笑うウミヘビ 54
今は8月、活気ある季節。けれど体がとってもだるい。だから「5月病があるなら、8月病もあっていいじゃないか」なんて思うのだ。夏の熱気にさらされた体が五体満足でいられるはずもなし。汗と一緒に正気を蒸発させていき、カリウムとかマグネシウムとかヤルキニウムを大気へ溶かしていく。だから夏の雲はあんなにもやる気満々で雨を降らせていたに違いない。
自然の摂理を捏造されたことに、入道雲が苦情申し入れをしようとした直前。魔女のイーダは机へパタリと突っ伏して、自主的休憩という名のサボタージュを決めた。
ああ、書類仕事が多すぎる。手が痛いし、目も痛い。なんとなれば腰だって痛い。今誰か――バルテリやサカリ、もしくは王に呼び出されて今はいないトマーシュさんあたりがあらわれて、書類束をかっさらって「後はまかせろ!」と言ってくれたなら、感謝をとおりこし惚れてしまいそう。
そんなイタイことを考えている彼女は、とりあえず同じ部屋で口から魂(エクトプラズム?)を出している魔王様のほうをむいた。
「ねぇシニッカ」と声をかける。彼女はピクリと微動したのち、宙へ立ちのぼる自分の魂をするりと口へ呑みこんだ。で、負傷していた時のほうがまだ生き生きとしていたほど疲れ切った顔をむけてきた。
「なあに? 誰かへ書類仕事を押しつける策を編み出したのなら、すぐにでも昇給申請を出しなさい。受理するから」
「ふふ、そうじゃないよ。私も疲れたから、今のうちにヤネス2世のことを聞いておきたかったんだ。同じ作業の繰り返しで凝り固まった頭を、新鮮な知識欲で刺激してほしいから」
「頭を使う作業の合間に、頭を使って休もうというわけ? 今に知恵の亡者がヴァルホッルからあなたのところへスカウトにくるわ。で、どうしたというの?」
「『Πεμφρηδώは王とともになにをもたらす』の?」、端的な質問。スラヴコの白昼夢演説に割りこんだ時、ヤネス2世が口にした言葉だ。トリグラヴィア王国の守護獣はグライアイ。その力は王族・貴族・平民という3つの身分に対し、経済力・戦力・資源力という3つの力が割り当てられているという。
それをどうやって実現していたか知りたかったのだ。
「グライアイの長女、ペムブレードーの意味は『いじわる』。さて、思い当たる節は?」
「……まさか、それってヤネス王のふるまいのこと⁉︎ じゃあさ、グライアイの力のひとつって、王がいじわるだから発現していたの⁉︎」
「たぶんね」、首をかしげ、魔王様は少々あきれ顔。そりゃそんな表情にもなるよと、イーダもあっけに取られてしまう。
つまりだ。グライアイは「王族・貴族・平民」がそれぞれに対応する行動を取った時、国へ利益をもたらす国家守護獣なのだ。
「王族は『いじわる』だと経済力が増すのかな? 戦力に対応する貴族は、ええと……エニューオーって『好戦的』だっけか?」
「ええ。きっと戦争に望む時は兵数以上の戦力になるんでしょう。そしてデイノーたる平民は『恐慌』ね。平民が恐慌状態だと、国の資源力が増すのだと思われるわ」
なんて使いにくい力だろうか。各々が役割を演じなければ、グライアイの3姉妹はまったく力を発揮してくれないのだから。
(でも、待てよ……)
逆に考えてみる。その3つがそろって力を発揮する場面では、グライアイは強力な守護獣といえるだろう。
そう、たとえば戦時なんかは。
「そうか。この国が強国のはざまにあっても生き長らえていたのは、戦争の時に発揮する力が強かったからなんだ。王は戦時に敵味方へいじわるな命令を下さなきゃならないだろうし、貴族たちは私兵をかき集めて好戦的になるだろうし」
「平民にいたっても戦争への恐怖は自然とかき立てられるでしょうね。サカリの調査では、過去の戦争で帳簿の合わない税金徴収、都合よく雇用できた傭兵たち、いきなり増えた天然資源量が記録されているとのことよ。そうやってなんとか危機をしのいできたんでしょう」
「それは……今回もそうだったのかもね」
この世界にくるまでギリシャ神話のグライアイなる登場人物の名前なんて知りもしなかった。今でもペルセウスに脅された人たちくらいの認識しかない。でも敵にしたら、やっかいこの上ないだろう。とくに国と国との戦いにおいては。
「人は見かけによらないなぁ」なんて月並みなことをつぶやいてしまう。ヤネス王しかり、グライアイたちしかり。
それを聞いて、シニッカは「ふふっ」と笑う。「最初の印象と違う、というのなら、アム・レスティングだってそうかもね。ストリーマーだった彼女も、今や王妃になろうとしている。異例の大出世っていえるんじゃない? 頂点にいた配信者が配信を取り上げられたと思ったら、頂点にいる男の妻になったのだもの。もっとも彼女がそのままの容姿と名前でいられるとは思わないけど」
「アムさんなら容姿も名前も変えられるから、その点においては苦労しなさそう」
