笑うご主人様 9
魔法の図鑑とにらめっこをする日々が続いていた。この世界にきて2か月、どうやらこちらの暦も地球と同じ西暦のようだから、今日は2021年の5月3日だ。勇者エリック・フィッシャーは、夕日が差しこむ宿屋の1室でベッドに身を投げていた。
(綺麗な女だったな)
宙に浮かぶ図鑑を閉じて、彼は女神ウルリカの笑顔を思い出す。誘惑していると勘違いしたあの無防備な服装と、ショッピングモールのマネキンがそのまま動き出したかのような魅力的な体。夜明けの太陽のような笑みに、いつまでも耳へ残るなめらかな声。
彼女と会った人間は多いだろう。そしてその全員が、自分と同じくいつまでも彼女のことを忘れられないだろう。エリックはそう思っていた。
信心深くはなかった彼だったが、少なくとも女神という者がこの世に存在することだけは否定しようもない。そして、彼女が「あなたは転生した」と言ったことを素直にのみこめたのは、心のどこかで望んでいたからかもしれない。生前に見た映画では、過去の独裁者やら異世界のヒーローやらが地球へ転生し、痛快な活躍をしていた。今回はその逆だが、スクリーンの中のヒーローたちへ、自分の姿を重ねずにはいられなかった。そうしていると心がなにかにくすぐられ、「今すぐおおきなことをしてやろう」なんてワクワクしてしまうのだから。
(生前か。自分で自分の生前を考えるなんて、妙な感覚だ)
地球で生活していた時の自分の姿を、映画のワンシーン――おそらく配給会社や監督の名があらわれては消える導入の部分――のように思い出す。その男はくる日もくる日も同じ仕事をしており、心をからからに乾かしてしまっていた。潤っているものといえば、車へいくつも放りこまれた1ガロン99セントのボトルウォーターと、しばらく残高を確認してもいなかった預金口座だけ。忙しく各地をまわり、趣味だった釣りもやめて久しかった。
仕事が忙しすぎて、金を使う暇すらなかったのだ。どうせ使い道のない金があるのなら、いっそのことラスベガスにでも豪遊へ行けばよかっただろうか。それとも新しい生活と新しい刺激を探すべきだっただろうか。
結局その金は引き取り手もないままに持ち主を失って、しかし自分の手には非日常が握られることに。
(で、本当に女神様に会うとはな……)
もういちど、彼女のことを思い出す。「どうせなら俺の恋人になってくれりゃよかったが」などと、浅はかな欲望をたずさえながら。
宿屋のベッドの上で体をもぞもぞと動かす。40歳近くなり、短く刈り上げられた髪には白髪が混じりはじめていた。その髪へよく似合うていどには、顔にもしわが増えてきた。
(いい女はお高くとまるなんていうが、物理的に高い位置からおりてこないやつははじめてだ。ま、いいさ)
手の届かない女性のことを、考えるのはやめにする。おそらくだが世界樹へ戻る方法はない。あっても容易ではないだろう。
頭からぱっと離した左腕が重力に従って落ち、布団の上へぼすんと音を立てる。右腕に比べて妙に浅黒いのは、彼が『長距離輸送トラック』のドライバーだったから。学生ローンが支払えずに大学を中退した彼は、それなりの収入が見こめる『Trucker』になった。最近はパンデミックのせいで宅配の需要が高まり、ただでさえ忙しかった日常が毎日戦場にいるかのようだった。
そして、ロングビーチ港を出発してフェニックスにむかう最中、レッドランズ・フリーウェイの上で彼は死んだ。
文字どおり死ぬほど強烈な記憶をたどる。そこはカクタス・シティをとおりすぎて、しばらく走ったところだったはずだ。よりにもよって事故により停車していた別のトラックへ、彼の運転するトラックごと突っこんでしまったのだ。
彼が乗っていたのは鼻先の長い『セミ・トラック』だった。普通であれば前におおきくせりだしたボンネットが衝撃を吸収し、大怪我をしたとしても死ぬことはなかっただろう。しかし例外だってある。彼が突っこんだのは、事故で荷台の木材が飛び出した状態のところ。「レスキューは運転席から、俺を取り出すのに苦労しただろうな」なんて思う。おそらく即死したがゆえ、その時の記憶がないのは唯一の救いだった。
