笑うゲシュタルトのオバケ 14
もうすぐ顔を見せるであろう朝日が、山の輪郭を濃紺の空から分離させようとしているころ。その商人はまだ暗い裏通りを急いでいた。手には貴重品の入ったバッグを持ち、両脇には自身の護衛を従えて。
「どうやら学長のマルセル・ルロワが殺されたようだ」との情報を耳にしてから1時間。すでに出立の準備を部下へ命じてあるから、厩舎に着きさえすればすみやかに街を出られる。
(まさかあの女が魔王へ戦いを挑むとは! なぜ『勇者』のまねごとなどをした!)
彼はマルセルが転生者であることを知らない。それどころか転生者という概念を――この世界のおおよそすべての人々と同じように――認識すらしていない。けれど彼が逃げ出そうとしているのは、魔術学園の学長マルセル・ルロワとのつながりによるもの。彼女とは魔王をめぐって協力する仲であり、情報を提供した関係であり、ゆえに彼女の死が今の彼にとって非常に都合の悪いものだったのだ。
(よけいなことへ首を突っこまなければよかったのだ! ヨーエンセンめ! これで私が死んだのならば、お前の失点になるのだぞ!)
話は10日ほど前までさかのぼる。商人はモンタナス・リカスにてイズキなる冒険者を支援していた。それは自分たちのまとめ役であるヨーエンセンから、「辺境伯であるヴァランタンの失点を拡大するべきですね」と言われていたからだ。イズキが魔王に殺されたから、結果はかんばしくなかったものの、「試みは失敗したが、ヴァランタンも無傷ではすまなかった」と一定の成果を喜ぶことにするはずだった。しかし――
「せっかく魔王が魔界から出てきているんですから、つけてまわって情報を集めてはどうですか、と言っているんです」、ヨーエンセンは満足しない。即座に新たな任務があたえられた。もちろん商人は従わざるを得ない。なぜなら彼の所属するコミュニティは、強力な力を持つ反面非合法であり、いわゆる裏の組織やら秘密結社やらに相当するものだったのだから。
(貧乏くじた。商人である私が、もっとも嫌うものだ!)
その時は彼ふくめ3名の商人がいた。本来なら3名それぞれが部下を使って魔王を追い、情報を集める手はずだった。しかし魔王はフェンリル狼に乗って、すさまじい速さで王都を目指す。それに対応できるほどの乗り物は多くない。そして商人は、その多くない動物のひとつであるヒッポグリフを所有していた。ヒッポグリフは馬とグリフォンの合の子であり、空を飛べるがゆえフェンリル狼に追いすがることだって可能だった。ただし、馬車を引くことなどできないが。
結局、追跡できたのは自分ひとりだけ。野宿の時にもひとりきり。それが貧乏くじといわずしてなんという、と内心でいらだちをつのらせるも、彼はなんとか王都ル・シュールコーまでの追跡をやりとげた。その努力が報われたか、魔王が宿泊先に選んだのは彼の息がかった場所。おおいなるチャンスの到来に、意気揚々と監視をはじめる。詳細まで観察した魔王の情報へ、どれくらいの値札がつくのかと舌なめずりしながら。
事態が急展開を見せたのは、今から3日前のことだ。その日、彼の元へ魔術学園の学長マルセルがあらわれた。高名な魔術師であり、王国最強との声すらある相手。彼女はいたく上機嫌な顔をしていたし、大口の商談の予感がしたから、商人も笑顔で応接した。もちろん魔王のこととは別件の商談と考えて。しかし――
「魔王の情報をもらえるかな? あなたのとこの宿に泊まっているでしょ?」
まず言葉に驚かされ、笑顔が消えた。そして理由を聞いてさらに驚いた。「あいつの悪事を暴くため、ちょっと殺す必要があるんだよね」
「いえ、しかしそれは……」、商談で言いよどむなど、いつぶりだっただろう。過去そのような経験をしたのは、数十箱の胡椒の値段を交渉した時や、没落貴族をだましてヒッポカムポスを手に入れた時くらいだ。そのふたつは自分の人生で一番おおきな取引だった。そう思い出すと、商人の口の端は隠しようもないほど上がっていく。
つまり今も同じくらいに、いやそれを超える人生最大の取引に相対しているのだと理解したから。
「どうなの? 別にやりたくなきゃそれでもいいけど? あ、話を聞いちゃったんだから、それくらいは理解してよね?」
「いえいえ、ルロワ様。心配にはおよびません。私は価格と価値の世界に生きる者ですので、あなたを妨害したり、あなたへ口止め料をせがんだりいたしませんよ」
それで、なにをお求めですか? と聞いたのは、会心のひとことだったと、その時は思った。マルセルとの商談は順調に進んだのだから。まずは魔王の情報へ馬1頭分の価格を前払いで。そして魔王が死んだのなら、王宮への販路確保の口利きを。ついでに「双方口外しない」と決めたのは、マルセルが魔王に殺された時、逃げる時間をかせぐためだ。
一世一代の大博打だった。今はその判断へ後悔するばかり。
(なぜだ? なぜあんな魔術師の小娘へ、自分の命を賭けてしまったのだ? 今思うと不思議でならない。あの時の私は、いったいどうしてしまっていたのだ?)
