笑うウミヘビ 53
3古城のひとつ、小川が城内をとおっているリニ・クロブク城。リニ・クロブクは「川の帽子」なんて意味。どこか無邪気なニコリーナ・クネジェヴィチ公爵にお似合いのかわいらしい名前だな、なんて魔女は思っている。
今、ヴィヘリャ・コカーリはそこに部屋を借りていた。ニコリーナの好意で拠点にさせてもらっているのだ。世界樹教派冒険者ギルドの秘密基地的な地下室も魅力的だったけれど、この場所にはかなわない。古いがゆえ窓もちいさく、城内はちょっと暗いけれど、中世ヨーロッパな雰囲気たっぷりの空間には心を躍らせてしまうのだ。ふぞろいでゴツゴツした壁も、苔だらけの井戸も、門にある侵入者を迎え撃つための投石穴も。塔の上層階にあるトイレなんか衝撃的。壁の側面に用意された穴をとおって、数十メートルも下に排泄物を投下するのだから。
まあちょっと刺激的すぎる光景だけれど。
とりあえずそれは置いておいて、今は中庭にある来賓用の建物の中。改装されたおかげか窓にはちゃんとガラスがはめられており、しっかりとした陽の光が差しこんでいる。部屋の造りも豪華そのもの。来賓を心ときめかせるように、調度品たちが胸を張っていた。
そのひとつ、黒檀で作られたおおきなテーブルの上。たくさんの紙束たちが背比べしているのは、これから大量の書類仕事が待ち構えているから。
魔女は肩こりの予感からそっと目をそらし、今回の依頼のことについて口を開いた。
「ねぇシニッカ。最初からヤネス2世の呪いを解除するって決めていたの?」、ペンやインクの準備をしながら、同じくろうと印章を用意する魔王へ質問。
「サカリやアイノたちから情報を手に入れた時には決めていたわ」
「茶化すわけじゃないけどさ、ヤネス王じゃなくたって、シニッカの行動は『ツンデレ』な態度に思ったんじゃないかな」
「ふふっ、あの呪いが気に食わなかっただけよ。生まれてきたものの選別なんて、許されるのは小麦の品種改良くらいでしょ? ま、あの仕組みがだいなしになったことによって、過去のトリグラヴィア王へ悪意を吐けたことについては満足してる」
魔女は「いいことしたね」なんて言わない。かわりに「シニッカらしいよ」と応じるのだ。『まじめシニッカ』が地域の安定のために解呪を選択したことも、『いたずらシニッカ』が過去の王族へ舌をべぇっと出したことも、非常に彼女らしいと感じるから。
ふふ、と微笑みながら準備を進める。今回、勇者災害の証明書をもとめるだろう人々は、貴族たち、商人たち、冒険者たちに傭兵たちなどなど。しかたなくスラヴコへ協力してしまった者たちもそこにふくまれるから、とどこおりなく渡さなければ。逆に完全に敵対した人が手に入れてしまわないよう、審査だって必要になりそう。
「後始末って大変だね」、椅子に固定されたまま一日中机へむかう日々を想像すると、早くも自分の体が「えぇ~、本当にやるの?」と眉間へしわをよせ、早めの肩こりを誘発するというもの。苦痛を少なくするために、手首の下へ置くやわらかい布でも用意しておこうか。
「今回は証明書だけじゃないしね。トマーシュの件だってあるわ」
「彼はどうするんだろう? 操られていたことを証明できれば『無罪である』っていえそうだけど、問題は本人の心だと思うんだよね。かなりハードな状況に置かれていたわけだし」
「幸か不幸か、彼にはフギン・ムニンという理解者ができたわ。沈んだ心を癒すことくらいできると思う。ドクだっていることだし」
シニッカの言いぐさへ「『幸か不幸か』? 普通に幸運だと思うけれど……」と口にしようとしたイーダは、逡巡考えやっぱりやめて、「もう……」とひとつ苦笑い。魔王様ときたら、さっきサカリに言われた「ウミヘビ男に勝つと自信満々だったのに、ずいぶん手ひどくやられたではないか」という皮肉を根に持っている様子なのだ。
