笑うヨウルプッキ 3
「……Helvetti」
吐血混じりの最後の言葉が、雪の上に吐き捨てられた。それは男の声だった。
年齢は老人と中年の間くらい。のばしたひげはところどころ白くなり、それがあざやかな赤――彼の口から出た血液によって汚されていた。
(……しくじったな)
あたりを覆う雪の色は白いのに、ぼやけた黒い枠が視野を狭めていく。それは古いカメラのレンズごしに風景を見た時のような、はっきりとしない視界だった。
ちいさくなるそれと対照的に、おおきくなるのは痛み。背骨から脳髄にかけて激痛――色があるのなら血のように赤いであろうものが走り、生きる活力を奪って笑う。
(ああ、よりにもよって、私が死ぬのは今日なのか……)
うつ伏せに倒れた彼の上には重量物が乗っており、それが腰から下の感覚を奪っていた。家具に踏まれた絨毯のように、体をぴくりとも動かせない。そこへ、嫌悪感をまとう温かさが両脚を覆ってくる。間違いなく自分の血液だろうことを、彼は理解していた。
死にたくはない、しかしあきらめなくてはならないのかもしれない、そう思う。自分から自由を奪っている物体は、先ほど目の前で横転したおおきなトラックの車体なのだろうから。数トンもある重量物をはねのける力などないし、あったのならそもそもこんなことになっていない。
ううっ、うめき声を上げて、今の自分をあわれに思った。そして「とうとうこの時がきたか」と、半ば覚悟を決める。
悪い予感がしていたのだ。なぜなら今年は嫌な1年だったから。
父親が死に、仲のよかった友人が次々と病気になった。58という歳で妻との離婚を経験し、軽傷ですんだもののスキー中に怪我もした。そして世界をゆるがす重大事件も……。テレビ画面のむこう側で崩れ落ちるツインタワーなど、見たくもない光景だった。
(彼らも同じ痛みを味わったのだろうか……)
雪の上に倒れ、泥と血にまみれたみじめな自分を重ね、心はだんだんと気力を失っていく。駆け寄ってくれた青年が、自分に対して必死でなにかを叫んでいるが、残念ながらその声は聞こえない。失血のせいか、はたまた気力を失っているせいか、耳が仕事を放棄している様子だ。
そんな自分の顔へ、パッパッと雪がかかる。青年の足によって巻き上げられたものだ。彼はあわてていた。携帯電話を取り出し、それを取り落し、拾い、震える手で救急車を呼ぼうとしてくれているようだ。
(ああ、落ち着きたまえ。私のためになにかをしてくれるのはいいが、君の恋人だろう子が顔面蒼白じゃあないか)
ぼやけた視界、あわてふためく青年の肩越しに、口元を両手で押さえる若い女性も見える。
(こんな光景で、君たちの特別な日を邪魔して悪かった)
彼らがこの後、最悪な一日をすごさなくてはならないことを思うと、申し訳なさでいっぱいになる。きっと先ほどまでは笑顔だったろうに。
……いや待てよ、そうではないかもしれない。
もしここで自分が九死に一生を得たのなら、彼らの行為は得がたい経験になるのではないか? 人の命を救ったという最高の日となり、明るい笑顔で今日という日を振り返られるのではないか? ふとそんなことを思い立ち、わずかな活力が体にわいた。
(どうせなら、もう少し頑張ってみようか)
不思議なものだと思う。死の淵で考えるのが自分のことではなく、見ず知らずの男女のことだというのは。
自分の呼吸はすでに瀕死のそれだが、ぐっと奥歯を噛みしめて、歯のすきまで勢いよく空気を吸った。その行為にどれほどの効果があるかわからないが、ともあれ死への抵抗を開始するのだ。せまる死の眼前で思いつきもはなはだしいが、どうせ動いても動かなくても痛いのだから、気晴らしにはちょうどいいだろう。
痛みというものは、事前に用意された人体の閾値を超えることはないという。科学的根拠を知っているわけではなく、自分の父親から聞いた話だ。父は第二次世界大戦に従軍経験がある。
本人曰く「それなりに優秀だった」彼は、偵察をしている時に、敵の砲弾の炸裂を至近距離で受けてしまった。体中に破片が食いこみ、激痛という名の獣に全身のありとあらゆる場所を噛みちぎられているようだったという。しかし、しばらくするとそれは「祖国に奉仕できた証である」という高揚感に変わり、不思議と体は動くようになったらしい。そしてその状態で立ち上がり、鹵獲したPPSh-41を乱射し、11名のソ連兵を殺したのだ。
最後の部分が事実に対しておおきく盛られたものであることはよいとしても、痛みが高揚感に変わってくれる部分は信じたいものだ。もしそれが今の自分におとずれてくれるのであれば、年金の半分を差し出したっていい。もしくは残りの人生で飲むはずだった酒の量の半分を、神に差し出したっていい。
(……いや、よくない)
酒を減らされるのは辛い。生きるために、生きる目的のひとつを差し出すわけにはいかないのだ。
他に差し出せるもの――自分の嗜好品があるかと探したが、見つかったのはコーヒーくらい。そしてそれも差し出す気にならない。
生きるために、生きる目的のひとつを差し出すわけにはいかないのだ!
