笑うゲシュタルトのオバケ 12
いちど魔王を殺すと決めたらな、それを速やかにこなすのみ。なのだけれど、自身の魔術のほうが優れている優越感であるとか、弱い相手に対する嗜虐心であるとか、そういったものがアルプスの雪のように心をいろどってしまうのもまた事実。
ドライアドの魔術師マルセル・ルロワは、どうせならじっくり殺してやろうと、相手の出方を見ることにした。頭上の魔法障壁の上、フェンリル狼が牙を突き立てているのが、少し気にはなるけれど。
対する魔王は従者と手をつなぎ、なにやら策を弄する様子。
「イーダ、力を貸して。<我が声を届けよ>」
敵は言遊魔術を1節唱えた。それがなにを意味しているのか考えようとする脳へ、頭上で発生するガリガリという音が邪魔をする。障壁に噛みつく狼が立てた、無意味な音だ。
残念ながら、レンガの家は息を吹きかけても倒壊しない。それに加えてこの家は、煙突のかわりに炎柱が立ち、子豚のかわりに先進魔女が住んでいる。
少々うるさかったので、ゆっくり後方上へ振り返った。「狼さんも一緒に釜茹でにしてあげるから、待ってて?」
「悪いが、せっかちなもんでな、お嬢さん。怖かったら耳をふさいでいるといい」
「冗談いうじゃん。狼さんも魔王も、今から特大の魔術1発で焼きつくしてあげるからね」
勝利の確信を得て、あざ笑う顔が微笑みに変わってしまった。視線を前に戻すと、魔王は祈りが終わったのか、まじめな顔をしてこちらを見ている。「あわれだなぁ」と思う気持ちをそのままに、魔杖に魔力をからめ、魔法の糸を縫う。
詠唱開始だ。
「――<定義開始>」
「――<定義開始>」
「っ⁉︎」
――違和感。
詠唱を中断してしまう。
魔王の口から聞こえたのは自分と同じ声。言葉にかぶさるように、ほんの少し遅れて聞こえた同じ詠唱。
「なに今の⁉︎」と思わず声に出してしまった。
対し、敵はべえっと長い舌をのぞかせる。そこにあったのは1枚の葉。アルファベットの「F」に似た文字が青く光っていた。
「口のルーン『ᚩ』を使った黙らせる装置。あなたの声を少しだけ遅らせて届けるの。これをやられるとすごく話しづらくなるでしょ?」
さっき両手を顔の前にかかげていたのは、祈りをささげていたのではなく、葉を口に含んでいたのだ。それこそ子どもだましの手段だ。
「ふざけないで!」
「Ig Nobel」
バカにされていると感じた。腹が立って、強引に再詠唱を開始する。しかし――
「――<定義開始、効果定義>」
「――<定義開始、効果定義>」
「……っ!」、どうしても意識してしまい、次の言葉が出てこない。
「Merde!」
「汚い言葉はだめよ?」
(――こいつっ!)
怒りが緑色の髪を逆立て、そこに生えたユリの花がフルフルと痙攣する。こんなくだらないことで自分の魔術が邪魔されていることに、突発的な火山噴火のような感情が腹の底から頭に抜けた。
ミシミシ! そんな彼女の頭上から、障壁が立てる不穏な音。
(だめだ! 冷静に!)
音がしたのは、魔法維持の集中力が切れかかり、障壁がゆらいでいるから。ゆれるレンガの屋根の上で、ニヤニヤ笑う狼の顔。
(相手の手に乗るな! 1発撃てればそれで終わりなんだ! こっちが圧倒的に有利なんだから!)
