笑うヨウルプッキ 2
悪辣にすぎる夢魔劇場を見て、吐瀉という結果をまねいたイーダではあったが、そこに後悔はなかった。今回の夢魔劇場の元ネタは、ある意味他人ごとじゃない。あの悪趣味な脚本と、実際に発生した勇者災害は、両方とも現実の延長線上にあるのだ。
だから心に思うのは、「見なきゃよかった」ではなく、「忘れないようにしよう」。少々意識高めな受け取りかたではあるけれど、まあ自分の名前が「イーダ」なんて意味だから、ちょうどいいだろう。
気を取り直して、水筒の水で口をゆすぐ。ぺっと吐き出してから深く呼吸すると、肺の細胞たちが喜ぶくらいに綺麗な空気が入ってきた。水と草の香りがたっぷり入ったそれが、のどから食道を抜けて、胃の中を洗浄する。心地よかったからもう一口。水と空気とがブラシを持って、「あらあら、こんなに汚してしまって。しかたない子だねぇ」なんて具合に掃除をしてくれているよう。おかげで吐き気も身を縮ませて、そそくさと体から出て行ってくれた。
幾分か回復し、顔を上げる。目に映るのは、湖のほとりにひしめき合うレンガと木でできた街並み。雪の間にわずかに見える石畳の道と、白く染められた屋根が家々を飾っている。
(ここのところ、かなりにぎやかだなぁ)
街を行く人々は浮かれ気分だった。今月は『Joulukuu』と呼ばれる特別な月だから。寒いというのに、屋外でお酒や料理を振る舞うお店が多く出ていて、昼間からアルコールで暖をとる人たちでいっぱいだ。
最近気づいたことだが、この国は2万人という人口よりもずっと多くの人がいる。観光客や傷病の治療で長期滞在している人が原因だ。
彼ら彼女らは外国から蛇の湖の国に訪れ、思い思いにすごしている。大自然を楽しんだり、飾り窓を物色したり。スパイのたぐいもいるそうだが、結果はこの世界特有のことわざ『Hukkuminen käärmelammeen』のとおり。つまり密偵も娼館の色じかけに堕ちてしまい、「ミイラ取りがミイラになる」のだという。
それにしたって、今月に入ってから人が増えた。みんなお祭り騒ぎが好きなのだろうか。
(あの人は旅行者だな。……あのなまりはネメアリオニアの人っぽいかも)
魔界の住人であることを気取るわけではないのだが、外からきた人間というのはなんとなくわかる。どこか探り探り歩いている様子だったり、ゲシュタルトのオバケに注意しながら集中して会話を聞けば、魔界のものとは違う言語がその裏にあることに気づけたり。着ている服でも判別できる。
逆に、カールメヤルヴィに普段から住んでいる人というのは、この街の歩きかたをよく知っていて、各々の目的地にむかって迷いなく進んでいく。それと、聞き耳を立てればだいたい悪いことを話している。
おしゃれで伝統的な服を着こなし、笑顔で会話する魔界の人々。彼らはそれほど深く干渉してこないけれど、話しかければ陽気に答えてくれる人たちだ。それに、そういう文化なのか、怪我をした人や体調不良の人をかなり気づかってくれることも。
「おやお嬢さん、顔色が悪いじゃない。雪に溶けこんで、熊でも狩る気かい?」、そう言って、獣人(あろうことか熊のご婦人)が、虎の老紳士の横で陽気に笑った。
「ううん、大丈夫です、ありがとう。悪化しちゃったら、冬眠のやり方を習いに行きますね」、笑顔で返す。我ながら、妙にこなれた返答をしたものだ。
「あらあら、巣ごもりの食料になってくれるには、ちいさすぎるねぇ。ちゃんと食べて、太ってからおいで」
「そうします、どうも」
異世界にくる前だったら、知らない人とこんな風に自然な会話もできなかっただろう。いたずら好きで、少しだけいじわるなことをいう魔界の人々は、慣れてしまうと距離感が近くて親しみやすく感じる。もちろん、先ほど感じていたようなおおきなカルチャーギャップは、埋め立てられないまま残っているのだが。
(魔界かぁ)
そこは、どこかおかしいところを残しつつ、それでも常識からはずれない場所だった。魔族の頭に角があるわけでも、蝙蝠の羽やとがった尻尾を持つわけでもない。八重歯や舌の長い人も多いが、それも気にしなければ気にならない程度だ。もっとも、さまざまな種族が混在するこの世界で、羽だの尻尾だのにいちいちかまけていられないけれど。
シニッカの言葉を借りるなら、いまだ『I'm alien』なのだろう。「Stingみたいに、つまらない意地を張らないで、染まってしまいなさい」などと、悪魔の口からなにを言われても「はい」とは言えないと思っていたが、人と話すことが楽しくなってくるとその考えも変わる。
……Stingが誰なのかわからないから、こんど聞いてみよう。
(あ、これって「友達からのアドバイス」ってやつか)
甘美な響きの言葉を思いついて、にへらっと頬をゆるませる。アイノがニヤニヤのぞきこんでいたのに気づきもしないで。
そんな顔をしていると、ちいさな男の子が走ってきた。すれ違った彼は器用にも雪の上を全力疾走し、先へあるなにかを目指す。