――ズキン!
「同じことを言うな!」と苦情を入れるように、激痛が主張してきた。しかもその力はまだまだ強くなりそうだ。激痛の上の痛みは、なんと表現するのだろう? 我ながらくだらないことを思う。
しかしもういちど、歯のすきまから強く息を吸う。これはよい傾向なのだ。
(いいぞ、意識をたもて。なんでもいい。痛いっていうことは、まだ死んでいないということなのだから)
今にもちぎれそうな命のひもの断裂箇所を、両手で懸命に握る。すると、一度感覚を失った両腕が、動くようになっているのに気づいた。
(いいぞいいぞ! このまま意識を失うな。生死に関係ないことでいいから、考え続けろ。……ああ! まずい!)
余裕が生まれたからなのか、ふいに孫へのプレゼントを思い出す。だいなしになっていたら大変だ。せっかくこの日のために予約までしたというのに。
「たしか手に持った鞄に入れていたと思うが」と、だいぶ瞳孔が開いた目で必死に探すと、それは雪の上、うろたえる青年の足元に。
(おい! 気をつけてくれ! おおい! 踏んだら……容赦しないぞ!)
声も出ないから、伝える手段はおおよそ9割がたの機能を失った両腕だけ。右手で鞄を必死に指さし、青年に注意をうながす。が、そのような些細な動作が青年に届くはずもなく、彼は鞄の持ち手を踏んで転びかけた。
(馬鹿! やめろ!)
こんどは両手でアピールする。地面をバンバン叩いてから「それに気をつけろ!」とばかりに、人差し指2本で指をさす。生命力の無駄使いかもしれない、けれどあのプレゼントだけはゆずれない。
すると青年はやっと気づき、神妙な面持ちになって鞄を拾ってくれた。
(こっちによこすんだ!)
片手で手まねきのしぐさ。青年は意図をくんでくれ、鞄を差し出してくれた。なんと中身が取りやすくなるために、口を広く開けてくれまでしてくれた。
(怒鳴って悪かったな。君は心づかいのできるいい男だ)
声が出ないのだから怒鳴ってもいないが、とりあえず青年へ謝罪と感謝をしておいた。そしてたどたどしい手つき――我ながら思うところの酔っ払いがポルカを踊るような手つき――で、鞄の中へ手を入れる。あった。赤と白とグリーンのラッピングがされた、カーレーシングのゲームソフトだ。
(孫のトイヴォに渡すんだ。私はもうジジイだが、ビデオゲームを否定しない!)
ニッと笑い(実際には死にかけの表情筋が笑顔を作ることはなかったが)それを青年に見せつけた。
友人の中には「孫がゲームばかりしている」などと嘆くやつもいる。が「結構なことじゃないか」と自分は思う。これがあれば現実ではできないことができる。仮想世界に入りこみ、そこでさまざまな存在――たとえば人々を救う英雄だったり、バロンドールを受賞するほどのサッカー選手だったりになることも。もしくは自分のガレージを持ち、中古車を買い集め改造し、ラグナ・セカやコート・ダ・ジュールを走ることすら可能なのだ。
手に持ったこれはレーシングゲームの中でも難しい部類に入る。実在の車が出てくる本格的なやつだ。
(私は、孫がコークスクリューを時速100マイルで駆けおりるのを見るんだ。すごいだろう?)
トイヴォがどんな車を選んでそこを走るのかはわからない。精密に動く日本の四輪駆動車か、質実剛健なドイツ車か。あるいは尻を振って加速するアメリカン・マッスルカーかなんて、まあこの際どうだっていい。重要なのは、これはゲームだから安心してコーナーを攻められるし、安全にスピンすることも、壁に突っこむこともできる。
つまり楽しみながら安全に失敗できる。
命を落とすことなどないのだ!
(……ん? 今の私の行動は、かなりそれらしい状況を生み出していないか?)
「命を落とす」などと考えたものだから、急に冷静になってしまった。よく考えると、この行動はよくなかったかもしれない。
なにせ「瀕死の男が鞄を開けさせ、その中身を青年にむけ、笑う」なんてこと、どう考えても「死にゆく者が、残された者へのプレゼントを若者に託す」光景だから。
予想は当たった。青年は差し出されたプレゼントとそれを持つ自分の手に、彼の両手を重ねて涙を流している。先ほどまで遠くにいた恋人と思わしき女性も駆け寄ってきて、その感動的な光景を涙とともに見守っている。
(いや、そうじゃぁないんだよなぁ……)
と思うも、人生最後の光景としてあまりに決まりすぎてしまった。それに――
ブツンッ!
命のひもから両手を放すべきではなかった。
(Helvetti)
苦笑混じりの最後の思考が、雪の上に残される。
北欧はフィンランドの都市トゥルクの郊外で、ニーロ・オスカリ・コルホネンは死んだ。
その日は、21世紀最初のクリスマスイブだったというのに。




