笑うヨウルプッキ 8
「うぎゃぁぁぁ!」
「あああ! わぁぁああ!」
声の主は魔界の住人たち。彼らは望むかぎり好きな叫び声を選択できるのだが、その多くが「ぎゃぁ」やら「わぁ」やら口をおおきく開くだけで出せるお手軽な音を選んでいた。
悲鳴にも種類があるのに、多くの者が一番簡単なものを手に取った理由はふたつ。集団の持つ同調性がそうさせたことと、ただ単純に余裕がないこと。
無理もない。彼らは今、逃げているのだ。
ミミズクに見つかったリスのように、狩人に狙われた鹿のように。
中には蛇ににらまれたカエルのように硬直している者もいたが、逃走の有無にかかわらず、彼らの運命はおしなべて同じ。
結局静かにさせられる。
この魔界にあらわれた最強の存在に。
そのような街の喧騒が、湖のほとりに流れる夜の空気を乗りこなし王宮に入ってくる。泣き女も驚くだろう大声たちが、入口の壊れたホールを抜けて、厚い扉をとおって廊下に入り、緑の円形章が暖炉の上を飾る王宮の食堂へ足を踏み入れる。
そしてその中にいた少女――彼女よりもひとまわりちいさい少年とだきあって震えるイーダの耳に入り、鼓膜をノックするのだ。頭にはサイズの合わない革の兜をかぶっており、そこには耳当てもついているのだが、音はそんなものをすり抜けてくる。映画の中で殺人鬼に追われた端役のごとく息を殺してじっとしているイーダに対し、恐怖をあおるかのように。
そんな状態に置かれた彼女は――
(……ご、ごはん、おいしかったなぁ)
現実逃避を決め、今日の晩御飯を思い出していた。
クリスマスイブという特別な日には、特別な料理が振る舞われる。クリスマスハム、ビートサラダ、西洋カブのお鍋。普段は世界の色がモノクロになったとしても、見た目があまり変わらない麦のかゆを食べているのだが、ビーツやニンジンの暖色に彩られた今日の夕食は、心まで明るくしてくれた。
赤いビーツは血のように鮮やかな色をしていて、もとい、血ではなくてなんかそのいい感じの絨毯みたいな具合に私の心を温めてくれて。クリスマスハムはとても軟らかく、ナイフを入れると無抵抗な囚人の首のように……いやいや干したての布団のように柔らかで、やっぱり私の心を温めてくれて。
……まあ、体は震えているけれど。違う! 震えてなんかない!
「やめてぇ! いやぁぁぁ!」
(…………)
今夜はこんなにも明るい声で満ちあふれているんだ。なんの問題もない。問題なんかあろうはずもない。
「どうするんだ、この状況。毎年ながら嫌になるぜ」
(……ドウニカシテクダサイ)
バルテリのうんざりした声を聞いて、少女は少しだけ現実に帰ってきた。
「シニッカ様は自信満々でしたから、なにか策がおありなのでは?」
「どうだかな」
冬山の天気のように情緒不安定なイーダは、王宮の食堂でヴィヘリャ・コカーリのメンバーとともに聖なる夜をすごしていた。夜といっても、まだ18時を少しまわったくらいだ。太陽が早退したせいで、外が暗くなってからそれなりの時間が経過していたから、イーダはもう長いこと暗闇が続いているような気分になっていた。
時間が実際よりも長く感じているのは、なにも夜が早くはじまったからだけではない。アインシュタインが相対性理論の説明に用いたように、苦痛の時間は鈍足で通り過ぎてゆくからだ。感情を持つ生物ならば誰もが「嫌なこと」に相対した時に感じるであろう「早く終わってほしい」という気持ちが、イーダの心を絶対不変の物理法則のように支配していた。
「げぇぇぇ! あああ!」、外からは相変わらず地獄犬にでも追われているかのような悲鳴。食堂の中では魔獣たちがそれにため息をつきながら会話を続ける。
「いよいよ騒がしくなってきたな……。ヘルミ、魔王様はまだ戻らないのか?」
「はい。もしかしたら騒動に巻きこまれてしまったのかもしれません」
(……きっと大丈夫だよ!)
