笑うノコギリエイ 後編16
焼けた空が街並みを橙色に塗っていく。ゆっくり流れる雲よりも足早に地平線から歩いてくる。じきにそれは紺色のたれ絹をおろすだろう。
街は人々の声と足音で、やさしく明るい音響をもたらしてくれる。広場のバグモザイクは柵によって囲まれて、さっそくそこには記念碑が建設されようとしていた。人々が「喉元すぎて熱さを忘れた」わけではない。同義の「病治りて医師忘る」ではないからだ。その碑は世界の病であった災害を忘れないよう、語り継ぐためのものに違いないから。
夕方、イーダはひとつの冒険の終わりを感じていた。
宿屋の窓から見おろす夕焼けの道は、魔界に負けないくらい多様な人種が往来している。日本人の自分にもなじみのあるエルフやドワーフといった『指輪系人種』や、いろいろな種類の獣人種、竜人種や妖精種。人間種が全体の半分もいるのは、食べられる物が多いからだそうだ。外見での区別は難しいけれど、悪魔種もきっとこの中に歩いている。
(しれっと勇者も混ざっているのかな?)
事件を起こし、この世界を踏みにじってしまった男。彼の顔が消しようのない記憶となって頭に残っている。今なら不条理に思えるほどこちらへ攻撃の言葉を繰り返した彼の表情は、忘れろといわれても忘れられない。
きっとそれは油性ペンで描いたバツ印なのだ。洗っても綺麗に拭い去ることなどできないたぐいの。数年後にそれを見た時、自分がなにを思うのかイーダにはわからない。けれど、もしかしたらセピア調の哀愁が心へ去来するのではないかという予感がある。血のように赤い嫌な記憶ではなく、穏やかだけれど切ない気分にさせられるたぐいの。
それはシニッカから、彼が徹底的に敵対的だった理由を聞いたからだ。
「この前話をしたけれど、勇者っていうのはね、転生時にぐらつく橋で性格をゆがめられてしまうの。これは死んだばかりのその人へ、死の恐怖に対する特効薬を注入するようなもの。当然強い副作用がある」
「だから彼は私たちに、あんな強い言葉を使ったの? あの時は圧倒されちゃったけど、今ならわかる。はたから見れば不自然なくらいだったように思うよ」
「あれは私の存在も悪いのよ。たぶんあいつは誰かから『魔王が近くにきている』と聞いていたか、第六感なりなんなりで予感があったかだと思う。そして勇者は魔王を嫌う。これもビフレストがもたらした性格の改変ね。だからイズキは『このフードの女は魔王の手先かも!』『やっぱりそうだった! 絶対に許せない!』なんて具合に悪感情をエスカレートさせてしまったのだと、私は思っているわ。自分がゴーレムを暴走させたのに他者を責めるなんてこと、とんでもない行動だったことは否定しようもないけれど」
「理由は? ビフレストはどんな理由で『魔王を殺せ』なんて意識を勇者にすりこむんだろう?」
「なぜかしらね?」、肩をすくめるシニッカは、同時に「まあ被害者面するつもりはないわ。むしろ楽しませてもらっている」なんて言って舌をぺろりと出した。いたずらに言った、というよりも、本心から楽しんでいる表情で。
(そう考えると、彼の立場に立ったら「被害者面」をしたくなったのかも)
つまりイーダは、勇者イズキに多少の同情心を持っていた。ゆえに数年後振り返ってみた時、今回のできごとが悲劇というたぐいのものだと感じて、哀愁の心になると思うのだ。
それに重要な教訓も。シニッカに言われるまで、自分もゴーレム使役の決まりことなど知らなかったこと。それがユダヤ教に伝わる地球出身の決まりごとであることだって……。
つまり立場が違えば、今日食べられていたのは自分の腕だったかもしれない。
(責められないよね……)
イズキに配慮が足りなかったことは事実だろう。ゴーレムの一件に関しては擁護のしようもない。それに、彼から殺意をむけられたことも事実だ。
それでも責められないと思ったのは、自分自身の知識に自信がないから。この先、間違いを間違いと気づく確信など持てないからだ。
「~♪」
相部屋のアイノが上機嫌で宙を揺蕩う。そういえば潜水艦も知らなかったし、そもそも船のことをよく知らない。数日前、彼女の出自について「船って性別があるの?」と聞いた。返ってきたのは「多くの船は女性名詞だよ」という地球の常識。
15歳で死んだイーダは、この世界で生きるための知識が欲しくなった。自分ときたら、勉強へまじめに取り組んでいたにもかかわらず、世の中の仕組みというものをまるで理解していないのだ。
(いろいろなこと、知りたいな)
なんで夕日は赤いのか、なんで風は冷たく感じるのか。なんで文字や言葉がわかるのか、なんで魔法が使えるのか。
なんでこの世界は存在しているのか……。
天井に当たりゆっくりはね返ってくるアイノを見て、とりあえず目の前の疑問に理由を求める。
「上機嫌だね、アイノ」、人肉がおいしかったからと返ってきたら、自分の予測も悪くない精度だろう。そう心で思いながら、空中のアイノを見上げた。
「イーダがね、活躍したから!」
想定外の返答。照れくささがさわさわと肌をなでる。イーダはまっすぐほめられることになんて慣れていない。どんなリアクションをしていいかわからない。
そこで彼女は、得意技『話をそらす』を使うことに。けれど、「アイノは、なんで私にやさしくしてくれたの?」なんて……よけいに恥ずかしい返答がきそうな質問をしてしまい、技は失敗してしまった。
そこに潜水艦からの明快な回答が。
「それはねぇ、水兵の服を着ていたからだよ!」
えっ? と一瞬とまどい、でもすぐに思い出した。それは持っている知識だったから。
「ああ、セーラー服か」
しょうもない理由、なんて口が裂けても言えない。そのおかげで自分は彼女からの好意を得たのだ。それに、和服を着ている外国人が道に迷っていたら、転生前の奥手な自分であっても声をかけてしまっただろう。
「そうだよー」、にへらっと笑いこちらに降下してくるアイノ。気分がよくなったのか、ダークグレーのコートがエイのヒレのようにはためいて、魔法の文字や記号を浮かべる。彼女いわく、彼女の中にある、沈んでいった潜水艦たちの魂の名だそうだ。
英字、数字、時々漢字。そしてその中に――
目をクリッとさせてニカッと笑う、丸っこくて変なやつ。ちいさなヒレがついていて、ノコギリのような長い鼻を持っている、魚であろうなにか。
(――お魚さん⁉︎)
笑うそいつと目が合って、イーダの心がかき乱された。喜びに泣きながら笑うような、体験したことのない感情によって。
思わずアイノにだきついた。だって、感動のあまりじっとしていられなかったから。
「えへぇ? どうしたの?」
「ううん、ええっとね……」
知らなかった。でも知れてよかった。
あの日見た船の模型は、潜水艦だったんだ。
「私、アイノのことね。前世で少し知ってたよ」、喉の奥と目頭が熱い。
「本当に⁉︎」、嬉しそうなアイノの声が、それを加速させてしまう。
――ここは異世界。フォーサスと呼ばれるそれは、星にひとつだけ大陸を浮かべる、神が創りたもうた世界。
この日そこで、イーダは大切な友達を見つけた。
潜水艦のコートに描かれた笑うノコギリエイが、ふたりを見つめながら上機嫌にゆれた。




