笑う魔女 1
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
「世界樹におわす、我らが父たる神様へ。守護とギフトに感謝いたします。慈悲と愛に感謝いたします。世界樹のふもとより、我が信仰心をささげます。我が祈りが、あなた様の元に届きますよう。……イーダ・ハルコ、カールメヤルヴィにて」
教会の中、手を組みながら顔を伏せ、イーダはささやくようにお祈りをささげた。簡素で、わかりやすい言葉を選んで。もっと典雅で格調高いお祈りの方法もあるのだろう。でも自分で言葉を選んだほうが神様に伝わると思っている。
「…………」
言葉が終わっても彼女は姿勢を崩さない。目を閉じて神にこうべをたれて、そういう形の石像がごとく、じっと手を組んだまま。まるで教会を構成する構造物のように。だから他者が見たら寝入ってしまったかのようにも見えた。彼女がちいさく鼻をすする音が聞こえてはじめて「ああ、起きてたんだ」なんて思う人もいるだろう。
イーダがそんなことをしている理由はシンプルだ。ただ単に、お祈りの余韻に浸るのが好きだったからだ。
たとえば家で映画を見た後、ひとりっきりで椅子に深く腰かけ、もし物語に続きがあったらどうなっただろうとか、自分が登場人物だったらどう立ち振る舞っただろうだとか。そんな物思いに耽るのが好きだったから、お祈りの後にも同じことをしている。
今回心にうかべたのは、晴れた空にのびる世界樹と、その上にある牧歌的な雰囲気の天界。神様――唯一神エァセンがどのような姿をしているかわからないけれど、魔界の片隅でささげられた祈りは、きっと世界樹の太い幹をとおって天界に到達してくれる。そしてその他多くのお祈りとともに箱につめられ、天使様にラッピングされ、神様の元に届くのだ。彼を敬愛する人々からの感謝をこめた贈り物として。
(贈り物……)
口の端から出た苦笑の息が、顔の横の髪をふっとゆらす。イーダは天使の宅配屋さんが気をつかい、送り主の名前を消してくれるよう願った。いつぞやのシニッカのように贈り物のは少々不敬だから……。
2022年2月1日、異世界に転生して5か月近く。イーダはカールメヤルヴィの教会でお祈り中だった。
地球にいた頃、自分がなんらかの宗教の信者になるなど夢にも思わなかったが、今や強い信仰心といえるものを胸の内に秘めている。それは魔法の存在や世界樹の存在、友人の影響や神様がくれた清潔な環境など、いろいろなことを体験して自然に芽生えたものだ。
彼女が信じるエァセン教世界樹教派は、蛇の湖王国の国教。だからこの国の誰も彼もが世界樹教徒――世界樹教派の信者だ。ならば国王であるシニッカは、転生したての自分に信仰を強制してもよさそうなものだったが……勧誘すら受けたことはない。結局神様に感謝を伝えたくて、洗礼は自分から望んでしてもらった。
だからなのか、お祈りをささげている時は心穏やかでいられる。本心で自分がしたいことを存分に実行できるから。
顔を上げると教会の中は人もまばら。冬の温度と石造りの建物がキリっと冷えた空気を礼拝堂にもたらしている。その光景は「ここは神聖な場所なのだ」と静かに語りかけてくるよう。決していかめしい顔をして言っているわけではなく、図書館がその空気感で「大声を出してはいけませんよ」と伝えるのと同じ、知的で冷静な顔をしている。だから燭台の上でゆらめくロウソクの火――時にやんちゃな子どもにも見える炎が、机にむかう生徒のように背すじをのばしているのだろう。
(よし、出よう)
席を立ち振り返った。出入口にむかって歩くと、スズメ色をした古い床がキィキィと音を鳴らす。他の人の邪魔にならないよう慎重に歩を進めるが、肩に変な力が入ったせいで泥棒のような動作に。寄付台の横にいる修道女さんが、上品に口元をおさえて微笑んだ。
彼女の横をとおる時、イーダははにかむように笑みを返す。
恥ずかしさに耳を赤くしながら。
外に出ると、今日も曇り。昨日もおとといも曇りだったから、たぶん明日も曇り。でもそんな空に気を遣わないにぎやかな声が、近くの建物から聞こえてきた。
その建物は教会に隣接していた。酒場と宿屋、それに保管庫やら事務所やらを一緒にした4階建てのおおきな施設。崩壊している部分をふくむカールメヤルヴィ王宮よりも広いくらい。入口の上には同じくおおきな紋章が掲げられていた。
その前をとおりがてら、足を止めてのぞきこんでみる。
開けっ放しの広い扉のむこうでは、丸テーブルを囲む軽武装の人たちがお酒を飲んでいたり、壁に貼られた数枚のポスターのようなものを熱心に見ていたり。教会よりもおおきな裏庭から、木剣かなにかで訓練をしている音も。