たしかに彼女も見かけによらない人生を歩みそう。そもそもディランへ毒をかけたのだって、かわいらしい外見からは想像もつかない行動だった。
(王妃様かぁ)
どんな人の姿を取るのか、少々楽しみでもある。もちろん彼女は仲間を失った悲しみをかかえたままなのだろうけれど、すべてを失うよりずっとマシな人生だと思うから。
彼女自身もそう考えていることを切に願った。
と、「そうね」とひとつ返した魔王から、突如するどい質問が。「あなたにおいてはどうなのかしら?」
「私か……」
重要な問題だ。おそらくこの世にきてもっとも重大なことがらであり、忘れちゃならないほど大切なことで、くわえて非常にナンセンスな問いでもある。
――私はいったい、なにものなのだろう? なんて。
「イーダ。あなたはどうやらIida Harukoでも、Iida Halkoでもない。なんという真名を持つ存在なのか、あなたさえ知らないでしょう?」
「うん、わからない。正直思い返すたびに困惑しちゃう。生前の親がくれた名前も、この世でシニッカがくれた名前も、どっちも自分をあらわすネームプレートに書かれていないだなんて」
そんな状況にもかかわらず、事実に苦悶することはなかった。実感がわいていないだけ、ともいう。名前がわからないからといって、自分の存在そのものが否定されているわけではないから。
気持ち悪さが残るのも事実だけれど。
「なんだか不思議な感じだよ。『白樺の魔女』とかいう異名で呼ばれているのに、その本当の名前が自分でもわからない。なんだか正常な状態じゃない気がしてさ」
「よく言うわ。どうせあなたのことだから『魔女として真名がわからないのは、とってもお得!』くらいに思ってるくせに」
「バレたか」
まあ正直、そんな程度なのだ。パズルのピースひとつが箱に入っていなかった、みたいな多少の気持ち悪さがあるだけで、そこに描かれている絵が見えなくなるわけじゃないんだから。
とはいえピースを見つけるためにあちこち探す羽目になるだろう。そう想像していた魔女は、突如発生した聞き捨てならない言葉の来襲を受けることに。
「――実は私もよ」
「え?」、魔女のイーダは情報処理が追いつかない。「どういうこと? シニッカっていう名前は、真名じゃないの?」
「魔王シニッカ、あるいはシニッカ1世というのは通称であり、私の自称よ。私の真名は私も知らない。エミリーかもしれないしハナコかもしれない。もしかしたらドクのお気に入り『パラペチャッニ』なのかもしれないし」
「そ、そうだったんだ」とまずは魔王の言葉へ困惑した。不意打ちを受けて硬直した状態だ。でも、そこは気心知れた仲。すぐに脳みそはいらない箇所へ指摘を入れるために作動する。「あ!『真名がわからないのは、とってもお得』って、シニッカ自身も感じているでしょ!」
「バレたわね」
顔を見合わせた。ちょっとの時間の沈黙があって、すぐそれはクスクスという声に変わる。
「あはは! 私たちは正体不明同士だったんだね!」
「ふふっ、困ったものだと思わない? 私たちが死んだ時、墓石になんて彫ればいいのかわからないだなんて」
お腹をかかえながらも思うこと。それは「異世界フォーサスらしいな」なんてこと。
この世は謎に満ちていて、それは自分の名札なんていう身近なものにすら干渉してくる。魔法も言語も多様な種族も。組織も国家も、大陸の構造も。この星が存在する理由だって同じ。
みんなそろって謎のまま。
けれどいいのだ。それこそが楽しみなのだから。
「世界の謎、解き明かしたいなぁ! 私はこの世に転生してきて、本当によかったよ!」
「あなたならやりかねないと思わせるのが恐ろしいわね。そうだ、決めたわ! あなたの詩的な言いかえに『知識の亡者』を追加しましょう!」
楽し気な声がふたりぶん、異国の古城へこだました。それは世界で一番特異な存在といわれている魔王シニッカと、世界で一番特異な存在になる魔女のイーダの笑い声だ。
彼女らは仕事の最中だというのにもかかわらず。
机の上、放っておかれた書類束が、インクをジトッとにじませてふたりを見上げる。ふきだしがあるのなら「早く仕事をしろ」だったろう。となりでは長いことふたをされていない朱肉台も「お肌がカサカサになる!」と開け放った口で文句を言いそう。まだたっぷりとインクを吸い上げているガラスペンにいたっては、転がされたままの死体のような状態で、先端から黒い呪詛をポタポタと吐いている。
残念ながら魔界の住人2名においては、彼らの都合なんて知ったこっちゃなかった。
音符のような声を宙に放り、人生の楽しさを歌っている最中なのだから。
その歌唱は、しばらくして戻った魔界のドクターの「僕につばを飛ばさないで、働いて?」という、冷め切った苦言によって中断されるまで続いた。