とりあえずそこには触れないでおこう、思った矢先に足音が。聞き慣れていないけれど聞き覚えのある、ゴツゴツとした重い音。うわさをすればなんとやら、当のトマーシュさんがきた。
「私に手伝えることはあるか?」、思ってもみない申し出。顔つきは無表情7割、ちょっと思うところがある部分3割。まだ心の整理がついていないから、手を動かしたくなったんだろうと、こっそり魔女は分析した。
「ありがとう、トマーシュさん。今から白紙に定型文のハンコを押印していくんだ。そのお手伝いをしてくれると助かるよ」
「もちろんだ、やらせていただこう。そうか、勇者災害の被災証明書は、簡易的な活版印刷で作られていたのだな」
「うん、そうなんだ。枚数が必要になることも多いからさ」、魔女はそういって長方形の大型ハンコを見せる。書き出しに押すひとつは「本書はカールメヤルヴィ王国王室によって発行された、勇者災害の被災を証明するものである」。その下にもいくつか種類の違う判を押していくしくみだ。手書きの部分をなるべく少なくして、ヴィヘリャ・コカーリの面々が腱鞘炎にならないように。
書類をならべたり、朱肉台にインクをたらしてなじませたり。そんな作業をやりながら、イーダはトマーシュのこれからを聞いてみた。
「ひと段落したらトマーシュさんはどうするの? ここに残る?」
質問はシンプルに。でもあえて口にしなかった重大な事実が、おたがいの共通認識にあることを自覚しながら。
それはストリーミングというしくみがこの世から消え去ったことだ。あの力は勇者ディランに奪われていて、ゆえにその人が死んだ段階でこの世から消えてしまった。
だからここに残るかと聞いたのだ。本来自分のものになるつもりだったストリーミングがなくなっても、ダンジョンの多いこの国で暮らすつもりなのかと。
まあ、なんとなく答えはわかっているけども。
「ああ、そうするつもりだ。実は、あらためてヤネス王に声をかけていただいたのだ。『貴様には働ける場所が必要だろう。それも仕事が切れぬくらい多くのな。ならばダンジョンの多いトリグラヴィアこそ最適だ』と。ありがたい話だ」
やっぱり予想どおりだった。陰謀に巻きこまれてしまった彼には、なるべくそういうものから遠い場所での任務が気楽だろう。それこそダンジョンなんかの。
それに、現在トリグラヴィア王国は勇者を雇っていないから、ヤネス2世にとっても利益のある話。双方ともに断る理由もなさそうだ。
「実はな、サカリが王に推薦してくれていたらしい。彼には感謝してもしきれない」
「サカリって裏でそんな話もしていたんだ! 彼らしいよ。もちろん、彼があなたのことを高く評価しているからだろうけど」
「それも嬉しいことなんだ。地上におりてから、私へ善意で接してくれたり、信頼してくれたりした者なんていなかったからな」
ほっこりしてしまうお話だった。「サカリはなかよくなると、あの手この手で支援してくれるなぁ」なんて、イーダは自分がいろいろ世話を焼いてもらっていることをあわせて感謝する。
とまれ、気を取り直してトマーシュのことを。「冒険者ギルドに入るの?」とか「王の護衛とかは引き受けるの?」とか、あたりさわりのないことを聞こうとした直前。
青い髪の蛇少女が、舌をちらつかせながら横入り。
「結構なことだけれども、目標を立てたほうがいいんじゃないかしら? ダンジョンに潜るといったって、戦いに明け暮れるだけじゃつまらないと思うけれど?」
「目標? それはたとえば金を稼いで家を建てるであるとか、高名なダンジョンをすべて制覇するであるとか、そういうものか? たしかに仕事をやり続けるのには必要なことだ。チャレンジを続けるという意味では、強い化け物を倒すというのもそこにふくまれるのだろうか。あるいは複雑な場所を踏破したいなど……あ、いや。自分で言っていてなんだが、少々私のノリではないな」