そういった点では、同じく串刺しになったキリストよりは楽に死ねただろう。かわりにロンギヌスが持った槍よりも3倍は太い杭が体を貫いたのだとしても。
「くだらねぇ」、自分の考えへ苦笑しながら、彼はもういちど左手で前髪をかきあげた。そして不意に、苦笑を笑みへと変える。
自身に降りかかった不幸を思い出し、陰鬱な気分になった彼から、その気持ちを遠ざけたのは左腕に残る火傷あと。「ああ、わかってる。俺は『非日常』を手に入れた」、エリックは日焼けした肌のようなザラザラした声で、ひとりつぶやく。
転生したのは2か月前。そこから今日にいたるまで、彼は至極慎重に行動していた。
その街はリーンベリーといった。どうやら大陸の北東部にある港町だ。この世界においてはそれなりの規模の街といっていいだろう。港へ入ったたくさんの船が湾へ舳先をならべているし、港湾施設には多くの人が働いている。幌馬車隊が街をひっきりなしに出入りして、積み荷を各地に運んでいるから、関税を取る連中はいつも忙しく書類へペンを走らせていた。
そんな活気あふれるはずの場所にもかかわらず、この街はどこか陰鬱な空気があった。どうやらそれは領主のまずい政治のせいらしく、転生数日にして「港町の領主なのに舵取りが下手なんだな」と皮肉を言ったほど。そんな街だからか、自身の力をあけっぴろげにすることもなく、おとなしく仕事をこなすことにしたのだ。
冒険者ギルドへの登録を済ませた後は、護衛任務や街の探索を中心にして、となり町を超えるような外出は避けた。遠くの場所へ行き来していたOTRドライバーの時と違い、まるで短距離輸送トラックのように狭い範囲を行ったりきたり。当然実入りも少ないが、転生時に渡された金貨は彼を貧困から遠ざけるのに十分な量だった。
たとえるなら、ひもでくくられた鉛筆を地図の上にピン留めし、それが届くかぎられた範囲の情報を書きこんでいくような生活。ある程度生活基盤がしっかりしても、それは変わらなかった。慎重だったのは新しい環境へゆっくりと適応したいからだけではなく、自分の『固有パーク』の内容を決めるのに時間が欲しかったのもあったからだ。
「さて、今日こそは決意を固めるとするか」、彼はベッドに寝ころんだまま、日に焼けた左腕を宙へかざす。そしてひとつの魔術を放つのだ。「――<成功へ続くハイウェイよあれ>」と。
宙にタコ・メーターのような丸いローディング・バーが浮かび、くるりとまわる。それが消えるのと入れかわりで、横長のメニュー画面があらわれた。ふちのけずられたアイコンがいくつもならぶそれは、使い慣れたカーナビと同じ見た目。スマートフォンにも似ているもの。
アイコンのひとつを指で押すと、頭の中に「ピッ」というこの世にふさわしくない電子音が響いた。瞬時に魔法がデジタルな窓を開くと、読みやすいフォントでもって彼の固有パークの解説文があらわれる。
――君の固有パーク『主人と従者(竜)』は、特定のドラゴンを召喚し、それとの主従関係をむすべる能力だ。君はその 生物を、手元にある『地球ドラゴン図鑑』から好きに選ぶことができる。君が選ぶのはファーヴニルやタラスクスといった荒ぶる竜かもしれないし、ヒュドラーやラードーンのような多頭竜、あるいはアンフィスバエナのような蛇かもしれない。注意すべきは、その数は1体だけということと、死んでも復活しないこと、そして変更することはできないということだ。また、たとえヨルムンガンドを選択したとしても、そのおおきさは全長30.48メートルを超えないし、重さが13,607.8キロを超えることもない。もっとも、君が体長25.4センチの黙示録のドラゴンと主従関係をむすびたいのであれば話は別だ。君はそうしてもいいし、しなくてもいい。なんにせよ、地球で創られた数多くのドラゴンから、君にぴったりな1体が見つかること望む。