奥歯をキッと噛みしめて、怒りを封じこめた。
魔王がやっている妨害については、生前に似たような現象へ出くわしたことがある。それは友人へ電話をかけた時だった。
むこう側は勉強中だったから、ハンズフリーで会話するためスピーカーモードを使ったのだ。しかし携帯電話の調子が悪かったのか、こちらの声が友人側のマイクに入って、ほんの少しだけ遅れて聞こえてきた。
自分の声が遅れて聞こえる、たったそれだけのことなのに、会話は非常に困難になった。結局「ごめん、ちょっとそれ切って?」とスピーカーモードを切ってもらうくらいに。
今起こったのは同じようなこと。でも今回は相手に「それをやめろ」などと要求できない。どうやら頭の中で声が響いているから、耳栓も効果がないだろう。魔法障壁は「攻撃的な魔法や物理現象」だけを防ぐように展開している。周囲の音までさえぎるのが得策だとは思っていなかった。
「このPutain 、猿まねで私の魔法を汚すな」、マルセルは自分を落ち着かせるため、コントラバスのような低い声を出す。
「ののしり言葉なら『Nom de dieu de putain de bordel de merde de salope(神の名において、お前は母の嫌いなケツで、汚物だめの血まみれ娼婦だ)』が好きよ?」
「Saleté」
生まれてはじめて、地面に唾を吐いた。怒りの感情を物理的に体外へ出すために。
こいつは私を怒らせようとしているだけだ。そうやって集中力を奪って、障壁の維持を邪魔しているんだ。
ならこいつの泣き顔を見たければ、心の底から言葉に集中すればいい。言の葉さえ紡げれば、魔法は発動できる。
そう思考を巡らせていると冷静さが戻ってきた。深呼吸して、心の炎に水をかけ、かわりに魔力を充填する。
「下劣な魔王。その手はもう、通じないから」
「C'est dommage」
意識を集中し、言葉のひとつひとつを記憶の箱から大切に取り出す。
(言葉の裏には実像が書かれているんだって。vent vertが「晴天」を意味するようにね)
脳から心へ、心から口へ。それを読みこみ、溶かしこむ。
魔腺を満たして、口火を切るため。
魔術で魔力を魔法にするため。
「――<定義開始、効果定義、距離定義>――」
「――<Je commande、Liekin pilari、Birst af himni>――」
(はぁ⁈ こいつなに言ってんの⁉︎)
しかし三度、詠唱は止められた。紡いだ集中の糸は、魔王の口によって噛み切られてしまったのだ。
自分の声で語られるそれは、定義ごとに異なる言語。フランス語、フィンランド語、アイスランド語……。
(言葉の裏にある意味って、そういうことじゃない!)
連続した意味を持ち、ひとつの川となるはずの言葉たちが、異国言語の水門にせき止められてしまう。それは言葉をほぐされていくような、ひとつひとつの詠唱をバラバラにされていくような、妙な感覚。
「……なによそれ?」、頬を冷たい汗がつたう。
「Parlons ensemble?」、魔王は答えるつもりもない様子。
手を替え品を替え徹底的に行われる妨害に、こんどは怒りではなくとまどいが顔をのぞかせた。先ほどの『スピーチジャマー』なる行為とは別の手段。それよりももっと不気味で、不安をあおられる未知の攻撃。
「……Ferme ta gueule」、ふたたび心に響く警鐘から耳をふさぎたくて、マルセルは強気なセリフを口にした。でも脳裏をよぎるのは、燃えるノートルダム大聖堂の映像。
「Au pas camarades, au pas camarades」、いたずらっぽい笑顔の真ん中から、再び「べえっ」とあらわれた舌。ルーン文字の書かれた葉が、光りながらゆらゆらとゆれる。
子どものようなその顔に、マルセルはごくりと唾をのみこんだ。
(噓でしょ、なにされてんのかわかんない……)
動揺の中、ガリガリという音。魔法の天蓋が悲鳴を上げているのに気づき、はっと我に返る。
