笑うご主人様 11
「お嬢さんがた、準備はいいか? やつが動き出しそうだ」
ドラゴンは崖下に首をのばし、警戒するように低くうなる。崖下からでも竜の背中が見えて、そこでイーダははじめて気づいた。両翼の間に鞍がつけられ、そこに勇者が座っているのを。
鱗と同じ、黒いローブに黒いフード。その上から重ね着した赤色のマントが、騎兵の持つ旗のように翻る。表情はよく見えないけれど……あれは、うすら笑い?
「<ダンパーよあれ>」、となりに座るシニッカが、戦いにそなえて衝撃吸収の言遊魔術を唱えてくれた。北欧神話に出てくる馬スレイプニルが、その8本脚でもって術者を過剰な重力加速度から保護するのだ。戦う猛獣――フェンリル狼に騎乗する時、これがないと加速や減速で大けがをすることだろう。
「勇者がやっと姿をあらわしたね。どうするの?」、イーダは相手を見すえたまま、頬へ汗をつたわせる。おおきな獣同士の戦いになりそうだけれど、どのように行われるのか見当もついていない。しかし、なにか嫌な予感がしていた。
それはフェンリル狼になったバルテリも同じ。「魔王様よ、いったん逃げるか? 位置関係があまりよくねぇ。頭を抑えられてる」
「だめよ。だってほら」
黒竜が大口を開ける。
「もう手遅れ」
ドンっと地を蹴る音がして、ベルトが体に食いこんだ。歯を食いしばって耐えること半秒ほど、こんどは逆方向の衝撃によって背もたれに押しつけられる。
青い狼の遠慮ない回避動作。敵の初撃を後ろっ飛びにかわし、爪を立てて崖面に張りついたのだ。
「かっはぁ!」、イーダは肺の空気が全部出る音を聞いた。口がぱくぱくと酸素を求める。急いで吸わないと、きっと次の動きがすぐにくる。なにせ今は戦いの最中なのだから。
壁面にぴたりと張りついた魔獣の上、はあはあと息を調整していると、魔王と狼はそろってつぶやく。「Voi ei」「見ろよ……」
「はぁっ、はぁっ。どうしたの?」、狼から引きつった笑いが伝わってきて、イーダはなにに気づいたのか聞いた。めずらしいと思ったのだ。いつも飄々としたバルテリが、なにかを恐れることなんてないように感じていたから。
おおきな狼の後頭部から顔をのぞかせて、彼と同じものを見る。見おろす先にあるのは、今まで自分たちがいた場所。
マグマのようにグツグツと煮えたぎる黒い液体が、地面の一部を毒の沼に変えていた。
「うわぁ……」、自分の顔がそれこそ話題に上がっていたマグロやニシンのように青くなるのを感じる。ドラゴンは炎を吐くものだとばかり思っていた。どうやら毒液を、それも地面すら溶かすような強酸性のものをまき散らすことだってあるらしい。
あらゆるものを腐食させるであろう液体が、生理的嫌悪感の触手でイーダの体をまさぐってきた。炎で焼かれるのも嫌だが、あれを浴びるのは絶対ごめんだ。
「俺は毒魚を釣る趣味なんかねぇぞ。魔王様はそうでもないだろうが」
「失礼ね、悪食なんてしないんだから。でもイーダはあるんじゃない? 日本人ってフグとかの有毒生物を食べるでしょ?」
「そもそも釣られたの私たちじゃない?」
なんとか冷静さをたもっていられるのは、頼りになる仲間のおかげか。
谷底から移動した自分たちと入れ替わるように、竜が重い足音を鳴らして馬車に近づく。飛び散った毒液のせいで、馬は2頭とも首から上を綺麗に溶かされていた。
(狙いは宝かな。……お馬さんたち、ごめんなさい)
自分たちが連れてこなければ、今ごろ厩舎でぐっすり眠っていただろうに。悪い気になってしまって、ついつい懺悔したくなった。
けれどそんな暇などない。
「バルテリ! 魔法を展開して!」
「承知した。<ᚻ,ᛋᛖᚢᚱᚪᚪ:ᛗᛁᚾᚢᚪ>!」
狼の魔法がおおきく丸い氷の塊をいくつも宙に浮かべる。それらひとつひとつに刻まれたᚻは雹のルーン。「Seuraa minua」との詠唱に応え、周囲を守るように展開された。
「飛ばれると面倒よ! 翼を撃って!」
「了解だ! <ᚣ、矢を放て>!」
甘い樹液のような白樺の香り。一瞬それがあたりに立ちこめ、魔力が爆ぜる予感。
瞬間――空気を裂く音がした。氷の球が弾丸となり、翼を貫かんと襲いかかる。
1発、2発、3発、4発……。白い軌跡をわずかに残し、次々と黒い巨体へ吸いこまれていく。
ガツン! ガツン! と重い音が連続して響き、竜を太鼓のように打ちつける。が――