(とにかくこの「1体」という制限のせいで、俺は悩むことになったんだ)
――従たる者は首輪をつけられて、あらゆる命令に服従することになる。それは友情というよりも、人間と機械の関係、つまり一方的な支配に近い。君はそれを残念に思うかもしれないが、都合のいい関係というのは常にそういうものだ。当然ながら、主人は従者の行動に責任を負うことも忘れるべきではないだろう。なにを成すも成さぬも、狩りをするのにも添い寝をするのにも、ご主人様の命令が必要なのだから。従者はロボットではない(ゆえに3原則を持つわけでもない)が、手間暇をかけてメンテナンスする必要はある。むろん面倒であれば、主人は「生命を維持しつつ、勝手に日常生活を送れ」と命ずることもできる。
(俺の乗っていたトラックと同じか。……あれにも愛着はあった。こういう主従ってのも、悪かない)
――このパークの肝は、主人と従者で力を共有できるという点だ。たとえば、各々100ポイントずつの生命力を持っていたとして、竜が傷つき失われる前に自身の生命力を分けあたえられる。もらうことも可能だ。対象となるのはステータスにある基本能力値のすべて、すなわち「体力」「筋力」「生命力」「敏捷力」「器用さ」「知力」「精神力」「魔力」となる。あくまで共有であるため、君が100、竜が100ポイントの力を持っていたのなら、各々に移動できる最大値は199ポイントだ。くれぐれも飼い犬のほうが知恵に勝る……などということになり、君の自尊心が傷つけられないようにしたほうがよい。君が組織に属していたのなら、そのような立場の上司がどういう風評を受けていたかを思い出せるだろう。前世の君が雇用関係でどのような立場になっていたかは知らないが、今回はよいものになることを望んでいる。(3)
(よけいなひとことを書きやがって)
苦笑しながら画面を閉じて、こんどは『地球ドラゴン図鑑』なるまぬけな名前のアプリケーションを起動する。相変わらず魔力がデジタルな音を奏でて起動したそれには、転生前に見聞きしたことのあるドラゴンが画像つきで頭をならべていた。
(さて、昨日見つけたやつは……)
ベーオウルフのドラゴンもレッドドラゴンも、聖ジョージのドラゴンも聞き覚えがある個体だ。誰が描いたのか美麗で写実的なイラストの下には「中世以前のウェールズで」とか「旧約聖書によれば」などと前にいた世界のことが書いてあり、少々興がさめる。ただ同時に、自分がいた地球と地続きの時間を持っていることは興味深かった。この世の歴史にキリストはいないのに、暦がなぜか西暦なのも。
だから、地球の竜をこの世界に持ちこんでも問題はないだろう。悩んでいるのは、ともにすごす従者をありがちな個体から選びたくないからだ。この世には地球生まれの勇者が多く存在するらしいから、そいつらにオリジナリティというものを見せてやりたいという思いがあったのだ。
そして昨日、なんども読み直した分厚いページの中から、まったく聞き覚えがなく、なおかつ自分にぴったりのドラゴンを見つけた。
「……『ギジエードラゴン』」
それは、自分の故郷であるアメリカ合衆国由来のドラゴン。ネイティブ・アメリカンの竜『ピアサ』の壁画が17世紀にヨーロッパへ伝えられた際、スペイン貴族の『ギジェルモ・デ・グスマン・イ・リベラ』が脚色して作り上げた、不気味な架空生物だ。ギジェルモによって創られた竜だから『ギジエードラゴン』。名前は安易だが、彼が書いた物語の中にその竜を指す固有名詞が登場しない以上、そう呼ばれるのはしかたのないことかもしれない。
それは元々、1匹の無邪気な妖精だったという。持ち主を失ったマリオネットと一緒に、森の中の廃墟を住処にし、近くの池で魚を釣って生活をしていた。森で綺麗な石やかわいい木の実を見つけては、持って帰り人形を飾る、子どものようなやつだ。
