笑うゲシュタルトのオバケ 2
遠く離れたカールメヤルヴィ王宮にいる、コックの骨53号さんに「見習え!」という思念を飛ばし、イーダは観光を続ける。おいしいご飯は食欲を満たしてくれた。先日のモンタナス・リカスも、ここ王都ル・シュールコーも、美味な食事に関して魔界とは比べものにならない。4畳半の奥行きしかないカールメヤルヴィの料理へ、味蕾へ深く広い喜びをあたえてくれるここの料理を見習ってほしかった。
(さてと)
お腹を満たしたその次は、脳へ知識を満たす番。せっかくサカリという先生がいる。もっといろいろなことを聞いておかなければ、もったいないというもの。
イーダの頭からは、知識を求める食指が脳から触手をのばし、王都のあらゆるものにからみついていた。要するに、彼女はまだ歩き足りなかったのだ。
前回の勇者災害に決着がついた3日後、獣化したバルテリの背に乗ってモンタナス・リカスを飛び出した。背中に人数分の騎乗用の鞍まで用意してくれてあったから、実に快適な乗り心地だった。その彼がとんでもない速度で大地を駆けること1日半、目的地に到着する。馬車だと15日くらいのところにあるネメアリオニア王国の王都ル・シュールコーだ。北欧の小都市を思わせるカールメヤルヴィと違い、フランスの大都市のような街といえる。
(あの看板はAuberge、あっちはForgeronかぁ)
多種多様な店名が看板をいろどっているおかげで、それを見る目は脳へ喜びを届けた。落ち着いた色彩の多いカールメヤルヴィの看板たちと違って、こちらの看板は暖色に満ちあふれている。
(Quincaillerie――金物屋さんは、鍛冶屋さんと別なんだ。あ、Librairieさん! 行ってみたいなぁ)
街を歩いているだけで水のように入ってくる情報に、よく脳の入れ物があふれないなぁと、彼女は自分のことながら感心していた。ならぶ店を見て、それがどんな店舗かを知るなんてこと、日本でだって普通にやっていたことだろうに……なぜかここでは知的な行為に感じていた。
そしてその理由を、彼女はすぐに知ることとなる。
(あっちの店は……Inn? あれ? この店はフランス語じゃなくて英語?)
違和感がタコ壺の中から触手をのばす。
(ん? そもそも、なんで私はフランス語が読めていたんだろう? あれ? おかしいぞ?)
吸盤のついた長い手が、グネグネゆれてのびてきて……。額にペトリ、ペチャリ、1本2本と吸いついた。いつしかそれは頭全体へからみつき、視界がだんだん覆われていき――
(私って日本語以外はほとんど読めないはずじゃ……。あれ? そもそも私が話しているのは……日本語なの?)
タコはブシャっと派手な音で、少女の顔面へ真っ黒な墨を吐く。覆われた視界をあわててぬぐうも、今まで正しく見えていた看板の文字たちが、違う顔をしていることに気づいた。
(な、なんで? これってなに?)
文字たちは、まるで記号のようにふるまっていた。さっきまでは「私は宿屋をあらわす看板ですよ」なんて丁寧な様相だったのに、急に「俺は縦線」「私は横棒」とすまし顔。今までと同じところに立っているにもかかわらず、なにが書いてあるかわからない。
(ああ! こ、これはヤバイ!)
