笑うご主人様 3
「お待たせをしてすみません。イーダさんですね?」
「は、はい。イーダ・ハルコです」
「私はヴィルヘルミーナ・オジャと申します。ヘルミとお呼びください」
「う、うん。よろしく、ヘルミ」
男の夢があらわれた。
長い銀髪は透き通った雲のようで、つい触れてみたくなるほどつややかだ。碧い眼は夏風に木々をゆらす山のような生命力を感じさせる。小麦色の肌はとても健康的。脚は胴体に対してずっと長いし、細い首が端麗な頭を針葉樹のようにささえていた。身にまとうのは、寒空に無防備な体のラインが見える服。肌の色と相まってどこか中東を思わせる雰囲気の彼女は、シニッカやバルテリのように背すじをのばし立っている。
そして彼女が彫刻なら、彫刻家がよだれをたらしながら掘っただろう、メリハリの利いた肉体。女性である自分から見ても触ってみたい、うずもれてみたいと思う、もはや性欲を超えたなにか。
(すごい……なんかすごい)
脳の言語野が酔っ払ったような、知性のかけらも感じさせない感想に、これが本能というやつだと浅はかな確信をいだいた。
「王宮に戻ろう」と、ドクに一言鎮静剤を打たれ、昼食を済ませるためにきた道を戻ることに。ならんで歩きながら、イーダはさっそくヴィルヘルミーナへ質問をはじめた。「ヘルミはベヒーモスなんだよね?」
「ええ、そうです。緑の皮を持った巨大なカバの化け物です」
「バルテリもサカリもだけど、今の姿から想像もつかないよ」
「人型の時の種族は『戦乙女種』ですから。彼らも人型の時は悪魔種ですね」、ベヒーモスの口調はやわらかくも、礼儀正しい。そんな彼女に少しだけ距離を感じつつ、そして美しい顔が目の前で動く光景に緊張しながら質問を続けた。「ヘルミは蚕が好きなの?」
「大好きですね。無邪気で、わがままで、少しだけ不気味という人もいますが総じてかわいくて」
「うん。最初は苦手かもしれないって思ったけど、想像よりずっとかわいかった」
「よかったです、気に入っていただけて」
ニコリという顔が湖を背景に美しい。つられてニコリと笑い返す。と、同じ行動をしたからなのか、緊張が陽下の氷のようにさらりと溶けた。
(魔獣って、みんなやさしいのかな?)
いつもクールなサカリにも、時々残酷なバルテリにもそう感じている。普段の言動がどうであれ、彼らの性根の部分は温かい。だいぶ寒くなった魔界が、自然の厳しさを見せつけてくるよりは、むしろ生命の営みを見せてくれるのと同じ。魔界にあるあれやこれやはその名前と反し、たき火のような心地よさを提供してくれる。
(カールメヤルヴィって、楽しいところだな。ここに転生できてよかった)
もしかしたら、命を奪うような猛吹雪の日もあるのかも。けれど今日はその日じゃなくて、とある冬の日だ。新しい人との出会いがあった、とても穏やかな日だ。
3人で土の道をじゃりじゃり歩きながら、イーダはおしゃべりに熱中していった。ゆえにいろいろなことを質問して、いろいろと答えてもらった。ヘルミが辺境伯という地位を持っていること、養蚕は生計を立てるためではなく趣味でやっていること、たくさんの動物と一緒に住んでいること、冬場にあってもサウナより沐浴のほうが好きなこと。
もちろん、彼女によってもたらされた魔界最強の防御魔術のことも。
「巻物用の皮、背中から取るんだ……。今はまだ痛い?」、ヘルミの歩きかたからは痛みが伝わってこない。けれど、おそらく背中におおきな傷があることだろう。そんな彼女が、どんな感情で自分の体の一部を提供してくれているのか興味があったから、遠回しに質問をしてみた。
「少しヒリヒリする程度ですよ。この程度でみなさんを守る盾になれるのなら、喜んで。私は傷の治りが早いですし、体力にも自信がありますから」
