笑うご主人様 18
大地をいたぶりながら歩くように、重い足音を残すギジエードラゴンは、洞窟の外に出ても飛ぼうとしなかった。
(まだ翼の傷が完治していないんだ……)
昨晩バルテリが開けた翼の穴は、もう再生が進んでいるのか、薄い皮膜で閉じかけている。けれど飛べるほどの正常にも見えない。そのせいか、竜の表情は昨晩よりも不機嫌そう。「今回は地の果てまで追いかけてでも殺す」といわんばかりに、殺意が黒紫の瘴気になって大地をなでている。
背中にはマントで鞍にくくりつけられた、ドラゴンの奴隷――おそらく先日まではご主人様だった人物。晴れた空の下で見て、ようやくその表情がわかった。彼は恐怖と絶望が相席する、引きつった笑いのまま事切れていたのだ。
「アール、きたよ」、こんどは気圧されないよう、腹に力を入れて言った。
「そのようで。彼がエリックですか。これは……なにも言えませんな。せめて苦しみが短かったことを祈るばかりです」、アールはそう言ってため息をつき、口をつぐむ。同じ勇者なのだ、思うところがあるのかもしれない。
しばらく押し黙っていた後、彼は意を決したかのように顔を上げた。
「レッドドラゴンよ! ここは私が戦う!……イーダ、バグパイプを持っていてくれませぬか? 私はひと駆けしますので」
「うん、わかった」、受け取った楽器のむこう側、シャラン! と抜かれたクレイモアが太陽を反射して輝く。肉厚でまっすぐな刀身を、Vの字型のつばがささえていた。つばの先端には四葉のクローバーみたいな飾りも。それがどこか呪術的に感じて、イーダはこの剣がそのへんに売られている物とは違う、特別な一品に思えた。
きっとこの白い剣は、黒い竜を灰にするためにあるのだろう、なんて考えるほど。
次にアールは液体の入った小瓶を取り出し、周囲に中身を振りまいた。液体が三日月を描き、地面にシミとなって落ちる。それに近づかないほうがいいかなと思ったから、少女は「それは?」と正体を聞いた。
「ああ、海水です。『海は天然の要害』と言いますゆえ、その力をお借りしようと」、ウインクをし、竜人は腰を伏せた。そして左腕を錨のように地面へ落とす。クレイモアを肩にかついで、金色の両目で黒竜を見すえながら。
「――<大海はここに三色十字の盾となる>」、魔術の行使。さぁっと風が吹き、ウイスキーのような香りが駆け抜けた。と同時、見えるはずのない壁かなにかが自分たちを守って、竜の殺意に立ちはだかるのを感じる。それが魔法でできた透明な盾であることに、イーダはなんとなく気づいていた。
そしてその先には、頭を落として肩を怒らせる黒竜の姿。四肢に力を入れて、おおきな爪が大地に痛々しく突き立てられる。
のどが鳴る、ガラガラという耳障りな音。一瞬それがやんだかと思うと――バシャッ! 輪郭をゆがめながら飛来する、黒い毒の塊。先日バルテリが必死になって雹で撃ち落とした、地面すら溶かしてみせる恐ろしい悪意。
しかし――気持ちの悪い音を立てて飛来したそれは、アールに当たる直前にバチャリと宙で止められた。ガラスにペンキをぶちまけた時のように、バチャリ、バチャリとなん発も。
そして視界がほとんどなくなったとたん、波に飲まれる小舟のように、ひっくり返って消えたのだ。竜人は一部始終を至近距離で観察し、満足そうにあごを指でかく。「ふむふむ、効果は抜群、と」
(勇者の魔法って、あの毒液をこんな簡単に防いじゃうんだ)
飛んだりはねたりしながら必死でかわしたあの夜と違い、今はただ立っているだけ。なのに盾は身じろぎすらせず、時々毒液を振るい落とすのみ。窓ガラスについた雨粒を、ワイパーがふき取っていくような、軽い所作に思える。
これが勇者特有の「不正なほど強い力」なのだろうか、イーダはそう考えながらも、「いや、ちょっと違うな」と感じていた。アールの魔術へ、「なんか勇者の魔術っぽくないな」なんて思ったのだ。