「……え?」
ダメージを期待したイーダが見たのは、盾のように立ちはだかる、鱗で覆われた翼。胴体と勇者をそれで覆って、荒れ模様の空へ鋼の傘をさすドラゴンの姿。そいつは氷弾を装甲で粉々にし、キラキラ舞う破片の装飾をまとって余裕そう。
バルテリの心から、カチンといらつく音が聞こえた。「はぁ⁉︎ だったら顔面を冷やしてやるよ!」
ガァッ! と咆える。竜の頭へ一直線に、他よりひとまわりおおきな雹が飛んだ。
ガキキィ!――命中だ。被弾に竜は長い首をおおきく後ろにゆらし、天を仰ぐように倒れ……。
いや、倒れてくれない。巨体が地面に倒れる音も、断末魔の声もしない。
首を前に振り元の位置に戻った頭の真ん中、あろうことか最後の1発は黒い牙のおおきな口で受け止められていた。そして情緒たっぷりにそれを噛み砕き、竜は殺意の目をむける。
「マジか、ふざけんな」
正直すぎる悪態だ。おしゃれな言葉を使う普段の彼を知っているから、後頭部しか見えなくてもどんな顔をしているか想像がつく。竜から見たら、苦虫を噛みつぶす狼が長い鼻の上にしわをよせているのが見えるだろう。その背中の上で、口を開けてあっけに取られている日本人の顔も。
「ど、どうしようあれ。ねえシニッカ、なにか策はない?」、思わず魔王に顔をむける。事態を打破する知恵が欲しい。でも、彼女は敵を観察し、口の中でなにかをつぶやくだけ。「……翼を硬質化させたってことは、そうしないと貫かれるからか。でも、あの男……」
「シニッカ?」
「くるぞ! 捕まってろ!」
飛来する猛毒の塊。
ぐぐっと沈みこみ、次の瞬間には天に撃ち出された。衝撃に目を閉じて、強く鞍に押しつけられて、風圧を感じて。自分が矢になったのなら、こんな感じなのだろう。そして頂点に近づくにつれ、じわじわと存在を増す浮遊感。目を開けると、数十メートル下に、2つの赤い目がこちらを見上げているのが見えた。
――その口に、黒い液体をたっぷりたたえながら。
「わぁぁぁ!」
「Paska!」
バルテリが氷球を撃ち出して、毒液を迎撃する。高速で飛んでくる黒い塊を、白い雹が正確に射抜いて落とす。眼下でバチャッ、バチャッと鳴るのは嫌な音だけれど、もしその音がしなくなったら、それは迎撃の失敗を意味する。すぐに激痛とか絶望とかが体を覆いつくしてくるだろう。
攻守は交代し、1発、2発と撃ちこまれるどす黒い殺意。すんでのところで雹が防いでくれているけれど、相手の攻撃は数が多い。迎撃しきれなかった毒液が、不気味な音を鳴らして頭の上をかすめていく。
(ヤバイ! 怖い!)
それを口にするのも恐ろしい。口を開けたら毒液の飛沫が飛びこんできそうに感じていた。
空中で迎撃しながら地上に落ちてゆく。ドラゴンののどが不快な音を立てるたびに、粘り気のある液体が風圧に形を変えて飛んでくる。防戦一方の状態に、防御の雹もあとわずか。
狼の弾切れとともに、竜の攻撃が打ち止めとなった時、地面はもうすぐそこにあって――
「怖ぁいぃぃぃ!」
「舌しまえ!」
激突する直前、バルテリは敵を見たまま後ろ脚を振り、姿勢を変えて逆側の崖上へ着地した。慣性の力に容赦なく押さえつけられて、イーダは口から「ぐひゅっ」っと情けない音を出す。
(……い、生きてる)
頭をぶんぶん振って、なんとか姿勢を正した。「竜は?」、はっとして崖の下に目線をやると、ゆっくり身を翻し、こちらをにらみつける黒竜の姿。その背中には、相変わらず表情の見えない勇者らしき男も。
思考を落ち着けるため、ふぅっと深呼吸をした。毒の瘴気を吸ってしまったかもしれないから、それを肺の中から出したいとも思った。
(どうしよう……)
非常にまずい状況だ。バルテリの魔法はあいつに効かないのだ。
かといって、毒液をかいくぐって接近するのはリスクが高すぎる。仮に接近できたとして、あの硬い鱗のせいで、狼のおおきな爪が敵の肉や内臓に届くことはないだろう。
それ以前に長い首の内側には、太い脚とその先についた鋭いかぎ爪があるから、肉弾戦だって容易ではない。そもそも、相手は翼の硬質化を捨てれば空を飛ぶことだってできるのだ。
遠距離戦もだめ、接近戦もだめ。――でも。
(あれ? 待てよ?)
イーダは不自然なことに気がついた。
それはこの劣勢において、反撃ののろしに火を着ける、ちいさい火のようにチロリと光った。