「そうだとしても、すごいなあ。尊敬する。実は私も、ベオークのスクロールに助けられたんだ」
「ありがとうございます。今日の出会いのために投資できたのなら、私の体もなかなかのものですね。嬉しいですよ」
わかったのは、この人は間違いなくいい人なのだということ。穏やかな口調に微笑みを絶やさないで、柔らかく温かく言葉を選んでくれる。ドクの話だと、彼女は動物たちに慕われているらしい。どこからか自然と集まってきて、なにをするでもなく一緒にいたがるのだ。
実際、彼女の養蚕場からここにくるまで、数羽の鳥が彼女の腕に止まるのを見た。動物を見かける回数だって、往路よりもヘルミと一緒にいる復路のほうがあきらかに多い。今も湖のほとりにあるサウナ小屋の屋根から、おおきなミミズクがこちらを興味深げに見ている。モクモクと煙突から煙が出ているから、とりあえずは熱を感じられるあそこから動かないだけなのだろう。そうでなかったら、今頃ヘルミの肩に居場所を求めているに違いない。
(逆にいえば、ヘルミの横ってサウナと同じくらい心地いい場所なんだな)
転生してからというものサウナがいたくお気に入りになった黒髪の少女は、若干失礼な考えをうかべ、ニヤニヤしていた。そしてふと、サウナで語られたシニッカの言葉を思い出す。「魔族は悲劇や絶望を愛し、他人の涙で食事する人々」だと彼女は言っていた。
イーダが最近感じていることは、死ぬ前よりも質問に積極的になったこと。人の機嫌を損ねるのではないかと思うよりも、人のことを知りたいと思えるようになったこと。生前課題としていたコミュニケーションの1歩目を克服したことで、質問の反応を怖がるよりも返答によってもたらされる知識へ欲求が優先されるようになってきた。初対面の相手に勇気を消費し、仲良くなるための努力を行使する。「ヘルミも魔族なの?」
「はい、私は魔族です。度し難いことに、ヴァルキュラという種族にありながら、人の不幸が好きなのです」
「シニッカもそうだけど、外見からはそう思えないよ。ちょっと話をしただけなのに、動物たちがヘルミを慕う理由がわかったような気もするもん。魔族は『悲劇を愛する』って聞いたけど、そういう物語を本で読むのが好きってことなの?」
もう少し勇気を注ぎたしてみよう、そう思って質問を続けた。デリケートな内容だとは承知しているけど、イーダはまさに「自分も動物たちみたいにヘルミと仲良くなりたい」という思いでそうしたのだ。
けれどそれは、予想外の返事によって雲行きがあやしくなった。
「いいえ、少し違います」、きっぱりとした否定は、やわらかい口調ながらも、誤解されたくないという響きでもってイーダの耳を刺激した。そして困惑するような事実がそこに続く。「魔族に共通する特徴は、他人の悲劇を見た時に『口の中に蜜の味がする』こと。比喩ではなく、本当にはちみつを口に入れたように感じるんです」
――初耳だ。いや、以前シニッカにサウナの中で聞いた話は、これのことだったのかもしれない。でも、そんな明確な理由があったら、魔族というのは悪意を望む生態を持つことになってしまうじゃないか。
勇気を注ぎたした会話の池が思ったよりも深くて、イーダは動揺に目を泳がせる。それを見て、ドクが長いくちばしを上げながら事実を補足した。
「おそらくそれは味覚ではなく、魔覚によるものだと思う。魔族はみんな魔術を使えるから」
「……それって起こりえるの?」
「うん、起こりうる。魔力を体感する時、それを匂いだと感じる人が多いように『味だ』と感じる人も多い。なめらかで軟らかい水の味、硬くて苦い木の皮のような味、そして分厚く甘いリンゴのような味。嗅覚と味覚が深く影響し合うように、魔覚は他の感覚に強い影響を及ぼす」