そう、ここはAdventurerギルド。世界をまたにかけた超国家組織であり、「冒険者」という不思議な職業に就労している者たちの拠点となる場所。生前に本で読んだ「剣と魔法のファンタジー世界」に、ビジネスパーソンがネクタイをつける確立と同じくらいの頻度で登場する同業者組合の一種だ。
(今日も活気があるなぁ)
害獣退治や宝守迷宮攻略、さまざまなものの輸送や交易の護衛、時には雇われ兵になることも。世の中の危険をともなう仕事はすべて彼らの業務になりうる。もちろん他業種との軋轢も多いのだけれど、それでも必要とされるのなら、この世界は危険でいっぱいなのかもしれない。
そして危険に立ちむかうことを生業とする彼らは、時に命を落とすことになる。だから広い墓地が必要だし、墓地が必要ならそこに教会もいる。
そんなことで、冒険者ギルドは教会の下位組織になっているのだそうだ。元々はわかれていたのだが、先述のとおり冒険者の死亡率というのは高い。死後の安寧を約束してくれる組織とつながりを持つのに、抵抗感を持つ者は少なかっただろう。――と、これが表の理由。
裏の理由はというと、冒険者ギルドは単独の組織として経営することが難しいこと。つまり収益モデルが悪いのだ。
害獣退治を必要とする人々には、ちいさな村に住んでいて財力のない者も多い。そういう人たちの依頼も(ギルドが自分たちの価値をアピールするために)対処しなくてはならないから、おのずと収益は低くなる。かといって仕事の単価を上げれば依頼が減ってしまうし、他業種――たとえば傭兵なんかに仕事を奪われることもある。
21年前、各国の教会は政教分離政策によって力をそがれた。それを埋めるように冒険者ギルドに接近し、豊富な資金力をバックにそれを取りこんだのだ。
だから冒険者の身分をあらわすバッジは3種類ある。テクラ教会の水瓶風のもの、エレフテリア教会の天秤型のもの、そして世界樹協会の世界樹型のもの。当然目の前の施設には世界樹の紋章が堂々と掲げられている。
見ようによっては、権力を誇示するかのようにも感じてしまうほど。
(王様たちは教会の力をなんとしてでもそぎ落としたかったんだろうけど……。うまくいかないこともあるんだな)
モンタナス・リカスやル・シュールコーなど、外国の冒険者ギルドも建物はおおきかった。当然ながら併設されている教会も。各国の王たちは、教会と冒険者ギルドに関してだけでいえば、共通の悩みをかかえているのだろう。
その点シニッカはなかなかうまいと思った。王族でありながら冒険者ギルドに所属しているのだ。彼女には政治的な主権がないし、勇者と戦うため冒険者ギルドの情報を欲しているから合理的ではある。それと同時にカールメヤルヴィの政府と関係が深いから、自ら両者の間に入っていろいろと調整をすることも多いらしい。
完璧な手段ではないし手間もかかるだろうけど、政府と教会プラス冒険者ギルドの間にある紛争に対し、積極的な解決法を選ぶのは彼女らしいと思った。
ギルドの看板を見上げながら、イーダはそんなことを考えていた。半開きの口からは白い息がほわほわと立ちのぼる。
なにかを見上げる時、口が開きっぱなしになるのは彼女の特徴だ。それは「閉じる」こともできる器官なのだが、その機能が使われるのは「行けたら行くね」と言う者がくる確率と同じくらいに低い。
くわえて唇の役割のひとつに、生物にとって脆弱な場所を守るというものがある。予期せぬ物体がそこに侵入するのを防ぐためだ。現に魔界には弱点を好んで狙う者が多いといえる。
たとえば親友の口の中に雪を放りこむ習性がある魔獣などが生息しているのだ。
雪で白い道の上、黒い影が忍びよる。
「撃ー!」
「――んっ! ぶっふぁっ!」
突然口内に雪の塊を放りこまれ、イーダは散弾銃のようにそれを噴き出した。固められたはずの雪が無数の粒状になって、空中へきれいな円錐を描く。もしマーライオンが見たら、あまりに見事な放出を嫉妬しただろう。
「ゲホッ! ア、アイノ!」
潜水艦のしわざだ。今日もそうだ。
「あ! ばれた! <Crash dive>!」
わざわざ魔法を使って逃げる親友は、あっという間に姿を消した。捕縛しようとのばした手は、なにもない空間を悔し気につかむ。
「アイノォ!」と叫んでみるも、こうなっては文字どおり手が届かない。姿を消した彼女に対しては、物理的な干渉が極めて難しくなるのだ。
「くそぅ……次は捕まえるからね!」
ヨウルプッキのような白髭を生やし、黒髪の少女は捨て台詞を吐いた。おそらくもう潜水艦はどこかに逃げ去っていることだろう。
(……いや、そうともかぎらない!)
