笑うノコギリエイ 後編14
娘を脇に立たせ、ヴァランタンは書斎で魔王たち一行と机をはさんでいた。戦士たる彼の表情を、戦場にある時よりも険しくして。
応接机の上には2枚の魔法契約書が置かれている。自分のものと、魔王のもの。両方が鈍く赤い光を放ち、蛇のようにこちらを見すえていた。この契約書は取引の代償が求められるのを待ち構えているのだ。
娘は帰ってきた。勇者も死んだ。
果たされた契約に対し、代償という名の報酬を支払わなければならない。
ヴァランタンは無言のまま机の脇に転がっているストーンゴーレムの頭部へ目を落とした。その後頭部には赤い宝石が埋められていた。
(ゴーレムを暴走させたのは、勇者本人だったのか)
魔王から聞かされたことの顛末に、静かな怒りを感じる。
勇者イズキは先の戦争で遺棄されたゴーレムを発見し、起動しようとしたらしい。それは単純な興味本位であったのかもしれない。なぜなら、方法がわからなかったため、稚拙な錬金魔法を使用して無理やり動かした様子だからだ。もし本気で復旧させるつもりなら、まずはゴーレムを動かしている錬金術の仕組みを調べただろうに。
極めて残念なことに、イズキがやったことは半分成功してしまった。つまりゴーレムは息を吹き返してしまった。魔王によれば、彼の持つ『錬金術スキル』なる特殊で、強力で、あいまいな力のせいだという。
そしてもう半分は失敗だった。軍事用のゴーレムというのは、決められた指揮官の命令以外に従わない。遺棄した個体が敵に使われぬよう、相当に厳重な魔術が施されているのだ。だからこの個体は立ち上がったままの姿勢で、そこにいない指揮官の命令を待ち続けていただろう。
おそらく興味を失った勇者は、それをそのままにした。休息を命じないまま、野に放置した。
この世にはさまざまな決まりがある。たとえば「土曜日は教会に行くべきである」とか「木炭・硫黄・硝石を混ぜてはならない」であるとか。そして「金曜日の日没から、土曜日の日没まで、ゴーレムには休息を命じなければならない」といったものも。
今回破られたのはその決まりごと。休息を命じておかないとその巨人は暴走し、周囲の生物を見境なく攻撃してしまうというのに。
この世界の常識だ。そしてその常識は、見事に足蹴にされてしまったのだ。
同行していた女性2名が、たまたま別行動を取っていたのも運が悪かった。そもそも古くからの係争地であるモンタナス・リカスでなければ、イズキの目のつくところに軍事用のゴーレムが遺棄されていることもなかっただろう。
(運が悪かったとも言えるが、それでも常識をわきまえない身勝手な行動だ。……しかし)
しかしその「身勝手さ」については、娘を政治的に利用するため厳しくしつけた自分にも当てはまる。少なくとも自分はそう思うのだ。世界の都合を考えられなかった彼と、娘の感情をないがしろにした自分と、なにが違うのだと。
再び冷や汗が出てくる。罰を受けるのは自分も同じなのだから。
「お父様……」、娘の声。その苦しそうな表情を、正面から見てやれる余裕が彼にはなかった。机のむこう側に座る悪魔の一言で、自分の人生は決められてしまう。窮地に立たされているから当然、前むきなことなど考えられない。死への恐れとか勇者への怒りとかの負の感情以外に出番はない。
静かに深く息を吐きながら、ヴァランタンは視線を正面へ戻す。そこにいる魔王は、言葉を待っているかのよう。時折舌をちらつかせて、まっすぐこちらを見返していた。
じっと見すえる悪魔の視線。沈黙の時間が部屋の空気を冷やし、悪魔召喚の時と同じように部屋の家具たちを凍えさせている。獄中の死刑囚であるヴァランタンの精神は、ノコギリの刃で傷つけられていった。
「……代償を、うかがいたい」
耐えかねて質問を喉から絞り出す。横でフローレンスが息を呑む音を聞きながら。
「では、お前の右腕をもらおう」
(――⁉︎)
2枚の魔法誓約書が赤い光を強く放つ。同時にズルリ、と右腕が袖の口からのびて、そのまま重みで床を目指した。重い音を立てて落ちたそれは、血も出さずに床へ転がる。
バランスを失い、ヴァランタンは左ひじを椅子についてしまった。呼吸が短く速くなる。汗が全身の服を濡らす。
(魔王はなんと言った?)