だが、ある日そいつは釣り竿を池に落としてしまった。しばらくは食べるのを我慢していたが、ついに空腹に耐えかねて、妖精は人間に助けを求めることに決める。そうして人里に出たそいつの目に飛びこんできたのは、しかし絶望的な状況だった。黒く変色して道に倒れているおびただしい数の人の死体、厩舎につながれたまま餓死している馬、略奪の形跡が残る焼けた民家と、街中から悪臭を集めて運んでいる風。
頼る者がいないことを知った妖精は、絶望の中でその死肉を食らい、化け物へと変異してしまう。
17世紀中盤のペスト流行をからめた、この時代によくあったであろう悲劇とホラーを相席させたこの物語は、なかなかよくできていると思った。そして化け物――ドラゴンになった妖精が人の世界を侵食し続け、自分だけの世界を創り上げていくさまは、なんとも言えない魅力がある。
なによりエリックが気に入ったのは、その竜の習性だ。
自分の世界を広げるべく他の街へ出たそいつは、狩りのしかたを覚えた。擬態して闇夜に溶けこむと、屋根の上から尾をたれて人を釣るのだ。尾の先には貴金属や、着飾った女の死体。目がくらんだ人間は釣り上げられて食われてしまう。そして竜は誰にも知られることなく、住処へ帰っていく。
気に入ったものは殺すだけにして、食べずにおくこともあった。街で手に入れた衣装を着せ、自分の住処に飾っておくのだ。ドラゴンならではの物をためこむという習慣と、シリアルキラーを連想させる狂った嗜好。彼の根城は昼の大通りのように人々にあふれ、夜の裏路地のように静かだったという。
学生の頃、エリックが趣味にしていた『釣り』。当然大物ならば釣果を写真に残していた。それがギジエードラゴンの習性と重なって、強い親近感をもたらしていた。
自分の姓が『フィッシャー』だったから、当時は友人にからかわれたものだ。でも同じ趣味を持つ竜であれば、きっと自分をご主人様と認めてくれるだろう。
(これ以上悩む必要もないな)
今日は異世界転生からちょうど2か月目。新たな一歩を踏み出すのに、これ以上にない日。
ページの下側にある「主従関係をむすぶ」と書かれたボタン。息をおおきく吸ってから、それに指をそっと重ねる。ピピッ! 警告音がして、「本当にこの竜と契約しますか?」の文面と「I agree」「Cancel」の2択が。
エリックは同意ボタンへ指をのばした。それを核の発射ボタンでも相手にしているかのように、決意をこめて力強く押す。ポーンと長い電子音が、後戻りができないと思わせるほど強く鳴り響く。同時にギジエードラゴンの絵へ重なるように、大文字のFに似たアルファベットがパシンと音を立てて描かれた。
押印されたかのようにあらわれたのが、ルーン文字の『ᚠ』であることをエリックは理解できていない。しかし、その文字が「財産」をあらわすことは、なんとなく理解していた。だから満足げにそのページを見つめ続けるのだ。トラックに代わって手に入れた新しい従者へ笑いかける、ご主人様の顔を覚えてもらうために。
しばらくの後、彼はページを閉じた。そして「さあ、出かけようか」とつぶやいた。それが誰に対して語りかけたのか彼自身もわからなかったのは、旅立ちの決意だったから。誰にむけた言葉でもなく、その場に残す言葉だったからだ。
腰を支点にぐるっと体をまわし、床に足をおろして膝に手をやる。立ち上がる時に、うめきのようなため息のような声が出たのは、中年を感じるのに十分な音量だった。
(新しい「乗りもの」に振り落とされなきゃいいが……)
彼は肩をすくめる。近くの森に行くまでに息切れでもしたら、冒険がはじまる前に引退時かもしれない、なんて考えながら。
しかしすぐに「ははっ」、笑い声を上げた。せっかくの旅立ちの瞬間、自分が「老い」なんてことを考えていたのが、どうにも笑えてしまった。だから考えをあらためる。
我ながらくだらないことを考えた、俺には竜の手綱を握る力があるのだ、と。
苦笑しながら頭をかく左腕。そこにある火傷あとは、大口を開ける竜の横顔のようだった。




