笑うご主人様 6
ベンチに横たわるイーダが我に返ると、自分の体から上る湯気が消えているのに気づいた。よだれも冷たくなっている。これは体も冷えはじめる頃だろう。
そこへ入口が開く音に続き、規則正しいコツコツという足音。イーダと魔王の間に入って動きを止めたその主から声がかかる。
「ご機嫌そうだな、お嬢様がた。さっそくだがよだれふけよ、イーダ」
(バルテリ⁉︎)
とっさに布の上から胸を覆い隠して「わぁあ!」と声を上げてしまった。
「なぁにバルテリ。お仕事は終わったの?」
シニッカは布を片手で押さえ、背もたれから体を起こす。濡れた髪をかくしぐさがやたらと色っぽい。
「まだ終わってねぇうちに、新しい仕事がきたんでな。急ぎと思ってまかり越したわけだ」
「召喚要請かしら?」
「お察しのとおり。ルーチェスターの貴族様から、悪魔召喚のご要請だ」
「先に戻っていて。すぐに行くわ」
「承知した」
じゃあ後でな、と手を上げるバルテリに、イーダは赤面をもって返答した。狼が去るとシニッカは体をふいて服を着こむ。
「見られたぁ……」、ふたたび体から湯気を出しイーダもならんで服を着る。
「あら? 日本も混浴じゃなかった?」
「いつの時代の話⁉︎ というかサウナって混浴なの⁉︎」
「ええ混浴よ。まあ、バルテリと一緒に入るかどうかは、イーダにまかせるけど」
「恥ずかしいよ!」
「ああ、そういう意味なの? 次はノックするように、あいつに言っておくわね」、ごめんなさい、という顔をされ、ようやく恥ずかしさがため息に変わった。
「シニッカは入るの?」
「1対1では入らないわ」
「なんで?」
「だってあいつ狼だもの。食べられちゃう」
(どっちの意味⁉︎)
着替え終わる頃、イーダの頭は「両方同時というのもありえる」という結論を出すにいたった。
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
召喚魔法陣は、消さなければ半年以上効果を発動し続けるらしい。魔王たるシニッカがすぐ召喚に応じるとはかぎらないし、彼女が仕事を終えた後に帰る手段にもなるからだ。前回の召喚時には、王都ル・シュールコーに立ちよるため、それを使わなかったけれど。
王城に戻りいくつか打ち合わせをした後、イーダたちは出発の時間を迎えていた。
「――<獣化せよ>」
サカリがそう唱えると、彼の体は黒い霧のように変化する。ふたつの渦を作ってゆらめくそれは、おおきな鳥の頭に見えた。そして黒霧が2か所で収束し、あらわれたのは2羽のワタリガラス。
(……結構おおきい)
80センチくらいあるだろうか。2羽のカラスは日本で見たカラスよりもふたまわりほどおおきい。のどのあたりの毛が上品なコートにしつけられたもののようにふわふわしていて、黒い鳥が持つ不気味さを高貴さに変えている。英語でもワタリガラスは『crow』ではなく『raven』と区別されているのだそう。自分の知っている黒い鳥とは、また別の鳥なのだ。
「じゃあ、片方はお留守番。片方は……そうね、イーダと一緒に」
「selvä」、そのサカリ(の半分)がバタバタと羽を鳴らして飛んできて、おおきな足でイーダの肩に止まる。ペストマスクをかぶった彼女と『ムニン』とで鳥顔がふたつ。イーダは鏡に映ったその姿が少し滑稽で、でもかなり不気味で、魔王の従者としてはさまになっていると感じ、えへらと笑った。
王城の地下室。暗い灰色の壁と天井を、突き出たバグモザイクがモノクロに装飾する、雰囲気のある広い場所。
魔力で稼働しているであろう青水晶のランプが部屋のあちこちにあって、空間の色を水中のそれにしている。本がならべられた木の棚や執筆机、作業テーブルがウォールナットの縞模様を浮かべて、灰色のサンゴのように床に群れていた。ゆれる赤いロウソクの灯りを、泳ぐクマノミと勘違いしそうだ。
