笑う受付嬢 5
机の下でこっそり小石を手にした魔女の対面、一方の勇者は、相手の表情へ敵意を見出していた。
自身の行い――おそらく失敗を大衆の前でさらされ、傷つけられた自尊心をおぎなうように、彼は敵を探してしまっていたのだ。
ゆえに交渉へのぞもうとする魔女を、彼は冷たくあしらった。「どうやら交渉は決裂だな。お前と話すことなんてない」
「待って、不知火さん。場所を移動して、ちゃんとした話しあいをしたい。ここじゃ冷静におたがいの主張を聞くことも、妥協点を見つけることもできやしない」
早く話を終わらせたい勇者と、あくまで食い下がる魔女。魔女の態度は勇者にとって、いらだたしいものであった。相手が冷静な台詞を口にするたびに、彼自身の正しさをけずり取られているような気がした。
今や酒場の中は、敵同士がむかいあっているという、火薬庫のような空間といえる。戦いの予感を告げる火種の熱が、ばらまかれた火薬の上、落ちるのを今か今かと待ち望んでいるような。
「ふざけるなよ、魔女。そうやって話を引きのばし、俺を悪人にしたいんだろう?」
とくにソーマはそうだ。彼には自信を侮辱された以外にも、戦いを選ぶ理由があった。
どうひいき目に見ても、目の前の少女が彼の戦闘力を上まわっていると思えなかったことだ。
魔女からただよう魔力の感覚、腰かける姿、武装や口調、表情まで。どこを見ても脅威に感じることなどない。火ぶたを切ったのなら、一瞬で決着がつく予感すらある。
俺のほうが強い。――なのに敵は卑怯な言動を繰り返し、俺は悪者にされようとしている。
(もうたくさんだ)
勇者は戦いを決意した。そして、彼がそう思ってしまった時点で、魔女の交渉は失敗していたのかもしれなかった。
あるいは――
「悪いが話はここで終わりだ。<エンチャントマジック・鋭刃化>――」
勇者に先制攻撃させる方便だったかもしれないが。
「やめるべきだよ」
「問答無用!」
勇者は椅子をバシッと蹴飛ばして、全身へ力をこめた。飛びかかる獣が、その刹那に一瞬だけ体を硬直させるのと同じように。そのまばたきほどの時間の中、彼の体は淡く光った。
周囲の魔力が「ズッ!」と音を立てる。強い磁石が砂鉄を吸い集めるように。
剣の柄が「ジュゥッ!」と加熱する。火の上の鉄板が厚い肉を焼くように。
刃が「シャッ!」と抜き放たれる。かまいたちが獲物を見つけたように。
それにまじって「コロリ」と鳴るのは、魔女が小石を投げた音。
「――<零光閃>!」
「――<ᚱ>」
横なぎ一閃、刃が走る。周囲で見ていた冒険者たちが、その軌跡を残像でしかとらえられないほど、速い一撃が。
どんな俊足の獣――北欧神話でいうならスレイプニル――であっても、その切っ先から逃れることなどかなわないような攻撃。
その三日月を描く鋭利な残像が虚空へと消えた時、上下に真っ二つにされた魔女を誰しもが思い描いていた。
……にもかかわらず。
「な、なに⁉︎」
勇者の目に映ったのは、椅子のむこう側に立つ魔女の姿。剣先が届く範囲のぎりぎり外、片手を椅子の背もたれにかけ、息を切らすそぶりすら見せずに。
どうやってかわされたのか、見当もつかない。
「このぉ!」、彼は刃を返し、再度彼女の首をはね飛ばそうとした。机を押しのけ力まかせに、斬首された魔女をイメージしながら。
(――っ⁉︎)
が、すさまじい違和感に、その動きはぴたりと止まる。
(な、なんだ?)
