笑うご主人様 10
今日は2021年の10月28日。書き終えた日記を読み直し、パタンと閉じる。
もう夜だ。
低い崖面にはさまれた谷の底、馬具でつながれたままの馬2頭が不満げな顔を浮かべている脇。パチパチと小気味いい音を立ててゆれる焚火が、体の一部を夜空に投げている。線香花火みたいなちいさい火の粒が、星々に混じって消えて、混じって消えてを繰り返し……。
パチンッ! イーダが間違えてくべた生木が、おおきな音ではじけた。おおげさに舞った火の粉が、天の川のように視界を飾る。
つられて見上げる上空は、見ごたえがあった。
(……やっぱこの世界の夜空、最高だよ)
広がるのは満天の星空。
異世界――フォーサスと呼ばれるここにきてから、晴れた夜はぜいたくな娯楽となった。排気ガスもなければ街灯もないから、澄んだ空気が星々までの距離をずっと短くしている。そのきらめきへ手をのばせば、すくって取れそうなほど。日本ですごした15年の人生で、一度も見られなかった光景が広がっていた。
またたく星の形なんてわかるはずもないのに、ひとつひとつが月のように満ち欠けしているように見えてきて……。本で読んだ星座の形はこじつけだと思っていたが、彼女は最近その考えを捨てた。これだけすばらしい光景を見ていたら、神話とからめて考えたくもなるのも納得だ。
「口、開いてるわ。コナー・ギタレスのマネ?」
「違うよ。アマノガワ・マグロのマネ」
そんな生物はいないけれど……。わけのわからない嘘をついたのは、ドクの影響か。
「『鳥のとおり道のマグロ(Linnunradan tonnikala)』だから空を飛んでいるのね。新しい水産資源が手に入るのなら、喜んで星の海に釣り糸をたらすわ。エサはゴカイでいい?」
「ケーキがいいよ。釣り針が鋭いと怖がって釣れないから、丸めておいてね」
火加減を調整していたバルテリが、声を出さずに笑う。「そいつが本当にいるのなら、星を砂糖菓子と勘違いして生まれたに違いない」なんて言いながら、手に持っていた枝を火に投げ入れた。
リーンベリーを出て3日目、馬車駅のない場所で夕方を迎えたイーダたちは野宿をすることに決めた。
丘の真ん中をブルドーザーの群れがならんでえぐったような谷。余白をたっぷりとって敷設された広い街道は、どうやって造られたのか想像もつかない。世界中に張りめぐらされたこれは『The road of the gifts』というそう。大仰な名前がついているのは、この道が創世期に造られたものだから。シニッカに言わせると、『The road of the presets』なんていう色気のないものになってしまうけど。
この場所はよく夜営地に使われるのだろう。旅人の足あとのように、焚火の燃えカスが点在している。今日はそのひとつを再利用して、脇にはテントも張った。3人で寝るには狭すぎるけれど、バルテリはここに入らない。おとといも昨日も馬車の上で毛布にくるまり、見張りをしてくれているのだ。
(申し訳ないなぁ)
夜空からうつした視線の先、炎でオレンジ色になった狼男の横顔。端麗で表情豊かな彼は、今も楽しそう。おそらくその理由は、夕飯の時にできた足元に転がるパンくずだ。新しい小枝を手に取ってパンくずを先端に引っかけると、バネの要領で宙に放る。離陸した小麦粉のかけらは鮮やかな弧を描き、焚火の山脈を軽々と飛び越えて、濃紺の髪の大地へ着陸を果たした。
「私が『2グラムくらいの穀物の加工品で頭頂部を飾りたい気分』だったのなら、ありがとう、バルテリ」、顔をよぎるペストマスクのベルトの下で、青い瞳が狼を責める。
「礼には及ばねぇさ。『朝起きた直後、たくさんの小枝を髪に挿されていたい気分』を気づかってくださったお礼だ」、フェンリル狼が今朝魔王にされたいたずらのお礼を述べる。
(仲いいなぁ……)
シニッカとバルテリは長いつきあいなのだろう。ヴィヘリャ・コカーリの他のメンバーにくらべ、「息が合っているなぁ」なんて感じる瞬間が多い。親戚同士というか、ともすればきょうだいというか。もっとも、ふたりとも髪が青いからそう感じるのかもしれないけれど。
「イーダ、他人事だと思っているのなら、じきにそうでなかったことに気づく朝がくるわ」、濃紺の髪のほうが、黒髪へ警告をうながした。というよりも「あなたにもいたずらするからね」という宣告にも思えてしまって、イーダはきっぱり拒絶する。「やめてね」
「それはそうと、デザートはいかが?」、でも魔王様ときたら全然気にしてくれないのだ。パンくずを頭頂部から指の先に移動させ、ちょうど口の高さ――食べやすいように配慮された場所へ差し出してくる。
