笑うご主人様 12
イーダが気づいた不自然なこと。それは今しがた分析した相手の戦力に、自分たちが最も恐れなくてはならない黒衣の男――勇者が勘定に入っていなかったこと。
一番警戒すべきは彼のはずなのにもかかわらず。
でも理由はあった。どうにも、勇者が戦いに参加しているように見えないのだ。
「シニッカ、変だよ。勇者、なにもしていないよね?」
「ええ、そうね」
「魔法のひとつでも撃ってくると思ってたのに」
なにか策でもあるのか、それともただなめられているだけか。もしくは、それ以外に理由が? いぶかしく思っていると、となりで魔王の微笑む声。
「――頬がゆるんじゃうわ」
「え?」、意外な言葉に彼女を見る。その横顔には、唇の間を出入りする長い舌。蛇が獲物へ噛みつく前に、その匂いをかいでいるような。
声はバルテリにも伝わったようで、彼から督促するような発言があった。
「魔王様よ、笑える話ならシェアしてくれよ」
「『いい知らせと悪い知らせ』があるけれど、どちらからにする?」、洋画のようなことをいうシニッカの表情は、先日の昼食で盗品の肉をほおばった時と同じだ。戦いの時、彼女はいつもそうだった。とくにピンチに陥った場面では、かならず笑ってみせるのだ。
「ええと、いい知らせから、かな」、そういって答えたのは、勝利への道が見えた気がしたから。
「私たちは勝ちつつあるということ。私が水に落としておいたしかけ罠へ、どうやら特大の魚がかかったみたいね」
「この前あんたが言っていた『悪事』ってやつか。じゃあ、悪い知らせはなんだ?」
「戦果を確認するためには、相手の懐に飛びこむ必要があるわ」
「笑えねぇ話だったな」、狼の背中が小刻みにゆれる。
(……ああ、笑ってる)
そうだった。よくない状況ではあるけれど、絶望には程遠いんだ。だって、今一緒にいるのは魔獣と魔王なんだから。
「ねえバルテリ。北欧神話にはいろいろな化け物が出てくるけど、一番強いのはフェンリル狼? それとも竜のニーズヘッグ?」
「笑わせんなご主人様よ。ヨルムンガンドにだって噛みついてやるさ」
戦いの主役はふたりだろう。でも、にぎやかしなら。イーダはそう思って、袖の下の小枝を確認する。自分にもできることはあると、戦意を魔腺へキュッと編みこんで。
袖から小枝をちょろっと出し、ふたりに見せながら言った。
「牙にはかなわないけど、釣り竿もあるよ」
「素敵よイーダ。エサはなに?」
「魔王様だな。そうだろう?」
ほんの短い時間、そろって響く3人の笑い声。息を合わせて戦うための、ささやかな決意だ。
そして3人で戦意を敵にむける。
「……やりましょうか」
「ああ、こざかしくな。<ᚻ,ᛋᛖᚢᚱᚪᚪ:ᛗᛁᚾᚢᚪ>」
バルテリは雹弾を頭上に展開させて、2、3歩下がり身を伏せた。崖の端が相手からの射線を切って、でもこちらは攻撃可能となる、絶妙な位置取りだ。
「稜線射撃ってやつだ。<ᚣ、矢を放て>!」
空気を冷たく切り裂いて、魔法が再び悪天候をもたらす。視界の外――おそらく崖下にいるドラゴンの鱗の上で、なんども氷の爆ぜる音。それに混じって敵の低いうなり声が、忌々しい感情を隠そうともせずに伝わってきた。
「当たってる、当たってる」、ベルトを外して立ち上がったシニッカの、楽しそうな報告。「それに、いらついてるわ」
「いい傾向だ」
「そろそろ……くるわ! 飛んだ!」
視界に竜が翼を広げる。それは思ったよりも近くて、おおきくて、驚きをこらえるのに奥歯を噛みしめる必要があって。
けれど、こちらの思うつぼだ。
「走って!」
――合図に、狼が駆けた。
フェンリルの青い毛並みが、魔王の濃紺の長い髪が、風にさらされ強くなびく。一緒になって、自分の短い黒髪がバタバタと踊る。私だって戦うのだと、強く、強く感じているから――
毒のよだれをバシャバシャたらし、大口の砲門をこちらにむけるドラゴンを、怖がることなんかない。
黒い爪の持ち主が、鱗を鳴らして前脚を振るう。風切り音を鳴らしたその攻撃が肉を裂くことがなかったのは、宙に浮く雹弾を足場に、バルテリが真横にはねたから。そしてそのまま身をよじり、次の足場を片脚で踏みしめると、体をまわしながら竜に飛び掛かった。
目に映るものが幾重もの線状に引きのばされて、視線がものをとらえられず……。
――ガギィンッ! 鉄同士がぶつかるような音。ガクンと体が前に倒れる。限界までのびたベルトが座席を引っ張って、ギリギリと軋み音を立てた。
叩きつけられたフェンリルの爪が竜の鎧に弾かれて、火花の残滓が空を舞う。やはり効いていないのだ。長い首の先、赤い瞳の黒い顔が振り返った。羽虫でも見るかのような、いらだちにあざけりが混ざった表情。
リスクを取って全力で行われた攻撃は、鱗の1枚もはがしてはいない。
でも、それで十分だ。狙いは竜じゃない。
目の前には、赤いマントで鞍にくくりつけられた勇者の姿。青い地を蹴り、その男に飛び掛かるのは、夜空に浮かぶ濃紺の影。
「――<ᚸ、斧よあれ>!」、一閃、青い三日月が勇者を襲う。
魔力で鍛えられた斧槍が、勇者の左腕を切り飛ばし、わき腹に深々と切れこみを入れた。
(――やった!)