エサを弄んでいる様子の、嬉しそうなフェンリルの顔。なんども舌なめずりをして楽しそうに牙を突き立てる、狩りの最中の青い狼。
「お嬢さん、煙突を用意しちゃくれないか? 家の中で火を焚き続けると、煙がこもって危ないぜ?」、らんらんと光る両の瞳が、青黒い空にゆらゆらとゆれる。
「ねぇマルセル、扉を開けて一緒に行きましょう。謝肉祭があるのにお肉が足りないの。燻製よりもずっとおいしい生肉が、だいなしになるなんて見ていられないわ」
焚殺される身がわり人形は持ってる? と続けた魔王の言葉は、その裏に「いけにえはあなた」と意味を縫いつけられているのが伝わってきた。
その光景が、あまりにも自分への悪意に満ちていて……。
(……本気で私を殺そうとしてるんだ)
血の気が引いてゆくのがわかった。戦いがはじまってはじめて、背すじに冷たい汗が流れていた。今自分は劣勢にあると、心でなく体が告げているのだ。
(べ、別の手段は……)
即席で発動できる魔法であれば妨害を受けない。しかしそれは手元にない。非効率な魔法など取得するに値しないと思っていたから。
では弓矢や投げナイフなどの遠距離武器はあるだろうか? いや、もちろんそれもない。自動発動の防御魔法があれば、武器による攻撃手段など無意味だと判断したから。
(先進近代魔女宗しかないんじゃん)
あらゆる手段の代替になる1本の武器。魔王が持つ言葉の盾の前に、なんども受け流された文字の剣。
信じていたそれは、ずいぶんと心もとない。
「Au pas camarades, au pas camarades, Au pas, au pas, au pas♪」
楽しそうに歌う魔王は、闇夜で踊るピエロのようだ。その不気味な光景に、レンガの家が鉄の檻のように感じてしまう。
追い詰められていたのは、いったいどちらだったのか。
(いや! だめだっての!)
マルセルは、すんでのところで踏みとどまった。ぐらりと倒れそうになる体を、両脚で懸命にささえる。
(こいつらの狙いは私の障壁なんだから! 意識を乱すなって!)
腹筋に力を入れて、恐怖に変わりかけた感情を殺意で上書きした。体は劣勢を感じていたが、意識は違う。実のところ、敗北には程遠いのだと思い出したのだ。
(流されるな! ほんの10秒の詠唱で、それで終わりなんだから!)
事態を打開する必要がある。そして自分にはその手段がある。石造りの塔を焼けただれさせ、破砕させるほどの力を持った魔術が。
ならばもっともっと集中し、言葉に意味をこめればいい。鋭利な文字でもって、剣を研げばいい。
言の葉を、文字を、響きを意識して。深く、深く意識して!
キッと顔を上げた。
「遊びはおしまいにしようか。妨害できるもんなら、やってみなよ」、震えが残る声。
「たぶんだけれど、楽しいのはここからよ?」
「言ってろ」
相手を威圧するのではなく、自分に活を入れるため吐き捨てると、マルセルは腹で強く息を吸った。
次は最後まで唱えきるために。
「――<定義開始、効果定義、距離定義>――」
「――<Yo mando、Pilar de fogo、Objev se z nebe>――」
自分の声の妨害。でも負けない。
話す言葉は同じなのに、裏側に別の意味をこじつけられる。けれど折れてはならない。
「――時間定義、対象定義――」
「――両手指折り、Crash it――」
また意識がゆらぐ。「違う! 地を目指せっていうのは『墜落しろ』ってことじゃない!」と、心の中で反論をした。
それは悪手だったのかもしれない。言葉を意識しなくてはならないのに、意識すればするほど、言の葉が遠ざかってしまったから。手をのばしてつかもうとするのに、ひらりひらりと風に舞い逃げていくから。
詠唱の継続が困難になっていって、余分なことを言わないようにと、思考と体がこわばっていった。
(次の言葉は……つぎの……)
負けるわけにはいかないのだ。こんなくだらないことで!
(いりょくの、定ぎ!)