「ポイしなさい!」、それもきっぱり拒絶すると、魔王は小麦にかかわわる知識をひとつ。「人間は農耕によって発展をとげたけれど、同時に小麦へ生活をしばられることになったわ。麦のしかけた繁殖戦略にまんまとのせられたの。一説によると、狩猟をしていた時代よりも人の体は不健康に、ちいさくなったらしいわ。ゆえに私が『人類』の詞的な言いかえを創作するなら、『黄金の穂の奴隷』とするでしょうね」
そんなことを口にしたにもかかわらず、魔界の王様は小麦――奴隷人類のご主人様を指ではじき、宙へ放った。「ゆえに私はそれを許しはしない」なんて言いながら。落ちた先は焚火の中。もてあそばれたあわれな穀物の塊は、魔王直々に火刑に処されてしまったのだ。そして怨嗟の声を上げる間もなく、炎がおいしそうにそれをのみこんだ。
イーダは肩をすくめ苦笑する。シニッカたち魔族の皮肉気で、冷笑的で、しかしとても楽しそうにする習性に対しては、そうするほかにないのだ。
「しかしこないわね、勇者。せっかく釣り出してやろうと思ったのに」、魔王は早々に処刑から関心をうつし、ここにきた本題たる相手へ話題をうつした。
一方の黒髪の少女は、「まだこなくていいよ」なんて、むすっと口をとがらせる。せっかくのリラックスタイムを邪魔されたように感じたから。この星空を前に、お仕事の話なんて無粋なのだ。もちろん、サウナが恋しいから早く帰りたい気持ちはあるけれど。
「出発して3日しかたってないんだよ? そんなに簡単に見つけられるなら、コナーだって苦労しなかったと思う」
「もしかして、エサが悪いんじゃねぇか?」、バルテリが指さしたのは馬車に載せた木箱だ。あの中には過去の勇者から押収した武器防具のたぐいが入っている。事前調査で、襲われた独行馬車が貴金属でできた物品の輸送中だったことを知り、わざわざ魔界に戻って取ってきたのだ。
「白銀鋼の片手半剣とチェインメイル、幻真鍮の竪琴、愛磁石の指輪に揶揄鉄の万年筆。これだけ集めれば嫌でもよってくると思うけど」
「高価な金属なんかより、シンプルに匂いの強い食い物のほうがよかったんじゃないか? 豚やニシンの燻製でも樽に詰めて」
「腐らないならそれもよかったかもね。リーンベリーでは赤いニシンが取れるみたいだし。でも手っ取り早く済ませたいじゃない。2か月も3か月も旅を続けるのは嫌よ。ここにはサウナがないのだし」
魔王はすまし顔をしながら、そこへ「『クリスマスまでには帰る』って決めているんだから」などと台詞をつけくわえてみせる。当然、非難ごうごうだ。
「よしてくれ魔王様。そいつは『戦死』のケニングだ」うんざりした顔のフェンリル狼の横で、「現代日本では『死亡フラグ』ともいうよ。やめてねシニッカ」イーダもしかめっ面を返した。ならんだふたつの不満は、「あらふたりとも。なかよくいい表情するじゃない」なんていう魔王の感想に、こんどは顔を見合わせてしまった。
「ねえバルテリ。シニッカが時々こういういじわるするのって、私たちの顔を見て蜜を味わうためかも」
「同感だ。身分の高い人間ほど娯楽に飢えるって話もあるしな。仲間にひどいことしやがる」
「違うわ、暇なだけよ」、シニッカの雑な言いぐさ。「よけい悪ぃや」とバルテリはあきらめ顔。「もうっ!」と一言吐き出して夜空を指さす。「宝石みたいな景色があるのに、暇なんてことないよ!」
「だって加工も売却もできないじゃない、その宝石」、返ってきたのは、どうしようもないくらい現実主義的なこと。それが本心でないことくらい、3か月も一緒にいたからわかるけど。
魔王様は、しばしばへりくつをこねるのだ。……とくに、暇な時は。
そして早くも会話に飽きたのか、こんどはきょろきょろとあたりを見まわしはじめた。これでは、今回の依頼者――落ち着きのない半魚人のことを悪く言えない。
「シニッカって、子どもみたいな時あるよね。年齢はいくつなの?」
「いくつに見える?」
若作りが自慢だった近所のおばさんが、そんなセリフを言っていたなぁと、あきれてしまう。だから「一万歳くらい」。絶対に実年齢よりも高いだろう数字を口にしてやった。
「残念! 正解は……あら?」
返答が途中で切れたので、イーダはシニッカが自分の歳を忘れたのかと思った。が、またまたうつり気をしただけだった。少し離れたところにある岩に興味をうつした様子なのだ。首をかしげ、興味深そうに。
視線の先、崖の下に落ちているのは、星のようにキラキラ光るなにか。
「ねえイーダ。拾える星があったら拾うでしょ?」、答えを聞かず立ち上がったシニッカに「交番に届けるよ」と言いかけた時、バルテリが横やりを入れた。
「気に食わねぇな」