簡単な言葉、そして明確な事実を受け入れられなかった。予想外だったのだ。もし今の彼を絵に描いたのなら、「唖然」というシンプルな題名がそれを見る人々へ納得する心を提供しただろう。
そんな彼をよそに、魔王は席を立ち、落ちた腕を両手に取る。誕生日にプレゼントでももらったかのような、嬉しそうな表情をして。
(なにが起こったのだ? 私は助かったのか?)
「お父様ぁっ!」
娘が肩にだきついた。泣いているのは、親の命が助かったという安堵か? それとも他者の肉体が代償になった懺悔か?
ヴァランタンにはそれがわからない。今の状況が幸運か不幸かもわからない。
わかるのは「命を奪われなかった」という事実だけだ。
「見送ってくれるかしら?」
魔王は袋に腕を入れ、従者をともない歩き出した。あれだけじっと見つめていた男に興味を失ったようだ。背すじを立てて歩く姿は、人を切り殺して仕事を終えた両手剣のようだった。
ヴァランタンは立ち上がろうとしたが、体の左右で重さが変わったがゆえ、戦士らしからぬ足取りになってよろめいた。それを泣き顔でささえる娘の顔が近くにきて、この空間に唯一の癒しを彼へあたえた。
自分は生きている、娘もここにいる。彼は心の中でもういちどその事実を認識し、思わず口を開いた。
「すまない、フローレンス。ありがとう」
そんな言葉を言うのはいつぶりだったろうか。いつから自分は、彼女の父親としての役割を放棄していたのだろうか。
「ごめんなさい、お父様。ありがとうございます」
謝罪と感謝。親子だったからなのか、ずいぶんと似た言いぐさ。でも同じものを共有しているという感情は、彼らふたりへ冬場の毛布のような温かさをもたらした。
魔王をあまり待たせてはいけないだろうと、ヴァランタンは名残惜しさを抑え、玄関へと案内する。部屋から出て階段をおり、ホールを抜けて玄関口へ。となりに歩く娘に心地よさすら感じながら。
「ここまででいいわ」、屋敷の入口で魔王はふたりを止めた。2,3歩前に歩を進めると、従者と一緒に振り返る。「ヴァランタン、今回の一件は失点だったわね。点数稼ぎのライバル貴族が、きっとあなたの地位を狙うわ」
「……はい」
「辺境において国王の右腕たるあなたが、国外だけでなく国内にもトラブルを抱える。ラウール王も対応にさぞ苦慮されることでしょう」
言葉が辺境伯へ突き刺さる。しかし返す言葉もない。娘の件は他の貴族から厳しい追及を受けるだろうし、国境線のむこうでは隣国がその機を逃さず、ゆさぶりをかけてくることだろう。
我が親愛なる王へ多大なる不利益をもたらすかもしれない。そうなった場合、はたして私は自分を許せるだろうか。
ふたたび眉間へ深いしわを刻む彼に、フローレンスがそっとよりそう。苦悶を共有するかのような所作に、魔王は目線をうつして続けた。
「せいぜい、そうまでして取り戻した娘を大切にすることね。あなたの期待に応え努力を怠らなかった、大学主席の優秀な子よ」
「はい、そういたします」
娘をだく左腕に力が入る。それに負けじと応え、自分の体にしがみつく腕が温かい。
そんなふたりの姿へかけられたのは、教訓のような魔王の言葉。
「――将来、お前の右腕になるかもしれないのだから」
背をむけながらそう言い、彼女は歩き去る。こんどこそ振り返ることはない。
右腕を失った男は、それを見送りながら思うのだ。勇者イズキは愚かだった。けれど自分も愚かだった。そうでなかったのは、だまされて翻弄されたフローレンスだけだったのではないか、と。
にじむ視界を娘にうつす。服にしわを作る、妻に似た細い手に落ちたのは、誰の涙か。
悪魔が去り、だき合う親子だけが残された。
ホールが温度を取り戻し、泣くふたりをやさしく温めた。