空中でくるくるまわる勇者の腕へ、シニッカが手をのばす。宙を泳ぐように、頭を下にして、着地のことなど考えていない動きで。
(あ、いけない!)
内臓が浮き上がる感覚は、重力の手まねき。魔王も左腕も狼も落ちる。竜を空に残して、地面を目指す。
シニッカは切り落とされた腕を抱え、こちらに手をのばした。到底届く距離じゃない。このままだったら、彼女は地面に叩きつけられてしまう。
――でも大丈夫、私がいるから!
「のびろ<ᚦ>!」
いばらのルーン。血管を白樺の風が吹き抜けた。手首の内側に用意した小枝が、稲妻のように宙を走ってゆく。枝に血液を吸われているような疲労感が腕に負荷をかけてきて、だから全身に力を入れてそいつを押し返した。
「シニッカぁ!」
「Hieno!」
小枝と魔力の救命ロープが、シニッカをとらえぐるりと巻きつく。手のひらにはなにかをつかんだ感触。
「戻れぇ!」、腕を引き寄せ命じると、白樺の小枝は魔王を狼の背中に釣り上げた。
(うまくいった!)
ただし、無我夢中で引き寄せたから、当然ふたりの体は交差し……。
「うぎゃぁ!」「あああぁ!」、まず激突で叫びがひとつずつ。
「うっげぇ!」「むぎゅぅ!」、そしてバルテリの着地でもうひとつずつ。
雹弾を撃ち出して追撃するバルテリの上、背もたれと魔王のバンズにはさまれたイーダはミートパテの気分を知った。
目の中に星を飛ばしていると、自分の上にかぶさったほうのバンズが起き上がり、となりの座席へ。ファストフードになった余韻を味わう暇もなく、もう次の行動がはじまるのだ。
「やるじゃないイーダ!」
「まっ……あね!」、呼吸を整えながらだったから、変な声が出た。
「釣果はどうだ? お嬢さんがた」
「左腕がひとつ釣れたわ」
「上々だな。次はどうするよ?」
ドスン!
音の主は翼を穴だらけにされたドラゴンだ。土煙を巻いて着地し、勇者を傷物にされたことと、飛ぶ力を奪われたことに、いらだちが怒りに変わって爆発しそう。
首の中を、胴体側からなにかのおおきな塊が移動している。たぶん、今までで一番強い攻撃がくる。
「逆鱗に触れた、かな?」
「そうね。あなたの特技を、バルテリ」
――ドザッ! 旋回、そして急加速。
シニッカの言を聞くが早いか、乱暴に体がゆらされて、景色が後ろにすっ飛んでいく。夜闇で彩度の落ちた茶色の崖面が、濁流のような模様で自分たちの脇を猛烈な速度で抜けていった。
狼は逃げ出したのだ。竜の咆哮に尾をむけて。
ドラゴンの吐く毒液は、もう自分たちに届かないだろう。
「っと、あいかわらずたとえがたい速さね」
「逃げ足だけならスレイプニルよりも速ぇさ!」
「今日ばかりは、本気で頼もしいよ!」
「光栄だ! 樺の枝の釣り人!」
黒竜の怒りの叫び声が聞こえなくなるまで、闇夜の逃走は続く。
高速で流れる景色の中、星だけは動かずに、彼女たちの戦いを苦笑して見おろしていた。