(あれ? あの子……)
見たことがある。先日、お城の前の道で遊んでいた子だ。小柄な体、ボサボサな黒髪のマッシュ・ボブ、常にジトっとした目が特徴的な。たしかあの時は、街の人が作った笑顔で燃える雪だるまに突進し――
(突進⁉︎)
ゆるんでいた表情が、戦慄のそれに変わる。
「あぁ! いけない!」、けれど声は届かない。男の子は地面を蹴り、すでに離陸している。その目指す先は――危惧が当たった。
アイノの作った、吐しゃ物入りの雪だるま。
「だめぇ!」、のばす腕は短すぎて、警告は遅すぎて。
――ドチャッ! あわれかわいいその子は、固体化した水、麦の加工品、牛の乳と人間の胃液でできた最低の人形に突っこみ、その破片をまき散らし、そして頭からかぶった。
「……う、わぁあああん!」、スイッチを入れた直後の蛍光灯(LEDでないもの)が光るときのように、わずかな時間差の後、彼は悲鳴を上げる。
その光景を見ていち早く反応したのは、4大魔獣の一角『黒い髪の潜水艦』。「命中! ゲロ機雷!」
「ゲロ機雷⁉︎」
「やったねイーダ! 戦果1だよ!」
「私のせい⁉︎」
知るかぎり世界一汚らしい戦果が、親友たるアイノの口から宣言される。「共同戦果だよ!」とどうでもいい訂正を受け止めることなどしないで、イーダは少年に駆け寄った。
走りながら、こんなことを思う。
ここは医療の国であり、この世は神様のもたらした清潔さに包まれている。しかし、それを享受するも人ならば、それを拒絶するも人なのだと。
……まあ、今の場合は、吐しゃ物の話――それに突っこまなかった未来もあったのだろうなぁ、ということなのだけれど。
いらないことを頭の隅で考えながら、イーダは膝をついて男の子の顔をのぞきこんだ。
「大丈夫⁉︎ 痛くない⁉︎」
「……臭い」
「だよね! ごめんね!」
ああ、なんてかわいそうなことになってしまったんだろう。そして、私はなぜ謝っているのだろう。それに、いくら自分が口から吐き出したものだとはいえ、ストレートに「臭い」と言われるのは、なんて悲しいことなのだろう。
自身の吐いた物が詰まった雪だるまへ少年が突っこむという、これ以上にない複雑な状況に、イーダの心はさまざまな感情によってかき混ぜられていく。それぞれが異なる形を持つその感情たちは、ぐるぐると攪拌され境界をあいまいにし、粘り気のあるひとつの塊となって心を覆っていった。
それはまるで、オートミールのように。
(やかましいよ!)
イーダはくだらないことを考える自身の脳へ魂の平手打ちを入れ、肉体のほうの手で男の子に積もった雪と汚れを払い落とした。
「ごめんね! なんかごめんね!」、友人の粗相と、自分の粗相と、この期におよんでいらないことを考えていたのを「なんか」という日本語で表現し、どうか『気の利いた翻訳』が都合のよい感情をこの子に届けてくれますようにと願いながら、パッパッと手で払って綺麗にしていく。
たしかに少年の体は、彼のいうとおり臭かった。
(あ、そうだ!)
「――<浄化せよ>」
覚えたての浄化魔法を言遊魔術に乗せて唱える。活躍の機会を待ってましたとばかりに、勢いよくあらわれた泡が、炭酸水のような音を立てながら男の子の上半身を覆いつくす。あまりに勢いがあったから、ただでさえボサボサだったマッシュ・ボブの毛のすきまへ飛びこんで、そこを鳥の巣のようにしてしまっていた。
「うっぷ!」
「ちょっと我慢してね」
シュワシュワもこもこ、張り切って掃除を続ける清掃員たち。白樺と石鹼の匂いが鼻に心地いい。
泡はしばらく、彼をタイヤメーカーのマスコットオバケのような外見にしていたが、やがて徐々に勢いを失い、最後には仕事帰りのサラリーマンのようにしなびて消えた。
残されたのは、梅雨空のような目でイーダを見つめる少年だけ。
「……びっくりした」
「ごめんね。でも、これで綺麗になったよ」
「……ほんとだ」と、彼は自分の手を猫のように丸め、手の甲をクンカクンカと嗅いで言った。顔を洗うかのようなそのしぐさに、イーダはとりあえずほっと胸をなでおろす。
大声で泣かれたりしたらどうしようかと思っていたから。
「……満足」
「え、あ、うん」(……満足なんだ)
コミュニケーションのボールが放られているのは、ストライクゾーンを出たか出ないかのアウトコース。会話はぎりぎり成立しているようだが、イーダには審判のコールが聞こえない。
(……どうしよう。なにをしゃべれば……)
そういえば自分は、話しかけられた時に反応できるようになってきたけれど、自分から知らない人に話しかけるのは、まだうまくない。
(ええと、大丈夫とか? あ、いや、言ったばっかだ……)
そんな思いを知らない黒い潜水艦が、戦果にふんすと鼻を鳴らしながら、イーダの背中に重みをかけた。「よかったねぇ、ノエル」
助け船(こしゃくなことに助力と潜水艦でダブルミーニング)がきたと思ったら、あらわれたのはこの子の名前?