それは胸のあたりに生じた感覚だった。ひどく不気味でおぞましい、たとえるなら赤い舌が肋骨の間から心臓をベロリとなめたような不快感だ。
もっというなら、それは肋骨にとぐろを巻く蛇だった。大口を開け、その中に心臓をくわえ、舌でもてあそんでいるような。
――いつでも毒牙を突き立てられる状態で。
「な、なにをした⁉︎ これはなんだよ!」思わず口にした勇者の問いに、しかし魔女は答えない。かわりに眉間にしわをよせて、ひとりごとのようにつぶやくのだ。
「実際のところ、この方法は悪辣にすぎたかもしれない。本気で説得するのを選ぶんじゃなくて、確実に命を奪える言葉を選んでいたんだから」
「や、やはりそうだったんだな! お前、最初から俺を殺す気満々だったんだな!」
「ううん、最初から殺すつもりだったんじゃない。可能性はさぐったつもりだし、あなたへ選択肢もあたえた。じゃなきゃ、わざわざお話をしたりなんてしない。でも一方で、あなたを殺さなかった場合、どう代償を支払わせたらいいかって思い悩んでいたのも事実だ。だってさ……」
彼女は少しうつむいて、言葉を続けるかどうかを迷っているようだった。しかし数秒の後、ふと顔を上げ、周囲を見まわした。
自身が周囲の多くの冒険者たちから視線をむけられていることに気づいた、という所作だ。事実、周囲の人間たちは彼女の言葉を待っていた。
だからか、魔女は暗殺の理由を冒険者たちへ言って聞かせるかのごとく、ふたたび勇者をその双眸にとらえ、むすんだ口を開く。
「――だってさ、もしあなたを殺さなかった場合、どうおさめたらいいかわからないから。すべてを失ったドヴェルグルの少年ひとりと、悲しみに暮れている、亡くなった傭兵の家族32人の怒りを」
表情が毅然としたものに戻る。彼女に注目しているすべての人間へ「ソーマ・シラヌイ」なる人物の死を宣言するように。
それは暗殺者である彼女の、義務であり、矜持でもあった。
「嘘だ! もっともらしく言ったって無駄だ!」
「嘘じゃない!」、低く強い口調で、魔女は否定した。目線をするどいものに変え、相手をキッとにらみつける。声色も腹の底で震えるような、怒りをこらえたものに変化していた。
「あの少年の絶望的な表情を私は忘れない。彼の手首には、いくつもの切り傷があった。たったひとりになった事実に耐えかね、自傷してできたものだ。傷は指にもひとつある。自死をやめ、復讐のための契約書に血判を推すためにできたものだ」
「そ、それだって嘘に決まって――」
「兵士の家族が涙をこらえる姿も、それをなんとか癒そうとする傭兵隊長の姿も私は忘れない。『俺が一緒にいれば』と悔いる彼が、せめて一緒に血を流そうと押した血判も」
「うっ……」
「それらは全部、あなたの目の前にある紙が証明している。魔界に出した暗殺依頼――あなたの人生を終わらせるための契約書が。だから私はあなたを死へと導く」
「勘違いするなよ、魔女! 勝負はまだ終わっちゃいない! まだ終わったわけじゃない!」
「いいや、実際もう終わりつつあるんだ、不知火さん。そろそろあなたの質問に答えるよ」
魔女はゆっくりと腰をかがめ、足元に転がる小石をひろって、見せた。そこに描かれた赤い文字を、勇者の顔のほうにむけて。
「私が使ったのはルーン魔術だ。あなたの攻撃を緊急回避魔術で避けたのもこれ。そして、たぶんあなたが胸のあたりに覚えている違和感も同じ」
「要領を得ないぜ、魔女。はったりか? なにを言っている?」
「ギルド登録の時にあなたがサインした契約書。そこにルーン文字の飾り帯があったと思う。あなたはその文章の説明を聞いた?」
つまり、「契約書をすみずみまで確認したのか」?
逡巡の後、さぁっとソーマの顔が青ざめる。
「ま、まさかお前……あのルーン語ってやつに、罠をしこんでいたのか?」
「ルーン語はない。ルーン文字はただのアルファベットだ。あそこに書かれていたのはね、日本語だったんだよ」
「な、なにを書いた! 俺になにを契約させた!」
「ᛣᛖᛁᚣᚪᛣᚢᛋᚻᚪᚻᚪ:ᛋᚩᚾᚩᛏᚪᛖᚪᛋᚻᛁᛁᚹᚩ:ᛞᚪᛁᛋᚻᚩᚢᚾᛁ:ᛋᚻᛁᚻᚪᚱᚪᚢᛣᚩᛏᚩ」
「そ、そんな内容、許されるわけが……」
「ᛏᚩᚱᛁᛏᚪᛏᛖᚻᚪ:ᛗᚪᛣᚪᛁᚾᚩ:ᛄᚢᚢᚾᛁᚾᚾᛁᚣᚩᛏᛏᛖ:ᛋᛖᚾᚷᛖᚾᛋᚪᚱᛖᛏᚪᛏᚩᛣᛁ:ᛄᛁᛣᛣᚩᚢᛋᚪᚱᛖᚱᚢ」
「なあ! ううっ」
「もうひとつある。これはあなたも読めたはずだ。『許可なく同じギルドの人間を攻撃してはならない』ってあったでしょ?」