ちょっと口数が多いのは吐露の予兆かな、なんてイーダは思う。地上におりてからロクなことがなかった彼にとって、話したいことはこの国の麦穂ほどにもあるだろうし、と。
けれど魔界の王様はちょっと違う意見のよう。
「短期的にはそれもいいかもね。けれどあなたは、最初から自分の欲望を捨てていないように思えるのだけど?」
彼女がこういう意見を言うのは、決まって核心をついている時。「欲望を?」と返した彼自身も興味津々に見える。それを知りたがっているような、ともすれば自分じゃうまく言語化できないから、代弁してほしいと言っているような。
ゆえに魔王たるシニッカにおいては、勇者のそんな問いにバシッと答えてみせるのだ。
「――『地球に戻ること』、でしょ?」
「それは……」
彼が言いよどんでしまったのもうなずける。死してこの世に転生した身として、魔女だってその雲をつかむような困難さを感じ取っていたから。同時に勇者という強力な個体であれば、手段を見つけられるのかもしれないという思いもあった。
今回の戦いでわかったことがある。というより、今まで言い聞かされていたけれど、ようやく実感できたことが。
この世界フォーサスと、地球という場所は、ひとつの橋でつながっている。
(フォーサスの言語や文化は地球由来のものだ。こちらとあちらは、時間の進みも同じだ。だからふたつの世界はならんで存在していて――なにより私たちはその橋をとおって、今ここに立っている)
「ま、あなたにそれができれば苦労しないでしょうけれど、あなたはそれを実現するためなら苦労するだろうなって思うの。ああ、別に気をつかっているわけではないわ。あなたは勇者。強い存在であり、この世のバランスを崩しかねない」
「ああ、どうやらそのようだな。あの黒い水晶を見れば、自分が危うい存在だと認識もできる」
「でしょう? ゆえに帰る手段を見つけるのなら、安全な方法を探すと誓ってほしいわ。フギンとムニンが私のところへ、沈んだ顔をしながらあなたの報告を持ってこないようにね」
サカリを人質にした、ちょっといじわるな交渉術。
「誓おう。断固としてそうしよう」、まんまと勇者から言質を取った。
シニッカは自身の役割をちゃんと果たす人だ、そうイーダは感心した。自分が勇者災害へ対応したり、それを予防したりする存在であることを忘れない。まさかこんなすきをついて、相手に約束ごとを取りつけるとは思わなんだ。
しかも勇者の側にもちゃんと腹落ちさせるだなんて。彼の表情が先ほどまでとはおおきく変わっている。無表情7割・不安3割だった顔つきが、いつの間にか希望10割になっているのだから。
(これでトマーシュさんも、魔界に敵対しない勇者の仲間入りかな? ずっとそうだといいなぁ)
ふと、なんだか不思議な感覚が魔女をつつんだ。不快ではなく、むしろ「今って私、すごくおもしろいことになっていない?」と気づいたから、胸のあたりが楽しさにくすぐられたのだ。
トリグラヴィアという外国にきて、そこのお城でお仕事をしている。世界でも屈指の強者に分類される人と、この世界の魔王と一緒に、事務作業に従事している。それはとっても異質なことで、特別な時間で、数奇な出会いを神様へ感謝したいくらい。
1年前は違った。親の建てた家から重い鞄と心を持って学校へ行っていた。往復する際、通学路をはずれることなんてなかったし、その道すがら世界的に有名な人と会うことだってなかったのだ。
そんな特別な仕事は、このあともたっぷり続くだろう。今日の夕方くらいにはすっかりうんざりしてしまい、「手が痛いよぅ」とか愚痴を口からたれ流しているかもしれないけれど。
だから寝る前にちゃんとお祈りしようと思った。「今日もとんでもなく非日常な一日をあたえてくださって、ありがとうございます」と神様や天使様に伝えるために。
そうやって最高の一日を、自分でたっぷり噛みしめるために。