おかげで語彙も散々な状態に。なにが起こったかはわからないけれど、とにかくよくないことが発生している。イーダは顔を真っ青にして、サカリへ助けを求めることにした。
「あ、あの、せんせい? わたしのことばわかる?」
「?……ああ、理解できるが?」
「もじが……よめないんだ……」
「そうか。まだ経験していなかったのか」、眼鏡の男は、少女のかたを「ぽんっ」と叩いた。そこにイーダなる少女の脳へつながる、オンオフ切り替えスイッチがついているかのように。
だから脳内でカチリと小気味いい音が鳴ったと同時、「あ! 戻った!」、イーダの認識が回復する。なにが起こったのかよくわからないけれど、ともかく文字がその意味を取り戻してくれたことに、彼女は青くなった顔色を元に戻した。
困惑したままサカリの顔を見る。「今の、なに? 急になにもかも読めなくなっちゃった」
「『ゲシュタルト崩壊』を知っているか? 文字を長時間見続けていると、その文字がなんなのかわからなくなる知覚現象の一種だ」
「あ、聞いたことあるよ。というか感じたことある。漢字がばらばらになっちゃうような、あれだよね?」
「そうだ。そして今のは、この世界特有の知覚障害『ゲシュタルトのオバケ』だ」
「オバケ⁉︎」、そう驚く彼女へ、サカリは一息つける場所を案内した。異世界からきた少女に対し、ゲシュタルトのオバケなる概念を説明するためだ。
10分後、紅茶をおごってもらいながら、イーダは新たな出会いをすることになった。それはとても興味深くて……せっかくの温かい飲み物が、不満な顔をして冷たくなるくらいだった。
サカリの話によると、そもそもこの世界には多言語が飛び交っているのだという。言われてみれば、アイノのコートに時々浮かぶ文字や記号には、英語のアルファベットもあれば漢字もあった。そしてそのような環境にあっても自然に言語が理解できるのは、神様のおかげ。神様が用意してくれたギフトのひとつ、『気の利いた翻訳』がすばらしい仕事をしているからなのだ。
「バルテリは狼の姿でも人の言葉を話せる。それを見聞きした時、発声器官と口の形が人間と違うのに、その言葉が理解できるのを不思議に思わないか? 答えは『Babel』がこの世界にあるからだ」
「見聞きしたものを、勝手に翻訳してくれるってこと?」
「そのとおりだ。君は日本語で話し私は別の言語で話しているが、ある程度のニュアンスを含めてちゃんと通じるのは、世界を覆う魔法であるそれのおかげだ」
「す、すごい魔法だね」
「ああ。しかしこれは完全な翻訳ではない。言語によって細かいニュアンスの差異は必ず発生してしまうから、その差異がなるべく少なくなるように『気を利かせる』だけなのだ。それに、少々やっかいな特性も持つ」
「やっかいな特性?」
「その存在を知覚した時、脳が混乱してゲシュタルト崩壊を起こしてしまうのだ。この世の人類が子どもの頃に1度は経験するはしかのようなものだ」
「ど、どうやって治療するの?」
「『別のことを考える』だけでいい。少々バカバカしいが、親は子どもに『それはゲシュタルトのオバケだ』と教える。そいつがあらわれたら姿をイメージし、適当な名前をあたえてやると満足して去っていくのだと。つまり、そうやって思考をそらし、知覚障害を元に戻すのだ」
(すごい! 本物の異世界の文化だ!)
