話したの?』
「ああまあ、電話で。家出理由が教育ママに長時間勉強を強要されてたから、だったんだが今は多少落ち着いているらしい。ただ今は響の父親に勉強を見られる機会が増えて、短い時間で最大の効果をがモットーなせいでそれはそれで苦しんでるとか。でも気のせいじゃなきゃ幾分か楽しそうだったよ」
『ふーん』
興味無さそうに藍那は相槌を打った。だったら聞くなよと言いたい。
藍那に伝えることは金輪際ないだろうが、アレから響の家庭は揉めに揉めたらしい。原因は当然体罰だ。幾ら優しそうな父親の大河さんでもそれだけは見逃せなかったらしく、離婚や別居はしなかったものの今後は絶対にそんな真似はしないよう契約書を書かせたんだとか。それで幸さんの教育ママっぷりが収まると良いんだが。
『でも良かったぁ、響ちゃんが実家に帰れて』
「……?」
安堵しきった声に俺は首を傾げた。お前そんな温厚篤実な人柄じゃないだろ。どちらかと言えば洒洒落落としたドライな人間のハズだ。
俺の疑懼を読み取ったように藍那は「だってさ」と言葉を繋げる。
『これで彰の家に私のスペースが出来た訳だし』
「……お前まさか」
『きっと今頃彰ってば一人暮らし寂しいなぁ、出来れば可愛くて素敵な幼馴染と同棲したいなぁと思ってる頃合いだと思ったんだよね。だから一緒に住もうよ。同棲だよ。付き合わなくもいいし私もそこから大学通うからラブコメと思って一度ほら』
俺は電話を切った。流石にそんなことを考えて響をこの2LDKから追い出すことを画策していたとは見透かせなかった。
更なる虚無感を胸に抱きつつ、俺は懐からライターを取り出すと紙タバコに火を付けた。
響がいた時は未成年と言うこともあって禁煙していたが、まあもう良いだろう。
口先に加えて、溜まった煙を吐き出す。紫煙が三月の太陽へとふわふわと煙って、ニコチン製の天の川が晴天を駆ける。
これで良かったのだろう。
なあなあになって俺は逮捕されずに済んで、響は元の家に戻れた。家庭環境もちょっとはマシになって、藍那も───アイツは何も変わんねえというかやっぱりちょっと怖えけど。
それでも、ポカリと生活の一部から欠けてしまった口煩くも自己主張の激しい女子中学生のことを考えると、居た堪れない寂寥感で胸が渇ききった干潟みたく枯れ上がる。それを俺はニコチンで潤し、携帯灰皿にタバコを押し付けて処理すると部屋に戻る。
来週から大学だというのにまだ三月の大学入学前課題が終わっていない。
俺は再び現実に戻るべく、まずは自分のシャーペンを何処に置いたか探す行為から始めることにした。
これにて完結です。
御付き合いいただきありがとうございました。