彼のマスクのガラスが、瞳を隠すように光を反射させた。表情が今まで以上に見えづらくなって、少女は不安な気持ちになった。
「おもしろいことに、行使する魔法によって味が違うって人もいる。僕が忘れられない患者のひとりが、相手を傷つける魔術の行使にかぎって『リンゴの味がします』って言った女性だ。その人に対して僕ができたのは治療ではなかったから、よく覚えている」
「なにをしたの?」
「『君は魔族だ』と伝えたのさ」
心がキュッと音を立てた。でも、話し出したドクは停止ボタンを押されるまで作動し続ける。「だから僕はその女性に、我慢するのはやめようって言った。ここは魔界なんだから、そんなことで社会的に忌避されない。むしろ話を聞きたがって、同じ蜜をすすろうとする」
「そうですね」、意外にもドクを止めたのはヘルミだった。「その女性は、ドクターに養蚕を進められました。かわいらしくてのんきな生物のお世話を」
(……「忘れられない患者」ってヘルミのことだったんだ)
「元気に我がままに育った蚕は、人の力なしに生きていけない家畜です。だから自然の中に戻ることはできない。おおきくなってさなぎになるため蔟に入り、マユを吐いて包まる。そして最後は、絹糸だけを取り出すために処理される」
つぶやくように話す彼女の碧い眼が、夏の山から冬の針葉樹の色に変わる。
「マユごと熱湯へと入れられた蚕たちを見ていると、その生涯に甘い蜜を感じずにはいられないのです。そんな最期をとげるとは予想していなかった、その子たちを見ると。かわいそうでかわいい断末魔を聞くと……。だから私は自分のことを『度し難い』と思います」
「っ……」、返す言葉が見つからなかった。とても、とても情けないことに。
イーダは自分の勇気が、災害を起こす転生勇者のそれと同じだったのではと思う。うかつにも人の心へ土足で入ってしまったのではないかと。いつもどおり、遠まわりな質問をすればよかったのかもしれない。踏み出した足が、底なしの泥炭に沈みこんでいく。
「『Jonka mesi kielessä, sen on myrkky mielessä』の言葉どおり。でも、ドクさんは違うかもしれません。魔族には見えませんから」
申し訳なさそうな顔のヘルミがそっと腕を上げる。パタパタと羽を鳴らして弾琴鳥が止まった。
「僕も好きだよ。悲劇の本を買いすぎて、部屋の床が抜けるくらい」
弾琴鳥がフィーと悲し気な声で鳴く。おおきな音に、イーダは背を雪でなでられた気がした。しかし――
(いや、だめだ! 自分で聞いておいて、勝手に暗くなっちゃ!)
魔族じゃない自分に対し、話しにくいだろうことをヘルミは話してくれたのだ。それは自分が質問した時よりも、ずっとおおきな勇気が必要だったはず。気まずい空気を出すなんて無責任だ。相手を傷つけた上、自分が落ちこむなんて、そんなこと許されない。
イーダはもういちど、勇気を振り絞った。それは「伝えたい言葉を、しっかり伝えよう」という決意だった。
「そうだったんだ。ありがとうヘルミ、話してくれて」、凍えかかった体を温めるのなら、自らの手で肌をさすらなければ。
「こちらこそありがとう、イーダさん。こんな話を聞いてくださって」、夏の山に戻った碧い眼が、冬の心に毛布をかける。そのやわらかさと温かさは、勇気に対する報酬として十分なもの。
(聞けてよかった)
自分のいるのが魔界だという自覚と、自分はそこで生きていくのだという心構え。今日はそれが収穫だ。
(今日のことは忘れないようにしよう。それから、人のことを聞く時にはもっと慎重になろう)
弾琴鳥が飛び去って、空は少しだけ雲が薄くなった。