イーダは感動してしまった。
地球ではありえない事象と文化があらわれて、今まさにそれを体験したのだ。それは魔法をはじめて感じた時と同じく、驚きを彼女にもたらしていた。あの時はサウナ室に吹いた白樺の風、今回は昼間の街中で出会ったオバケ。
でも今回のほうが衝撃的なしくみだった。自分が話すのも、聞くのも、読むのもすべて、世界律『気の利いた翻訳』が他者へ取り計らってくれていたから可能だったのだ。そしてその「翻訳さん」は時々オバケを放ち、「この世には怖い部分もあるから注意するんだよ」なんてやさしく警告してくれているに違いない。
「こんなことあるんだ! ありがとうサカリ! すごくおもしろい!」
その言葉にサカリはフッと笑みを浮かべた。「この笑い顔もはじめて見たものかも」なんて思うくらい、印象的な(ありていにいうとカッコイイ)しぐさだった。
「気に入ってもらえたならよかったが、放っておくと失読症や失語症を誘発しかねん。今後もあらわれるだろうから、対処方法を忘れないようにな」
「うん! この世界の人は、みんなこれを知ってるんだね!」
「いや、そうでもない。この世界に生まれ育った者は、そもそも『多言語が飛び交っている』という認識がないのだ。これを楽しめる人間は多くない」
「そうなんだ!」、ますますテンションを上げる。ならこれは転生者の特権なんだと、嬉しくなったがゆえ。知識欲が刺激された彼女は、つつかれたネムリグサが葉を開くように満面の笑みを浮かべていた。
そこへ潜水艦がとある提案を。
「イーダ! オバケに姿と名前をあげなきゃ!」
「あ! それはいいかも!」
せっかく異世界ではじめて会った個体。このいたずら好きのオバケへ、名前をつけて大切にしたい。イーダは「うーん」と頭を悩ませる。
思い浮かべるのは、白い体におおきな目、両腕を上げて手をたらし、三日月型に笑う口。ついでに、そこから出ている広い舌。外見は絵本のオバケそのものになってしまった。ゴーストのたぐいに会っていない彼女らしい想像力でもあった。
せめて名前は、と思うが、これから先もあらわれるだろう。なら、なにか共通した名前をつけたほうがいいだろうかと、イーダは変に凝ったことを考えはじめる。そしてそれは、凄惨な結果に終わる。
(化1号?)
イーダは頭に特大のブーメランが突き刺さるのを感じた。湖のほとりにたたずむ王宮から、骨さんや腐さんたちの手まねきが見えるようだ。そして口にするのだ。「魔界の命名規則へようこそ!」などと。
(化1号……)
頭に刺さったものを抜くと、派手に血が噴き出した。続いて乾いた脳がカランと頭蓋に転がる音。自分の命名規則が汚染されていることに、引きつった笑いすら出た。
(ごめんね化1号。後で愛称をつけてあげるからね……)
決めてしまったものはしょうがない。「のちほど愛称をあたえる」と妥協をして、オバケにオーストラリア先住民の武器を手渡した。彼は嬉しそうにそれを受け取り、片手でブンブン振り回しながら虚空へ消える。使いかたがわかっているかは疑わしい。
取り残された、ネーミングセンスのかけらもない少女。「名前、なんとかしなきゃ」とひとりごつ。となりから「名前がどうしたの?」と声をかけられても、「なんでもない」と返すしかない。そしてさっそく愛称を考えはじめた。
統一性のある、たとえば草木の名前や偉人の名前でもつけてあげられればいいのだけど。そう思っているとアイノがしつこく聞いてくる。
「名前のこと気にしてるの? イーダっていい名前だと思うけど」
「え? ううん、そうじゃないよ。イーダって名前は気に入っている」
「そうかぁ。てっきり魔王様に名前を刻まれたこと、気にしてるのかと思ったよ」
「……んん⁉︎」、一難去ってまた一難。聞き捨てならない言葉が発生。すかさずアイノへ追及を。「『刻まれた』ってどういうこと?」
「え? 魔王様から聞いたよ。真名を使って名を刻んでもらったんだよね?」
「……あっ!」
「まさか、君は気づいていなかったのか?」
シニッカの言葉を思い出す。「飯田春子へ、魔王シニッカより」というような前口上がついていたはず……。
「あぁ! しまった!」、一瞬にしてイーダは、それがよくない行動であっただろうことに思い当たる。
「そうか、気づいていなかったのか」
「まぁまぁ。私たちもそうだから気にしなくていいよ?」
この世界に「異世界からきた者が守らなくてはいけない20のルール」みたいなガイドブックがあるのなら、おそらく上から3つ目くらいに書いてあること。地球では概念があっても、本気で気にする必要なんてなかったこと。
「まあ『ルンペルスティルツヒェン』は彼女の所有物にしか効果がないといわれているしな。遅かれ早かれそうなっただろう」
そんな実情を知らされてなお、イーダは頭を抱え続けた。
(マズいよね⁉︎ これマズいよね!)
なにしろ、真名を用いて、悪魔と契約してしまったのだから……。