「ノエル?」
「その子の名前だよ」
「あ、ノエルっていうんだ。私はイーダ。アイノと知り合いだったの?」、ちょっと早口で、質問のストレートを少女に放る。
「……潜水艦、怖い」、判定はボールだ。デッドボールよりはいいけれど。
「う、うん。そう思うよ」、どうしたものかと考えながら、あらためてノエルという名の少年を見る。
マッシュ・ボブと瞳は自分と同じ黒色だが、自分のものよりもつやがあり嫉妬しそうだ。目はかわいらしさを強調するためデフォルメされた人形のようにおおきく、顔の左右は3DCGで作られたかのように綺麗な対称となっている。身なりは……良くも悪くもない。厚手のダブレットは温かそうだけれど、ところどころほつれがあるのは、日々雪だるまに突っこんでいるからなのだろうか。
身なり以外は総じて「かわいい」と言える。近距離でじっと見てしまうくらいには。
(瞳、いいな)
ヴィヘリャ・コカーリの面々ならいざしらず、まったく知らない人と目を合わせるのは苦手だ。でも、この子を凝視してしまっているのは、そのジト目が意外にも綺麗だったからだ。
警戒を解かず、時々灰色に光るおおきな瞳。半分まぶたで隠されている黒い視線。
それが近距離で、上目づかいに見てくるものだから、胸の中をちいさな手でくすぐられているような気分に。
(……これが「尊い」というやつか?)
年下だろう男の子に「私は年長だから遠慮しなくていい」と一方的な判断を下したからか、それともただ単に魔界の空気に染められたからか。生前、生きた人間にいだいたことのない図々しい感情が、心の新たな扉をきしませた。しかし――
「バブルパルス!」、突如、目の前の「尊さ」が豚の顔のようにゆがむ。
それも見てられないくらいの、ひどい形に。
見覚えのある細い手がかわいい少年の頬をつまみ、パン生地でものばすかのように左右へビロンと広げ、なにが起こったと考える間もなく、こんどは雑にギュッと圧縮したのだ。
うーうーと声を上げて手足をジタバタさせているノエルの頭上にいるのは、先ほどまで自分の後ろにいた黒い影。
潜水艦のしわざだ。尊さがだいなしだ。
「バブルパルス! バブルパルス!」、拡張と圧縮は、容赦なくなんども繰り返された。
「やぁっう! やっう! あぁぁ!」、少年は苦悶の表情。
「アイノやめろぅっ!」、あわてて手をのばす。からみつく魔の手をすばやく除去し、かわいいこの子を自分の庇護下に入れなくては。「だめだよ!」
腕を払って、潜水艦の魔の手から民間人を奪取。しかし、やつはあきらめる気がない。
「むぅ、こしゃくなまねをぅ!」
標的を変えた海の忍者は「バパス!」との謎のかけ声とともに、忍ぶこともせずに正面から飛びかかってきた。負けてなるものかと応戦し、不届き者を成敗しようとしたが、慣れない雪の上で足がもつれて……。
ふたりで転がり、雪だまりの上へ。なおも潜水艦の攻撃は続く。
「すきありぃ!」「なんのぉ!」
くすぐるつもりだろう、執拗に服のすきまを狙う手。それを繰り返し防ぎ、雪の上で格闘する。
「よいでわぁ! よいではないかぁ!」「どこで覚えたぁ!」
時間にしてたっぷり1分間。雪粉を巻き上げて行われた熱戦は、まわりの雪を溶かすほど。
おかげでベシャベシャに濡れたふたりは、冷たさに我に返って休戦を決めた。
「ぶはぁっ! ……あれ、あの子は?」、顔面の雪を、鼻と口から出る息で豪快に吹き飛ばしたイーダは、ノエルが消えたことに気づく。
「あれ?……逃がしちゃった?」、顔面雪だるま状態のアイノと、ふたりならんでプレーリードッグのようにキョロキョロと。
あるのは雪と、曇り空と、少し遠くでこちらを見て笑っている酔っぱらいたちだけ。
「……そっか」
熱戦終わって汗が冷え、心もすっかり冷静に。
私たちはいったいなにをしていたんだろう。
「…………」「…………」
はしゃぎすぎた。ただ、はしゃぎすぎただけだ。
そしてノエルも姿を消した。
「……帰ろ」、心をローギアに入れたまま、雪だまりから出て、白く化粧された石畳を進む。
肩にかかる妙な重みが、歩くのを怠けている相方の存在を告げた。
「離せぇ」
「Negative」
宙に浮いたままのアイノを引きずり、王宮へ。
騒々しいのもむべなるかな。暦はもう、12月だ。