狼は相手にすきがあったらなんどでも襲いかかる、バルテリからそう聞いた。だったら灰色の狼も同じ生態を持つはず。サーチライトで夜の水面を照らすかのように、顔をあちらへこちらへキョロキョロむける。潜望鏡を見つけたら、容赦のない体当たりで雪の上に沈めるために。
そんなふうに道の真ん中で厳戒態勢を取る少女へ、街の人々は笑い顔をうかべていた。魔王様の従者は魔獣と仲がよく、今日も楽しそうにしているのだと。事情を知らない者が見たら不審者として警吏を呼んだだろう。
ちいさい街であるがゆえ顔を知られており、通報されないですんだ挙動不審少女。その彼女へ職務質問におとずれたのは、青い毛並みの国防大臣だった。
「ようイーダ。さっそくだが、ひげそれよ」
「あ、バルテリ。え? 私ひげ生えてる?」
口に手をやると想像以上に雪が付着している。これでは妖怪サンタモドキだ。もしゃもしゃぬぐって少女に戻る。
「またアイノにやられたよ。とれた?」
「ああ、いつものかわいい顔に戻ったぜ? さっきまではブラックサンタみたいだった」
肩をすくめる彼の前で、イーダは「いつものかわいい顔」という台詞を耳ざとく聞き逃さない。得したなぁと心が「むふんっ」と満足げに笑う。残念ながら、つられて顔まで満足げになっているのには気づかない。
そんな所作にバルテリは端麗な顔をほころばせた。
「どこに行くんだ? エスコートは必要か?」
「む、助かるかも。ありがとう、お願いするよ。今日は図書館に行こうと思って。はじめて行くし」
「そうか、行ったことなかったのか。意外だな」
イーダは自分でも意外に思う。勉強をする上で図書館以上に重要な場所などないだろうに、今日まで行ったことがなかったのだ。まあそれは、サカリやヘルミ、シニッカという優秀な先生の元をはしごしていたからという理由もあった。
「うん。ここ2か月くらいでいろいろなことを教えてもらったから、個別に調べてみたいことができたんだよ。だから図書館に行ってみようかなって」
「本当、勉強熱心だな、イーダは」
「だって私、この世界のことなにも知らないもん。政治や宗教、歴史に地理、科学も経済もね」
「錬金術や魔法ってのもあるからな。いや、それは科学の一種か?……よくわからねぇな。なんにしても――」
と、青い狼がかしこまったように、片方の腕を街のほうへ広げ、逆の手を胸元に置く。そして目線を合わせるように腰をかがめると、顔を近づけ、声色を目いっぱい甘くして言った。
「ご案内いたしましょう、お嬢様」
「っ⁉︎」、どきりと心臓が鳴って、頬が熱くなる。イーダはバルテリの所作よりも、「お嬢様」と呼ばれたことに胸をときめかせてしまった。そんなふうに呼ばれることが自分の身に起こるだなんて思っていなかったから。
いや、からかい半分なのはわかるのだけれど……。
不意を打たれて舞い上がる心は、同じ側の腕と脚を同時に出すという奇妙な歩きかたを少女にもたらした。緊張した人間が注目の中で歩く時、それはしばしばおとずれる。そんな歩きかたを回避するためには、生前から「お嬢様」と呼ばれておく必要があっただろう。執事喫茶にでも通い詰めておけばよかったなどと、彼女の地元にないあこがれの施設を思い浮かべながら、イーダは安物のロボットのように歩きはじめた。
「場所は知っているのか?」
「う、うん。場所だけは。本当はサカリと待ち合わせして行くはずだったんだけど、彼、魔石管理局に呼び出されちゃって。冬の魔石採取について、冒険者の待遇を相談されたんだって」
緊張して早口になったが問題ない。今日も『気の利いた翻訳』が絶妙な力加減で日本語を翻訳し、お嬢様らしい落ち着いた響きを狼の耳に届けてくれるに違いない。
世界律から規定外の労働に対する抗議の声が聞こえてきたが、瞬間的にいっぱいいっぱいになった少女は無視を決めた。
「あいつも忙しいな。そんなもん放っておきゃいいのに」
「い、いや、さすがに申し訳ないよ」
ようやく変な歩きかたに気づいて、両手足をわちゃわちゃと動かして。人型生物の普遍的な歩行方法を思い出し、街中を進んでいくことに。
(ふう、落ち着こう。風景でも見て、落ち着こう)
白い息をドライアイス発生器のように長く放り、心を静めた。ふぅぅっとまっすぐな水蒸気がドラゴンの炎のように空中へのびる。あまりの長さだったから、マーライオンが見たらふたたび嫉妬しただろう。
シンガポールの幻想生物の思いも知らず、イーダはやっと落ち着いて雪の街を進むのであった。




