笑うご主人様 1
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
まだ10月だというのに、厚着を強いるほどの寒さがあたりを包む。フォーサスのどの国よりも早く、冬が魔界に歩を進めているからだ。
恋煩いでもしたかのようなはっきりしない空模様が、遠くの山並みを霞ませながら、青い屋根の街並みを見おろしている。蛇の湖は曇天にわずかばかりの日差しをたぐりよせ、まばらな水光をその身に着飾っていた。
湖のほとり、雪もないのに冬を感じさせる道の端に立つ、白と黒のまだら羽を持つひとりの天使。灰色のコートに身を包んだ彼の表情は、ペストマスクによってうかがい知れない。頭の上にある天使の輪をどこか無機質に輝かせ、じっと立っていたから、銅像かなにかと勘違いした弾琴鳥が彼目がけて飛んできた。人間どもの作った像のてっぺんへ、一休みをきめるため。
鳥は魔法の輪に止まろうとして、肩透かしをくらった。あわててバタバタ羽をはばたかせ、頭にちょこりと着地する。つんのめった拍子にくちばしがフードに刺さり、どうしたものかとしばらく硬直。「誰にも見られていないよな?」、逡巡するも、意を決してくちばしを抜き、恥ずかし気にキョロキョロとした。で、視界の隅に動くマスクのおおきなくちばしを見つけ、「まずい! こいつは捕食者だ!」なんてあわてて飛び去って行ったのだ。
しかし天使はそれに反応することもない。
そんな彼がどこか興味深げに見ているのは、おおげさな毛糸のマフラーを巻いた黒髪の少女だ。座って「おぉ」となにやら感嘆している。茂みにのばした手の先には、丸々太って毛の生えた蛇。
「ねえドク。この蛇ってなんて名前なの?」
蛇をあやすイーダは、おおきなマフラーのせいで回らなくなった首を無理やりむけて天使を見た。それに捕食者と評されたくちばしが、少女のほうをむいたまま、開くこともなく声を発する。
「ネコヘビだよ。名前どおり、猫っぽい蛇なんだ」、天使は端的に魔界の不思議生物の解説をした後、2秒だけ考えてから補足を入れる。「冬眠前には超高速で空を飛び、ヨウルプッキを捕食する」
そばの木の枝に移動した弾琴鳥が、別名であるところのウソを鳴き告げなくても、イーダには真偽がわかっていた。
「それも嘘だよね?」
視線の先で首を傾け「やっぱりバレちゃったね」とひとりごとのようにつぶやく彼に、「脈絡なさすぎるもん」とあきれてしまう。先日彼と会ってから、この手の誰だって嘘とわかる嘘をなんども聞いてきた。そのたびにシニッカやバルテリに嘘を指摘され、彼は不思議そうに小首をかしげるのだ。むしろその言動へ、こちらが首をかしげたくなるというのに。
「なんで嘘つくの」、みんなは知っているだろうけど、自分はまだその理由を聞いていない。
「僕は堕天使だから」、理由になっているのかいないのか、イーダは判断に迷った。
「……その翼の黒い部分もインクで塗ったやつだよね? いつもそうしているの?」
「そんなことまでお見とおしだったのかい? まいったね。次はもっとうまくやるよ」
(本当にそう思ってるのかな……)
身にまとう独特な空気感と、悪意を感じさせない嘘。この魔界の天使は『ビオン・ステファノプロス』という、生物の学名のような名前を持っている。いつも灰色のコートを身にまとい、ペストマスクを顔から外すことはない。達観したような物言いをするけれど、どこかいたずらっぽい面がある不思議な男性だった。
魔界での彼の仕事は『錬金術師』だ。それが意味するのは医者のような博士のような、あいまいな概念とのこと。大けがや重病の治療にあたることもあれば、壊れた魔法物品の修理をすることもある。対抗召喚機の管理や『ポーション』と呼ばれる万能飲み薬の作成をまかされているから、イーダにとってはすでにお世話になっている人でもあった。
そんな人だから『王立錬金術会』の会長も務めている。数十人が働いている組織の長なのだ。結構忙しそうな仕事をしているなぁと思うが、本人曰く「暇だよ」と。それも嘘か本当かわからないけれど。
(この人は4大魔獣じゃないんだよね? でも魔界にとって重要そうだな)