やけくそとなげやりを両手に持って、目の前で行われたフェンリルとベヒーモスの会話を「めでたい時間に不穏なことを言うなぁ」などと他人事のように受け流した。ヘルミは「巻きこまれてしまった」なんて言ったけれど、こんな状況の中で外出したシニッカがなにかに巻きこまれるならば、それはヨウルの祭りの喧騒だろう。はしゃぐ人たちが魔王を見つけ、踊りの輪にでも誘ったのだ。
目線を自分の左腕にうつす。そこにしがみついている「尊い存在」のノエルの様子を(現実逃避の一環として)視界へ入れるために。
彼は今日、王宮にきていた。
聞けば、このかわいい少年もヴィヘリャ・コカーリの一員とのこと。バルテリたちのように、魔王からあたえられている仕事やら役職やらがあるわけではないため、普段は自由にすごしているそうだ。そして今日のようなイベントごとがある時に、王宮にまねかれ食事を共にするのだ。
なぜそんなことが許されるのかというと、彼もイーダやアイノと同じく、転生勇者の対抗召喚で呼び出されたから。つまり幼い彼も立派な戦力なのだ。といっても相手が誰だかよくわかっていないから、勇者があらわれるまで魔王の庇護下にいる。
おかげで潜水艦の「バブルパルス」によってだいなしにされた尊さを、また間近で見ることができた。
(こ、これはいいプレゼントだよ。うん)
1日早いが。
「出たぞぉ! 逃げろぉ!」
「きゃー! きゃー、ギィヤァァ!」
街はまだまだ騒々しい。きっとこのお祭り騒ぎは一晩中続くのだろう。悲鳴に聞こえるが、あれはちょっとエキサイトしすぎちゃった結果なのであって、決して命の危機を叫んだり断末魔だったりするわけではないに違いない。
ならそれもいいと、イーダは思った。1年で1日しかない特別な日を、1日中味わうのに理由なんていらないんだから。
「怖いよぉ……」、でもノエルは怖がっているご様子。おおきな黒い瞳が、半開きのまぶたの下でふるふると震えている。
ああ、かわいい。
いや、そうではなくて。
ここは年長者として、せっかく自分にだきついてくれているこの子に、大人(15歳)の余裕というものを見せてあげる必要がある。
冬の朝のように落ち着いた声で話しかけるため、つとめて冷静に口を開いた。
「だ、だだ、大丈夫。わ、私たちがついているかりゃにぇ!」
ああ、惜しかった。ちょっとだけ、ちょっとだけ噛んだ。
が、問題ない。きっと『気の利いた翻訳』が有能でスマートな執事のように気を使い、ノエルの心を穏やかたるものにするため、温かい紅茶のような響きをその耳に届けてくれる。
そもそもこの部屋には魔界の戦力がたくさんそろっているのだ。俊敏で獰猛な『青い毛並みのフェンリル』が、魔界屈指の防御力を持つ『緑の皮のベヒーモス』が、いつもはうるさいのに妙に静かな『黒い髪の潜水艦』が。
怖いなんてことは、たぶんないはずだ。
「助けてくれぇ! わぁぁ!」
……たぶん。……おそらく。……もしかしたら。
目の端に涙を浮かべるイーダは、ひどくなごり惜しそうに目線をノエルから外し、魔獣たちを見る。
(……うぅ)
と同時に、いいかげん現実とむき合うことにする。
バルテリはというと、顔に汗を滴らせて災厄の来訪に覚悟を決めているかのよう。頭にかぶった革のヘルメットが死ぬほど似合わないけれど、それを笑う雰囲気ではない。同じくヘルミも見たことのないほどまじめな、戦士の顔をしている。彼女はヘルメットがよく似合う。
いや、ヘルメットの似合う似合わないはどうでもいい。問題なのは、今自分たちが過去にないほど追いこまれていることだ。
街からの悲鳴は止まることを知らず、このままなら2万人分の断末魔など、一晩中どころか数時間で聞き終えることになるだろう。誰が鳴らしているのか、緊急事態を告げる鐘がガランガランとやかましく響いて、ここは戦場なのだと言っているかのようだった。
「総員、最上甲板……」、つぶやくアイノの声はくぐもっている。ヘルメットを前後逆にかぶっていれば当然だろう。彼女は早々に現実から目をそらすことに決めたらしく、食事が終わると机の上へ仰むけに横たわり、両手を胸元で組んだ。そのまま今にいたるまで、ずっとそうしている。態度で「どうにでもしてください。私は抵抗しません」という意思表示をし、白旗を掲げて降伏しているのだ。