「ま、まさかお前!」
「私も冒険者ギルド員なんだよ。だからあなたに『攻撃するな』って言った」
契約書は1枚。けれどソーマはあやまちをふたつ。ひとつの罠にはまり、ひとつの違反を犯した。
万事休す。もう逃れることはできない。
「ま、待てよ!」、それでも彼はプライドを捨て、最後の希望へすがりつく。「あの受付嬢の落ち度はどうなんだ! ルーン文字で書かれていた重要な文章を、俺が読めないことを知っていて、わざと読まなかったんだろ! そんなの許されるわけないじゃないか!」
「だから彼女は繰り返し、あなたに『よく読むこと』とか『他に質問はないか』とか聞いていたんだよ」
「そ、それって……」
魔女の言いぐさは、その裏にひとつの事実をにおわせていた。
「そうだよ不知火さん。つまりね、彼女は私の仲間なんだ」
目線を受付カウンターへ送る。モーセが海を割った時のように、その視線は振り返った冒険者たちの間へ空間を作っていった。
だからソーマにもよく見えたのだ。
亜麻色の髪をたわませ、ぱちりと開いた目を輝かせ、カウンターに座ったまま頬杖をつき、少女のようにニコリと笑う受付嬢の姿が。
その唇の間へ、長い舌をチロチロと出し入れしている、無邪気な毒蛇の姿が。
「ねえ、勇者ソーマ」、彼女は子犬でも見るかのようにほがらかな笑顔で、しっとりと濡れた唇を開いた。「死にゆくあなたへ、いくつかのアドバイスを贈るわ。もしふたたび来世があったなら、いつでも手に取れる位置へ置いておきなさい」
指をひとつ立てる。騒然とする冒険者たちに気をつかうこともしないで。
「『Minkä taakseen jättää, sen edestään löytää.』の。日本語で言うと『因果応報』ね」
ふたつめの指を立てる。「やめろ!」と必死で訴える勇者の声へ耳を貸すそぶりもみせず。
「『トーストはバターが塗られた面を下にして落ちる』。あなたが『やらかしたかも』って思ったのなら、それは確実にやらかしているのよ」
すらりと立つ、3本目の指。三つ又の槍が刃を誇るかのごとく。
「『死体は腐るが、死人は影になる』わ。いつまでもあなたにつきまとうの。あなたが死体になるまでね」
次はゆっくりとした不気味な所作で、彼女は指の本数を4にした。
「私、悪魔種なの。そして『悪魔と契約してはならない』というのは常識だと思わない? きっとこの世界を歩くガイドラインの、上から4つ目くらいに書いてあるわ。日本語で言うと『死』と同じ数字。不吉よね」
そして彼女は最後に5つの指を立て、手のひらを勇者へむける。
左右に振って、お別れを告げるために。
「取り立てを履行するわ。バイバイ、ソーマ」
「ま、待ってくれ! 俺の話を――」
言葉が最後まで続くことはなかった。
ビチャビチャと床に落ちる赤い液体が、勇者ソーマの口から湧き水のようにあふれ出したから。
そうやって彼は、復讐の贄になったのだから。
◆ ① ⚓ ⑪ ◆
――この世界には魔女と魔王がいる。
片方はイーダと呼ばれ、もう片方はシニッカと呼ばれた。
彼女らは暗殺者で、この世界へ転生してきた『勇者』を目標に行動していた。
とくに、世界を踏みにじるようなたぐいの勇者の胸へ、蛇の牙でできた短剣を突き刺すために。
「きっと魔王シニッカなる人物は、悪辣と悪口を親に持って生まれてきたんだね」、時に魔女のイーダは皮肉を言う。本心ではないけれど、魔王の口が悪いのは周知の事実。皮肉を言いたくなる場面は松の木の葉ほどに多いのだから。
でもそこは口の達者な魔王様。「なら魔女のイーダなる人物は、魔王の悪意を遠くまで運ぶため、魔王と悪事をするために死んできたのでしょうね」なんて、転生者であるイーダのことを軽妙にからかってみせるのだ。
「もう、シニッカ。私がくる前からあなたは十分悪かったでしょ?」
「そうだったかしら?」
「私、聞いたよ。私が転生してくる前から、天界で騒動を起こしていたって」
彼女らは、なかよく言い争いを続けていた。いつもそうだったし、いつまでもそうなのだ。
世界が終わるまで、それは終わらないだろう。
これは魔女のイーダが魔王シニッカとともに、とある世界で笑う物語。
「でさ、シニッカ。実際なにをしたの? というか、いつの話なの?」
「そんなに気になるなら教えてあげる。あれは2021年の5月だった。私は――」
話はふたりが出会う以前にさかのぼる。