その空間の一角に、対抗召喚機と悪魔召喚用魔法陣がならんでいる。
対抗召喚機は、高さも幅も3メートルくらいの門の形だ。自分もこの場所から出てきたのだと思うと感慨深いが、今日使うのはこちらではない。となりにある悪魔召喚用の魔法陣だ。
いかにもといった意匠、幾重かの円形に三角や四角が組み合わされて、円周の枠にルーン文字がならぶ青い紋様。先ほどシニッカに聞いた話では、スレイプニルやグラニなど、北欧神話の駿馬の名前がいくつもならんでいるのだという。中央には緑の円形章が描かれ、一角にはぼやっとした白い文字で召喚元の場所と召喚者の名前。直径は1.5メートルくらい。シニッカとバルテリ、自分が入ると少し手狭だ。
「俺は準備いいぜ?」、同じくペストマスクをかぶったバルテリが短く告げる。
「イーダはどう?」
「私も大丈夫だよ」、答えるとシニッカは目をつむり、呼吸を整えてから一節唱えた。
「――<ᚱ,ᚪᛣᛏᛁᚠᚩᛁ>」
騎乗のルーン『ᚱ』は、転じて旅の意味を持つ。それが足元の文字と図形を輝かせ、白樺の香りともに視界を青く覆っていく。刹那、水圧のような力が全身を押さえつけたかと思うと、すぐにそれは皮膚を引っ張る力に変わった。不思議と不快さはないが、水に落ちた一粒のラムネのように、肌が魔力へ溶けるのを感じる。なんだか、このまま消滅してしまうのではないかと予感して、イーダは両手をギュッと握りしめてしまった。
数秒ののち、開けた視界に入ってきたのは、苔むす石材で造られた部屋。壁かけ燭台の上、油に芯をとおしただけのランプが、ゆらゆらと自分たちの影を床で波打たせている。入口の扉は鉄格子になっていて、そのむこう側に水路が見えた。どうやらここは地下水路にある部屋のひとつのようだ。
足を動かすと粘性を感じさせる液体――おそらく生贄となった山羊の血液が、ぼんやり光る床を踏むイーダのブーツの底を汚す。乾いていないということは、まだ殺されてから時間がたっていないのだろう。
(嫌だなぁ)
心でぽつりとひとりごと。「でも、今は仕事中だ」と思い顔を上げたイーダは、自分たちを召喚した者の姿を見てギョッとした。
椅子から立ち自分たちへ歩みよったのは、それほど背の高くない半魚人の男性。彫りの深い顔に白いひげをたたえており、わずかにのぞく首元は鱗でびっしり覆われている。やや下ぶくれの胴体と長くない脚を人間種と同じように洋服で着飾っているが、むき出しの部分――腕も脚も鱗だらけ。後頭部から背中のほうまで背びれのようなものが生えており、とんがり帽子にはそれのための切れこみが入っていた。
はじめて見る魚人種の姿は、奇抜で奇妙で。しかし――
(いや、結構いいかも)
見慣れてくるとどこか芸術性を感じさせ、悪くないと思えた。
「も、求めに応じていただきまして、神と魔王様に感謝いたします。私はこの地、リーンベリーを治めるコナー・ローガン・ギタレスと申します。平和のため、どうかご助力願いたい次第でございます」
落ち着きなく動くおおきな目を、魔王に合わせてはそらし、合わせてはそらし。今回の依頼主であるコナーの声は、のどの奥に水をたたえたまましゃべっているよう。あるいは本当に、のどに水をためる生態なのかもしれないけれど。
「カールメヤルヴィの魔王だ、傾く城壁を治める者よ」
魔王の顔をしたシニッカの澄んだ声が、地下水路に冷たく響く。燭台が震えてしまって炎をゆらし、悪魔の影がコナーの太い脚をなんどもなでた。それは吹きこんだすきま風と一緒に、マーフォークをイワシのようにちいさくさせてしまう。
「ご、ご案内いたします」、過呼吸気味になった彼を、イーダは気の毒に思った。これから3人半の魔界の住人を、応接しなくてはならないのだから。