「心が狭いわ」
「違う、そっちは風下だ」
いつものやさしさを帯びていない、低い声で短く告げる。
事務的とすら感じる端的な物言い。兵士が口にするような、緊張をあたえる話しかた。
だから、寸秒の沈黙があった。
森の梢がざわめいて、鳥の群れが飛び立って。すぐに、イーダの心へ警報が鳴る。
「――罠⁉︎」
「<獣化せよ>!」
「<疾走せよ>!」
3人の声に反応するように、崖の上で空気がゆがんだ。背景の夜空を巻きこんで渦巻き、輪郭をあらわにしていく。それが自分たちにとって不利益をもたらすものだろうことは、容易に想像できた。
「乗れ!」、渦の正体を見届ける前に、イーダは魔法で疾走するシニッカに抱えられ、転がるように青い巨狼の背中へ。青い絨毯の上、自分たちが乗れるよう用意された、背もたれつきの鞍にしがみついた。そして殺気にはっとし、勢いよく振りむく。
「今のなにっ⁉︎ って、あれは!」、言い放った疑問に回答したのは、他ならぬ自身の両目。
よく磨かれた黒曜石のような輝きと鋭利さを持つ鱗。長い首、赤い眼、太い四肢に液体の滴る牙。そいつはコウモリの大翼を威嚇するように広げ、長い尾を地面へ打ちつけた。ずしんと重い音がして、大地が土埃の悲鳴を上げる。
探していたドラゴンだ。見ただけでapex predatorだとわかる、大陸の強者だ。
ゾワゾワと背すじに鳥肌が立つ。もう少しで、シニッカはあいつに食われていた。
「金塊じゃなくて釣り餌だったなんて。なんとも趣味の悪い生態ね」
「アマノガワ・マグロがこの世にいない理由がわかったぜ。みんなあいつに食われたんだ」
魔族ふたりは軽口をかわすが、イーダにそんな余裕はない。もしバルテリが気づいてくれなかったら、と想像してしまっていた。食いつかれ、吐き捨てられ、岩場に転がるシニッカの姿が目に浮かんできて、胸の内側を恐れで高鳴る心臓がなんども叩いてきた。
そんな少女を、崖の上のドラゴンは気づかわない。首を高く持ち上げると、振りおろしざまに大口を開けて咆えた。巨大な不協和音――弦楽器と管楽器をめちゃくちゃに弾いたような音が、崖面に反射して谷底を震わせる。草木がちぎれんばかりにゆれて、馬が馬車につながれたまま前足を上げていなないた。
空気の振動が耳から頭蓋をかき回し、イーダの不安定な心境に追い打ちをかける。虚を衝かれ、意識が朦朧として、なにもできずに立ちつくしてしまう。けれど彼女の横には、今日も戦い慣れた者の姿が。「イーダ、こっちを見て。<気つけ薬>」
少し強引に口元にかぶせられるのは、魔王の白い手だった。白樺の風が鼻腔をくすぐると、強いミントの香りが脳に抜けて、イーダの意識を叩き起こす。
「……あ、し、シニッカ」、ぼやけた意識が徐々に輪郭を取り戻した。目の前には濃紺の髪の少女が手早く作業をしている姿。彼女は手を止めないまま、ぱっと顔を上げて、容態を心配してくれた。
「大丈夫? ベルトをしめるわね」、シニッカが座席にしつけられたベルトで、手早く体を固定してくれている。きっとバルテリは激しく動きまわるから、放り出されて落命するなんてまぬけなことにならないように。
でも、普段自分でできることを、わざわざやってもらうなんて……。イーダはようやっと意識を完全に取り戻した。「ごめん。大丈夫だよ、ありがとう」
「ひどい音だったわ。あいつは楽譜を読めないのかしら」、くすりと笑う魔王様。
(ああ、私はなんて情けないんだ)
今回も仲間におんぶにだっこだ。勇者イズキと対峙した時も、意識混濁していたところを彼女に助けられた。また敵の前ですくみあがってしまった自分は、本当に戦いの覚悟ができていたのか?
いや、ちゃんとならんで戦いたい。その気持ちは嘘じゃない。
私だって緑の円形章の一員だから。
決意をすると闘志が芽生えた。若葉をつけたばかりのそれに、大急ぎで水をやる。付け焼刃だろうがなんだろうが、今は戦う勇気が欲しいのだ。
「バイオリンの弦に釣り糸でも使ったんだよ」、魔王のまねをして軽口を叩いてみた。「ふふ、松脂をたっぷり塗ればだませたのかも」と、彼女もそれに応じた。仲間と言葉をかわしてみると、恐怖がどこかへ消えたのを感じる。
イーダは敵へ目をうつす。明るい夜空を背景にした、鋭利なシルエットがこちらをにらむ。少し離れているにもかかわらず、殺意の塊がビリビリと空気を震わせていた。
しかし、負けたくない。ぱっと両腕の袖を確認する。そこには白樺の枝が1本ずつ。自分なりの武器であり、唯一持つ秘策だ。
もういちど、敵を見た。威圧なんてされてやらないと、手と口をぎゅっとむすぶ。
(さあ、戦おう)
威勢のいい言葉を、心に両手で構えながら。