そんな中、廊下からコツコツと小気味いい音が鳴り、食堂の入り口に人影があらわれた。入ってきたのはブーツのかかとで機嫌よく床を叩く、いつもと変わらないひとりの女。
当然のことながら、ようやくご帰宅した我らが魔王様。
「お帰りなさいませ、シニッカ様」
「ただいまヘルミ。いい光景だったわ」
夕食が終わって騒動がはじまってから、緊急事態のさ中だというのに「いい文章を思いついた」などといって書斎に行ったり、ふらりと教会にお祈りへ行ったり。今は「おもしろそうだから様子を見てくる」なんて、台風の日に川の様子を見に行く老人のような手軽さで「落命」のケニングをのたまって、でもどうやら無事に帰ってきたところだ。
正直、そのふてぶてしさは憎らしいほど。それはバルテリも同じだろう。緊張とあきれが混じった複雑な表情で、彼は君主に質問を投げた。
「戻ってさっそくだが魔王様よ、街の様子はどうなんだ?」
「すごい」
「具体的に頼む」
「この光景が絵画なら、血の絵の具と髪の毛の筆、肩甲骨のパレットを使って描いたのでしょうね。この光景が楽器なら、生きたまま内臓を引き抜かれ、裂けたお腹を縫い合わされ、大腿骨で太鼓のように叩かれているんでしょうね」
よくもまあ残酷な表現がすらすらと出てくるものだ、でも今は勘弁してほしいと、イーダは耳を塞ぐ代わりに目をそらした。バルテリの「……Paska」という短い悪態が、きっそその光景は遠からず当たっているのだろうと思ったから。
「状況は悪いということですね、シニッカ様」
シニッカ以外で唯一冷静をたもっているヘルミはさすがだと、イーダは思う。こんな状況でも彼女の横顔は端麗なままで、自分やノエルのように般若の面のような顔もしてなければ、アイノのように(もはや表情を読み取れないが)臨終時の顔をしているわけでもない。彼女の心はまだ臨戦態勢にあって、白旗を振っているわけではないのだ。
「『状況は?』と聞かれれば、Helvettiと答えるわ」
「では、あきらめましょう」
(えっ?)
――あきらめていた。
間違えなく「あきらめましょう」と言った。
端麗な顔に戦士の戦意を化粧しながら、表情ひとつ変えないで戦いを放棄していた。
(あきらめないで! 助けて!)
「そうするか。……相手が悪ぃや」、バルテリも続く。
(そうしないで!)
イーダはといえば、とりあえず現実逃避はやめた。その上で、先月ギジエードラゴンを倒した時にいだいた「ヴィヘリャ・コカーリの一員なのだ」という決意を心の引き出しの奥へしまいこみ、誰かが都合よく事態を打開してくれないかと無責任な願望をいだくばかり。
(なんでこんなことになっちゃったんだよぅ……)
涙目になりながら、ほんの数時間前にすごしていた楽しい時間を思い出す。
食欲をそそる、彩り鮮やかな料理がならんだ夕食会。街の有名な料理店から、陽気なケンタウロスの料理人がおいしいご飯を運んできてくれて、少々胃が痛くなるまでそれらを次々にほおばった。
普段ご飯のまずい魔界で、こんなぜいたくができるとは思わなかったのに。それを食べたことで、実はまずいのが魔界の食事ではなく、王宮の料理人の腕だったことに気付けたのに……。
夕食が終わりしばらくたつと、物事は劇的に悪化した。あいつが魔界にやってきたのだ。
たったひとりで、お祭りを血祭りに変えてしまったその存在。先日の黒竜よりもタチが悪く、出会ったどの勇者よりも手強い、恐るべきもの。ここにいる3人の魔獣に敗北を予感させ、大規模災害のようにカールメヤルヴィを蹂躙する凶悪なやつ。
――そう、魔界は今『ブラックサンタクロース』の襲撃を受けていた。
「ああクソ、Saatana」
「あなたが言うの?」
自分の種族を見事に棚上げしたフェンリル狼が魔王にたしなめられるのを遠くに聞いて、イーダは騒動の直前に知った、魔界のサンタクロースのことを記憶から呼び覚ましていた。