それはアールの言動がシニッカの言葉と重なったからだった。「海の力をお借りしようと」と言った勇者と、「言葉の持つ不思議な力を、借りてしまおうというわけ」と言っていた魔王。ふたりは対の存在なのに、ともに世界へ「力を借して」とお願いしていた。いわゆる「チート」能力を持つ勇者ならば、世界の力を必要としないはず。とくにヴィヘリャ・コカーリが敵とみなす者は、「この世界を踏みにじる」タイプの勇者なのだから。
「じゃあ、アールってどんな勇者なんだろう?」、当然の疑問がわいた。魔族に敵対しないというだけだろうか? それとも、自分の見たことないタイプの勇者なのだろうか、と。
そしてイーダは、この世の勇者の姿を、はじめて目にすることとなった。
赤い竜人は太い両脚で立ち上がり、半身になって地面を踏みしめる。剣を両手で持ちそれを顔の横にかかげ、剣先をギジエ―ドラゴンの眉間にむけて。
横長の口をわずかに開き、潮の匂いのする空気を吸う。
「――<大地よ竜が駆けるから、その硬さでもって我が健脚にこたえよ。空気よ竜がはばたくから、その濃密さで我が暴風にこたえよ>」
彼は語りかけた。顔も人格もない、世界を構成する概念たちへ。
「――<魔力よ竜が泳ぐから、そのなめらかさで我が道を開けよ。世界よ悪を倒すから、どうか善意をもってこたえられよ>」
一言ひとこと大切に。彼は世界に準備をさせて、今から強い力を使うから身構えてくれと言っているよう。
(……ああ、そうか)
彼は世界と共闘しているのだ。バグモザイクを生み出さないよう、慎重に丁寧に。
だからその挙動にシニッカたちと同じものを感じていたのだ。
「――<神よ願わくは、醜悪なる黒水晶を我々から遠ざけたまえ。我が敵の血肉を、肥沃な大地に戻したまえ>」
途中、毒液がなんども飛来する。そのたびに海の盾で防がれ、彼の語りは止まらない。10発ほどの攻撃を防いだ後、アールは手番を自分にうつした。
「参る!」、彼が叫ぶと、分厚い魔力の波を感じた。それは竜人を後押しするように彼の背へ当たり、空中へ高くたかくそびえるように思えた。
天を衝くほどだったから、その先端は見えない。けれどこれだけ巨大な力なのなら、確信をもっていえることもあった。
――きっと今、世界は彼の味方だ。
「――<Avalanche in Salerno>!」
雪崩打つ魔力。アールが消えた。
いや、彼はドラゴンの前にいる。
振り終わった剣に魔力の残り火をゆらめかせ、おおきい背中から蒸気をたなびかせ。
――ドシンッ! 遅れること1秒、竜の体の上半分が斜めにずれた。
(切った⁉︎)
竜人の一撃はギジエードラゴンを真っ二つにしたのだ。なにが起こったのかわからない当の黒竜は、ただただおおきな声でわめく。長い首を上空へ振りまわし、苦しそうな声を出して。
それはラッパのような、バイオリンのような、不思議な声。
(なんか……きれいな音色に感じるな)
あのドラゴンから聞こえたどんな鳴き声や音よりも、澄んで聞こえるのは皮肉だろう。それが断末魔というものだろうことを、イーダは確信していたから。
竜の上側が地面にずり落ちると同時に、その体は淡い光につつまれて霧のように消えていく。光の粒子がたんぽぽの綿毛のように、左右にゆれながら天へ昇っていく。
「倒したんだ……」、ひとりごつ。いきなり静かになったから、イーダはあたりを見まわした。
草木は穏やかな風に身をまかせてゆれている。魔力は水面に水滴を落とした時のような波紋を残しているけれど、じきに平らな水鏡となるだろう。空気はすんで、肺をなでる。空はあきれるほど高く青い。
視界の中で主張していた黒い竜は、もうどこにもいない。いつもは勇者とともにあらわれていた黒い水晶も、今日は出る幕もない。ただひとつ、勇者の死体が、色あせた赤いマントの下からやせ細った腕をのぞかせているだけ。
風景の真ん中にいる赤い竜人は、穏やかたるその中でゆっくりと剣をしまった。片手を顔の前で立てて、消えたギジエードラゴンと残された勇者に祈りをささげながら。
「やさしいんだね、アール」、彼に聞こえるか聞こえないか、そんな声でつぶやく。
赤いドラゴニュートは振り返り、長い口ではにかんだ。