今日は4大魔獣の最後のひとり、『緑の皮のベヒーモス』ことヴィルヘルミーナに会いに行くところだ。なんでも、以前自分たちを守ってくれたᛒの巻物は、彼女の皮膚からできているのだという。医者であるビオンがその作成の役割を担っているのだそうだ。
(痛そうだなぁ)
皮膚を切るところは見ていられないかもしれないなぁと思う反面、ヴィルヘルミーナがどんな人なのか楽しみでもある。
と、指に強めの力がかかるのを感じた。差し出した手へ目をうつすと、ネコヘビがもぞもぞ動いていた。
自分の手にじゃれつくそれは、猫耳と毛の生えたツチノコというのが一番適切な外見だとイーダは思っている。もこもこコロコロとした愛くるしい生物。頭を手にしつこくこすりつけることにご執心な、無邪気なやつなのだ。
(……猫っぽい)
ゴロゴロとどこから鳴っているのかわからない音は、完全に猫のそれ。額で、頬で、のどで、執拗に手へじゃれついているのも同じ。イーダは通学時の唯一の楽しみであった、ご近所さんの猫とのふれ合いを思い出して頬がゆるんでしまう。
(……猫だこれ)
ネコヘビの動きはご近所猫の時と同じく、少しずつエスカレートしていく。彼ら猫は警戒心が強いものの、いちど安全とわかれば「なでろ!」と欲望をあらわにする。人の手を孫の手のように活用し、触られたいところをすりつけてくるのだ。今日のこの個体と同じように。
頭の動きは激しくなり、あごから首のあたりまでをぐりんぐりんと押しつけてくる。もはやトランス状態といっていい。しまいにはゴロンと腹を見せ、態度でイーダに「許す」と告げた。
なでてやろうと腹に手を触れると、ビクンとはねてうつ伏せに戻り、ネコヘビはあわてて逃げる。振り返ってこちらを一瞥した顔は、ひどく迷惑そう。それは猫によく見られる行動で、つまり「腹をなでろ!」と言わんばかりだったにもかかわらず、いざなでられてみたら想像と違い不快だったたので「やめろ!」と拒絶してみせるのだ。
(この気まぐれは猫だ!)
彼ら特有のうつり気を済ませた猫が茂みへ消えたので、イーダは立ち上がってヴィルヘルミーナのところにむかうことにした。ついでにぽつりとひとこと。
「あれヘビネコじゃない?」
前世の知見を元にして、新たな名前を提案する。
「それは興味深いね。たしかに形状は爬虫綱有鱗目ヘビ亜目に共通する特徴だけど、毛があるというのは恒温動物に多く見られる。もっとも、毛の生えた爬虫類がいないわけでもない。たとえば恐竜やドラゴンなんかは体毛を持つ個体も確認されていて――」
(えぇ⁈)
前置きなしで再生されたリスニングテストのような早口のドクに、イーダは少し驚いた。学者というのはそういうものなのだろうか。
(ん? 聞き捨てならないぞ?)
「――だからイーダの言っていることも間違いではないかもしれない」
「ねえドク。恐竜って知ってるの? ドラゴンって爬虫類なの?」
「む」、停止ボタンを押され、天使は口と動きを止める。「…………」
「ドク、なんで知ってるの?」
「……魔王様から聞いたり、とかいろいろ」
どうやら魔界にはまだまだ秘密がありそうだ。
「シニッカもみんなも、私に黙っていること多いよね? スヴァーヴニルとか、世界樹とか、なんで地球の知識を持っているの、とか」
「そりゃあ国家機密もあるからね」
「こんど、教えて欲しいよ?」
「許可が出たら」
「……期待しちゃうからね。じゃ、行こうか」
恐竜ステファノプロスは歯切れの悪い口と鳥のような形の頭を持つ。それを横目に見ながら、イーダは新しい仲間との出会いを優先することにした。シニッカはヴィルヘルミーナのことを「男の夢のような体」と言っていたが、それよりもベヒーモスの姿を見てみたいと思っていた。
(ベヒーモスってどんな外見だっけ? 魚? カバ? 竜? 象?)
考えているとドクから質問が。「ところでイーダ。虫は平気かい?」
「え? あまり得意じゃないけど……」
「ヘルミ……ヴィルヘルミーナは養蚕をしているんだ。蚕がたくさんいるけど、大丈夫?」
「う……」、ヴゥーンと頭の中で鳴ったのは、会いたい度合いが急激に下がる音。
「……我慢する」、これだけ寒ければ蚕たちの動きも鈍いだろうと勝手に予想して、「楽しみ」から「ちょっとした試練」に変わった訪問へ挑むことにした。