それが転生勇者の持つ認識改変によって植えつけられた感情であることなど、彼は知る由もない。それに思ってもはじまらないのだ。今は一刻も早く、この街から脱出しなくてはならないから。
暗い路地を急ぐ。足が水たまりへ無遠慮に侵入し、血痕のような泥が高価な服を汚しても。街の入口近く、自分の経営する宿(魔王が宿泊したところとはまた別の場所)と、そこにいる自分の愛馬へむかって。まばらな人影の中、機嫌よさそうにからんできた酔っぱらいを、護衛が乱暴に突き飛ばした。
ついに目的地へ到着した。急いで宿併設の厩舎――干し草と馬の臭いがひどい、木造の建物へまわる。息を切らせながら、「なんとか間に合いそうだ」なんてつぶやきつつ。
しかし彼は、間に合わなかった。
「――なっ⁉︎」、ぎょっとした。そこにはヒッポカムポスをなでる、黒い男が立っていたから。
間違いない。魔王の部下のひとりだ。
「動くな商人。そして膝を折れ。お前の脚がひとりでに歩く前に」
眼鏡のガラスを光らせて、男は腰の後ろへノコギリをちらつかせる。意味するところは明白だ。商人は言われずとも、自分が腰砕けになって、尻で地面を打つ音を聞いた。
直後、物陰からぞろぞろと衛兵が出てくる。干し草の影から、馬の後ろから、そして商人の背後へも。とくに自分の背中から強い気配がして、彼は震えながら振りむいた。
「あ、あなたは」、商人は息を呑む。少なくともネメアリオニアにおいては、黒ぶち眼鏡の男より有名人がいたのだ。ネメアリオニア王国お抱えの騎士であり、俗にいう勇者と呼ばれる黒い肌の戦士。身の丈ほどの両手剣をたずさえ、侮蔑の目で見おろしている、おおきな男。
「お前を逮捕する。罪状を聞きたいか?」、研いだばかりの刃物のような声。まだ刀身を滴る水が残っているような、冷たいもの。商人は恐ろしくなって騎士を直視できない。かわりに目線を前へ戻し、眼鏡の男へすがるように言う。「わ、私はどうなるというのですか?」
「知らん」、取りつく島もない。「私には貴様を逮捕する権限がない。だから彼ら騎士と衛兵がここにいるのだ。もし私が貴様を捕縛できたのなら、生きているのを後悔するほど辛い拷問を課しただろう。そうやってお前を影から操っている者へ、お前の手首を送り付けただろうに……至極残念でしかたない。ただしな――」
言葉を一旦切って、眼鏡の男サカリ・ランピは、そのガラスのむこう側へ少々嬉しそうに目を細めるのだ。
「グッリンカムビが夜明けを告げる前に、お前は夜明けのこない牢獄へ放りこまれるのだ。結局のところお前の運命は、毒蛇に噛まれて苦しむのか、獅子にかじられ悲鳴を上げるのかのどちらかだったのだ」
そこまで言って、サカリはヒッポカムポスへ視線をうつした。首をぽんぽんと叩き、「次はよい主人に出会えるとよいな」と声をかける。その目は商人を見る時と違って、穏やかでやさしいもの。
すぐに彼は厩舎から去ることに決めた。騎士へ「協力はこれくらいでよいだろう。後はまかせる」と言い、足音も残さずに月明かりの下へ歩んでゆく。
彼の髪が月の下で黒く輝いた時、ぴたり、足を止めた。
「貴様にもし来世なるものがあるのなら、今のうちに啓発してやろう。モンタナス・リカスから我々をつけまわしていたようだが、狼は鼻がよい。次があるなら、一時たりとも我々の風上へ立つな。それから空も飛ばぬほうがよい。そこにはカラスが飛んでいるのだから」
言い残し、こんどこそ彼は姿を消した。
震える商人は、騎士の太い腕によって立ち上がらされ、自分の恐ろしい未来を想像して失神したのであった。