「――|威力定義《よりきょう大な力をあたえ》――」
「――加油――」
威力を高める意味のかわりに、火勢を増すような単語が出てきて。
(「油をくわえる」って⁉︎ そんなことしたら、炎がせいぎょできなくなる!)
詠唱の迷いは、思考が迷路に入ったかのよう。混濁はより深く、次の言葉をかき消していく。
(つぎは……かたちだ! かたちを!)
「――形状定義――」
「――The color of GUREN――」
あれ?――GUREN? 致命的な疑問。
(GURENというのは、なんだっけ? いろ? Couleur de la flammeのこと?)
炎が灰色に遠ざかる。
「――か、かく……」、手順がわからない。なにをするべきだったのか。なにをとらえようとしたのか。
えいしょうのさいごは、なんだったのか……。
「か……」
「……『Do it』?」
そもそも、なんでわたしは、ま王のくにの言ごをしっているんだ?
わたしはなに語で、マホウをトナエている?
わかラない……。アレ? ナンデふらんすごイガイノことばガ……?
(なんで?)
マルセルの思考が、単色に染められる。今まで世界を彩っていた多種多様な言葉が、風に流され飛ばされて、頭の中に浮かべる文字が、ゆがんでちぎれて消えていく。
「…………」
自分の口から出ていた言葉は、いったいどこの言葉だったのだろうか。自分が口にしていた言葉は、本当にフランス語だったのだろうか。そう考えるのすらおぼつかないまま、文字の筆記をするはずの脳細胞が、インク切れのペンを必死に走らせる。
でもかすれた言語は、もはや判別不能だ。
「マルセル」
目の前の魔王が一声かけ、片方の腕をゆっくり前にかざした。だらりとたれた手が、まるで蛇の頭のようだった。徐々に徐々に、それは鎌首をもたげ高くなる。あるはずのない獲物を狙うような目ににらまれ、マルセルはすくみあがってしまった。
「――< >」
魔王がなにかを唱える声。そして指が「パチン」と鳴る音。
べえっと出した舌の上、唾液で文字の消えた葉が白く光る。それに照らされ、意識と言語が彩りと形を戻した。
「なっ⁉︎」
「おかえり」
耳の奥、現実が一瞬で帰還したごうっという音が鳴った。それはMétroがとおりすぎるのを、遠くから見ていたような音だった。もしそうだとするのなら、自分は列車に乗り遅れたのだ。そう思ってしまい、あわてて魔王を問いただす。
「ま、魔王! なにをしたのさ⁉︎」
「白紙のルーン『ブランク』。『ウィルド』ともいうわ。運命や転換点、そして白紙そのものを――」
「だからなに⁉︎」
かぶせ気味に言葉を吐いてしまったのは、怒りやいらだちではなく焦りのため。2度目を含めた今までの人生の中で、最も強い悪寒をマルセルは感じていた。
「戦いに転換点がもたらされ、白紙に戻されたのだから、あなたの運命が決まったということ」
そう言った魔王が指さす先は、自分の頭上。そこからポタポタと冷たい雫が落ちてきて、服を濡らす。
「な……」、そのシミを見てから、彼女は恐る恐る見上げた。そこにいる者の正体を予感し、恐怖がこみ上げてきた。
白い刃とおおきな笑顔。こちらを見ているフェンリル狼。
「...Ah」
口が言葉ではなく、音を出す。
「知っているだろ、お嬢さん。絵本で読んだことがあるはずだ。狼の前でドアを開けちゃまずい」
――ああ、最悪だ。障壁が消えている。
星の光を反射する、妙に白くておおきな牙。ずらりとならんだその牙たちが、断頭台の刃のようで……。
だから「...C'est pas vrai」と震えるちいさな声は、恐怖に凍える死刑囚のよう。
「Adieu, Marcelle」、そして魔王は刑の執行を告げる裁判官。
ああ、命乞いをしたい。でも、怖くて言葉が出ない。
「Pa...Pardonnez-m」
――バチン!
絶望の中、すべてが真っ暗になった。




